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さらば、「頭でっかち」思考人生!―「腰紐生活」のすゝめ
「じぶんは最善を尽くし、学び、生きる道しるべを見出そうとしている。でもいまいち、(頭で)学んだことが心に入ってこない。」
これが三十代を通しての私の悩みでした。福音派の神学校に通っていた時もそうでしたし、その後各種学びをしている時にもその悩みがつきまとっていました。
約二年半前に、普段着物で生活するようになり、自分の心身に驚くべき変化が訪れたのですが、なんとそれは、「頭でっかち」の信仰への〈霊的漢方薬〉としての効用も果たしていることが明らかになってきたのです。
今日はみなさんに、自分の体験に基づいた腰紐生活のすばらしさを共有したいと思います。
やっぱり日本古来の「腰肚文化」はすごい
さて、日本古来の「腰肚(こしはら)文化」とは何でしょう。これは言葉で説明するよりも一枚の画像をお見せした方が分かりやすいと思います。
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黒澤明監督作『七人の侍』九蔵の構え。
無口で凄腕の剣豪。根はやさしい。
懐を深く。上半身は力まず肩の力を抜く(「上虚」)。
肚を据え、動揺しない重心感覚。
リラックスしながらも集中した身心の状態。
緊張と弛緩の絶妙な調和。(写真)
これがザ・腰肚文化であり、「道」と名のつく日本の伝統芸能、精神修養はすべてこれを基にしています。心身の姿勢ここに在り、です。(註1)
日本には「肚を据える」「肚が決まる」「肚を割る」など「肚」が含まれる慣用句が実際数多くあります。
「肚」に宿りし「私」感覚を取り戻したい
20年以上消化器内科医として臨床をされてきた城谷昌彦院長は、「肚を感じる」という随筆の中で次のように書いておられます。
日本人は「私」というもの(魂)はもともと「肚」に宿ると考えていたことがうかがえます・・
江戸時代までの日本人は、今よりもっと肚を感じることが多かったと思われますが、その要因の一つに着物を着て帯を締めることで丹田を意識しやすくなり「肚」からの感覚が感じ取りやすかったのではと推測されます。きっと重心が今よりも低く、もっと大地に近い生活をしていたのではないでしょうか。
しかし明治以降、急激なスピードで西洋化するとともに日本人の生活は一変し、肚を感じて直感(身体)を重要視していた生活から思考(脳)を重要視する生活が中心となり、「私」の概念が脳を代表とする体の上の方に移るとともに、体の重心も上方に移っていきます。
この明治以降の社会の動きを決して否定するわけではありませんが、この「西洋に追いつけ追い越せ」の作業は、重心を高くして交感神経を非常に活性化させる必要の作業であったと思われ、本来交感神経と副交感神経でバランスをとる自律神経の観点からすると決してバランスのとれた作業であったとは言えません。
日本人は外国の文化をうまく取り入れて統合していくのが得意な民族であるはずでしたが、この明治期以降の動きはあまりにも急激で交感神経優位で肚を置き去りにした作業であったがゆえ、表面的な文化の取り入れ方になったとも言えます。
城谷医師は、昔の日本人が今よりもっと肚を感じることが多かった理由の一つに、着物を着て帯を締めることで丹田を意識しやすくなり「肚」からの感覚が感じ取りやすかったことを挙げておられます。
重心感覚の回復の鍵は、「腰紐」にあり!
帯はもちろんそうなのですが、私が普段着物を実践して体と心で実感しているのは、重心感覚の回復の鍵は、腰紐にあるということです。
腰紐は本来、男性だけでなく女性も骨盤の上に締めるものです。ウェストではありません。(ウェストにきつく紐を締めると胃が圧迫されますが骨盤の上なら全然窮屈ではありません。)
朝起きて、骨盤の上に腰紐をぎゅっと結ぶ時、「よっしゃ、今日も生きよう」という爽快な気持ちになります。
洋服と着物の身体技法の比較を専門にしておられる駒沢女子大学の石田かおり教授は、そのことについて次のように述べています。
着物は腰紐1本で留める衣服である。腰紐は重心の最適な落とし処を、着る人に自然と意識させるため、結果、重心がそこに落ちる。「着るだけで人体にとって、もっとも負担が少なく安定する場所に重心を落とすことが自然にできる衣服」と言える。その重心の落とし処とは、よく「丹田」や「臍下丹田」と言われる場所だ。
重心が上(頭)から下(肚)に移動していくと、以前よりも、もっと大地に近づいていく内的・身体的感覚が呼び覚まされていきます。太古の感覚が不思議と戻ってくるのです。
健康回復のためにも、「肚」と再びつながろう
自律神経や消化器疾患で苦しんでいる方も、「肚」と再びつながることで、心身の健康に効用がもたらされると城谷院長は助言しておられます。
確かに物質的な豊かさを享受することができたのですが、この物質的な豊かさというのは交感神経が生み出した賜物です。しかし、自律神経のバランスという観点から考えると、迷走神経を代表とする副交感神経を軸とした「肚」との繋がりが本当の豊かさには必要不可欠とも言えます。
肚が据わり重心が低く安定していると、些細なことで動揺することはなく安定感を得られるようになります。たとえ辛く、苦しい状況があっても、肚が据わり自分とつながっている場合は他人が何を言おうと揺るぎない安定感と安心感が得られます。
・・うちのクリニックは消化器疾患の方が多くいらっしゃいますが、なかなか良くならない人の中には、この「肚」の感覚から遠く、思考優位で情報に振り回されすぎている方が多いように思っています。思考で解決策を模索すればするほど、症状がどんどん複雑化していくようにも見えるケースも少なくありません。
着物を着る時間がないという方は、週末、家にいらっしゃる時に、洋服の上からでもいいですので、試しに腰紐で骨盤(丹田)の部分を締めてみてください。
やっていくうちに、「重心がすとんと最適な落とし処へ落ちる」という、からだの重心感覚がだんだん回復されていくのを感じるようになると思います。ぜひお試しあれ!
↓ 男性着物は、女性着物よりもずっとお手軽ですね!!しかも帯もしっかり丹田の位置にあるし。いいなあ。
参考資料
冒頭の写真 : Keita Motoji of Ginza Motoji wearing a kimono (wiki commons)
(註1)
19世紀後半にChristianityの訳語が求められた際に、「キリスト道」という訳語を推す宣教師たちと、「キリスト教」という訳語を推す日本人キリスト者たちとの間で議論が起こりました。
結局、「キリスト教」という訳語が採用されましたが、石川明人教授は、「『キリスト教』と呼ばれるようになったことによって、そこからは自ら求め歩むべき『道』というイメージは極めて薄くなり、誰かから教授される『教え』、あるいは寄与すべき『教え』として捉えられる傾向が強くなったのは確かであろう。」と以下の著書の中で述べておられます。
石川明人著『キリスト教と日本人──宣教史から信仰の本質を問う』 (ちくま新書)』第5章より
「キリスト教」と「キリスト道」それぞれの訳語について、石川教授の文章を一部引用させていただきます。私個人としては、「教」と「道」どちらの要素も大切であると考えています。
「現在は、ほとんどの人が「キリスト教」という日本語名称に何の疑いも持っておらず、それが当たり前だと信じているが、やっぱり「キリスト道」の方がよいのではないか、という意見も全くないわけではない。
例えば、カトリックの司祭で神学者の門脇佳吉は、『道の形而上学──芭蕉・道元・イエス』の中で、「キリスト教」よりも、「キリスト道」という呼称の方がふさわしい、という主旨のことを述べている。
門脇のその著書は、芭蕉や道元における「道」の詳細な分析をふまえてキリスト教についての再考を試みたものである。そこでは「柔道」「剣道」「華道」「茶道」といった日本の伝統的な「道」の文化・思想が意識されている。
彼は、「キリスト教」というように「教」の語を用いると、言葉によって説かれる主知主義的な「教説」に重点がある印象になるが、イエスが人々に教えたかったのは、教説ではなく「道」だというのである。
『聖書』を書いたのはイエスではなく、後の人々だ。イエス自身は、自分の言葉を文書として残すことをしなかった。自分の言葉が後の時代に正確に伝えられるかを気にすることもなかった。
門脇は、この事実は聖書解釈学上第一に注目すべきことであるという。このことは、すなわち、イエスが生涯をかけて目指したものは文書による「教え」の伝達ではなく、人々と出会って、その人々が自分とともに一つの道を歩むよう導くことであったということを示唆しているというわけである。
こうして門脇は「道なるイエス」「道なるキリスト」を参究すべきであるとして、「道の形而上学」を提唱し、次のように述べている。
イエスはこの道を伝えるために全身心を賭して十字架・復活への道を歩んだ。イエスが身をもって示した道は、使徒たちに伝えられ、さらに弟子たちへつぎつぎに伝えられ、ついに現代の私たちにおよんでいる。この道の相承こそキリスト教の本質であったし、現在もその本質に変わりない。その意味では、キリスト教は本来キリスト教と呼ばれるべきではなく、キリスト道と言われるべきである。
よって、門脇においては、「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエスの有名な言葉(「ヨハネ福音書」14章6節)は、聖書のなかでも特に重要な意味を持つ。
キリスト教信仰そのものを日本的な「道」の理念から捉えなおすことや、この宗教を「キリスト道」と呼ぶべきだというのは、確かに今現在の日本のキリスト教界でメジャーな意見とまでは言えない。
ほとんどの信徒は「キリスト教」という呼称で満足し、それが当たり前だと信じている。 だが、門脇の主張にも的を射ている部分があり、十分耳を傾けるに値する意見であるように思われる。」
(石川明人著『キリスト教と日本人──宣教史から信仰の本質を問う』 (ちくま新書)』第5章より)