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俳句をとおした親子の交わり――東島カナさんの俳句から感じる母のぬくもり


俳句や俳句を通した活動に長年身を投じていた亡き母の想いに近づけるかもと思い、俳句なるものに手を付けてみました。

はじめての俳句


君の笑みに 母思い出すと 人の言う

母亡き後に里帰りした際、私の笑顔を見た近所の人が母を思い出すと言ってくれて、ああ、母はここで母らしく生きてそして愛されてきたんだなあと思ってありがたかった。

同上


俳句に長年身を投じてこられた亡きお母様の想いに近づきたいと、カナさんは俳句の世界に入られたそうです。

この句を読んだ時、胸がじーんとしました。娘さんであるカナさんの笑顔の中に、お母様の生きた人生が映し出され、人々にそのことが物語られているというのはなんと慰めに満ちたことでしょう。

「カナ、お母さんね、あなたと一緒にいるのよ。あなたが笑うとき、泣くとき、お母さんもあなたの中で一緒に笑い、一緒に泣いているのよ。」そのようなお母様の声が聞こえてくるようです。

へその緒がつながった間柄というのは、母と子の関係をおいてほかに存在しません。私たちは母の胎内のなかで神によって育まれ、いのちを受け継いでいます。

神のなかで共有されたそのいのちは、生死の境界線を超え、神秘的なかたちで私たちのうちに脈々と流れ、息づいているのだと思います。

お母様の愛された俳句をとおし、その想いを表現されている娘さんの姿にお母様はどんなに喜んでおられることかと思います。

熱いお茶 湯呑み行き来し 冷ます父母

子供の頃、食卓に上がったお茶が熱くて飲めなかった時に必ず父母のどちらかがそのお茶を二つの湯呑みの間で入れ替えながら冷ましてくれた。そういう手間は愛情でしかない。

同上


「湯呑行き来し。」娘の小さな舌がやけどしないように、二つの湯呑みの間でお茶を入れ替えるお父さん、お母さん。

宝のような日常のその一瞬をとらえ、俳句にしてそのこまやかなる親の愛情を生き生きと詠い上げておられます。


春来たと 母の見つめし 福寿草

進行性の難病にかかり、希望と絶望の間を生きていた母が道端で福寿草を見たときに詠った俳句をラインで送ってくれたことがあり、それを思い出した今日の一句。

同上


病という試練の中にあって、俳人であったお母様は、道端に咲いていた福寿草の中になにを見、何を感じられたのでしょうか。

福寿草は、厳しい冬を乗り越えて咲く、鮮やかな黄色の花で、「永久の至福」を招く花として古くから日本人に愛されてきたとあります。

「春来たと。」厳しい冬の寒さにじっと耐え、旧正月の頃から開花し始める野花の生命力にお母様は心動かされ、それを句にし、娘さんにその想いを分かち合われたのだと思います。

あゝ春が来た、とその深い深い感動を福寿草の生をとおし詠い上げたお母様は、朽つることなき永遠の春を遥かにみておられたのでしょうか。

俳句をとおしてお母様はこの世に美しい足跡を遺されました。そしてその想いは今も生きつづけ、娘さんと共創しながら、今もこの世界になにかを語りかけているのだと思います。

Memory Eternal!


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