見出し画像

カースト制と人の尊厳――ギタとの出会い【回想3】


 【回想1】【回想2】からの続きです。





カトマンズの労働児たち


大学二年の休暇に、私は学友と共にネパールの首都カトマンズに行きました。カトマンズでは知り合いのネパール人ジャーナリストのお宅に滞在しながら児童労働問題にかかわっている某NGO団体の活動を見学しました。

ネパールの5-17歳の児童770万人のうち、314万人が労働に従事しており、しかもその3分の2は14歳以下の子どもたちだという統計がでています。

実際、そのジャーナリスト家庭にもギタという6歳の女の子がいて住み込みで働いていました。そのご家庭にはギタと同い年の娘さんがいたのですが、私たちはギタと娘さんの待遇の余りの違いに衝撃を受けていました。娘さんはアイロンのかかったきれいな制服を着、ブリティッシュ・スクールに通い上品なイギリス英語で教育を受けていました。

一方のギタは破れかかった薄汚いシャツを着、瘦せこけた体で毎日労働していました。ギタは毎朝居間を箒で履きソファーを整えるのですが、彼女には家のソファーに座る権利すらありませんでした。


忘れられないある晩の光景


 

そんなある晩、私は生涯忘れられないある光景を見てしまったのです。その日私たちは丸テーブルを囲み、夕食をいただいていました。食事が終わった頃、私はご家族に失礼してお手洗いに向かいました。洗面所に行くにはダイニングから台所を通過せねばならず、そこを通り過ぎる時、私はなにげなくシンク台の方に目を向けました。

と、その暗がりに誰かがいました。ギタでした。はっと息をのみました。
 
彼女は台所の床にしゃがみこみ、ブリキの皿に入った残飯を一人で食べていたのです。ちょうど野良犬や猫が床でエサを漁るように。

「ギタ・・」言葉を失いました。

何の罪があって、いたいけなこの子は他人の家で奴隷のように働き、暗がりの中一人さみしく残飯を漁らなければならないのでしょうか。これが人間に対する扱いなのでしょうか。ギタもまた一人の人格をもった人間ではないのでしょうか。人の尊厳は一体どこにあるのでしょう。


「容易に自分たちの社会状況を裁かないでほしい」


翌日私はギタの待遇をもっとよくしてほしいと家の主人に懇願しました。すると主人は次のように答えました。

あなたの憂慮はよく分かる。不公平だと感じていることもよく分かる。でもネパールにはネパールの社会通念があり、文化、慣習がある。日本だって他の国だってひと昔前までは身分制度があった。だから安易に自分たちの社会状況を裁かないでほしい、と。

主人はさらに続けて言いました。

われわれヒンズー教社会にはカースト制度がある。ギタのカーストは低く、現世においてはこれが彼女のカルマなのだ。だからわれわれはこの事実を受け入れるしかない。しかもギタは他の労働児たちに比べずっと恵まれた環境に置かれていることを忘れてはいけない。巷には信じられないほど劣悪な環境にいる子供たちもたくさんいて、ひどいケースとしては、家主たちの外出時、その子が逃亡しないよう鎖でつないでおいたりしている、と。


それぞれの国には独自の状況がある


 

これを聞いて私は二つのことを感じました。一つは家の主人が言った通り、各国にはそれぞれ独自の歴史・宗教の流れがあり、それはその国の内情を知らない私のような外部者が軽々しくああだこうだ言えるようなものではないということです。たといある社会に劣悪な制度が認められるとしても、それによって現在までのところ、ある程度の(悲しき)均衡が保たれ、社会が回っているという現実があります。

例えば、憐憫の情に駆られ、私と友人がギタに、ちゃんとした洋服や靴を買ってあげたとします。こちらはギタに良かれと思ってやっているのですが、もしかしたら、それによりギタは労働児仲間たちの間で妬みを買い、仲間外れにされ、いじめに遭わないとも限りません。

また主人の言っていたように、全体の平均でみると、ギタの置かれている状況は不幸中の幸いといいますか、少なくとも最悪の状況からは免れていたように思われました。労働女児たちの保護シェルターで働くNGO職員の方に聞いたのですが、今私の目の前にいる幼い女の子たちの多くが性的虐待や暴力を受け、施設に保護されたのだということでした。
 
さらに言えば、家の主人が指摘したように、日本にも江戸時代、士農工商の下位に置かれた賤民階級(穢多・非人)が存在し、彼らの被ってきた筆舌に尽くしがたい苦しみや傷は現在もまだ完全に癒されたわけではありません。

信州の被差別部落に生まれた瀬川丑松の苦悩を描いた島崎藤村の『破戒』はそれを如実に物語っています。私の父が、奈良の被差別部落を舞台にした住井すゑさんの大著『橋のない川』をぜひ読むよう勧めていたのを思い出しました。
 
「それにしても・・」私は呻きました。カーストが低く生まれついたギタは現世においてはただそれを甘受するより法がない、それが彼女のカルマなのだから、というのはなんと悲しいことだろう。なんという不幸を背負ってこの子はこの世に生まれてきたのだろう。ヒンズー教宿命論の生々しいリアリティーに直面した瞬間でした。


何を信じるかが大切


 

そして呻きを伴ったその認識が私に二つ目の気づきを与えたのです。
 
それは、人間、「何を信じるか」というのは信心それ自体と並んで、いや、信心以上に大切な問いなのではないかということでした。こういうことは外国人からしたらひどく当たり前のことなのかもしれませんが、「鰯の頭も信心から」という諺のごとく、私もまた大半の日本人と同様、信じる対象はそこまでこだわらない、とにかく信じることが大事だしそれが尊いことなんだと思って生きてきました。
 
しかしネパール社会を基礎づけている宗教がいかにギタという一少女の運命を囲い込み、固定し、永続化させているのかという厳しい現実を目の当たりにした時、私は「思想は必ず結実する(Ideas have consequences)」ということの真を認めざるを得ませんでした。

私はそれまで火のお祓いであれ、菅原道真公であれ、成田山新勝寺であれ、何であれ、拝めるものはありがたく拝ませていただくという感じで生きてきました。でも思えばそれは奇妙な信心のあり方だったのかもしれません。
 
第一、仏教自体、そういう無差別なんでもありの信心の仕方を否定しているではないか、そう思いました。「帰依」という佛語はサンスクリット語のナマスに由来し、それは、仏を信じ、従い、すべてを捧げることを意味します。あれもこれもという宗教的つまみ食いは本来の仏道とは相容れない行為なのかもしれない――、そう思いました。

敬虔な浄土真宗の家に生まれた宮沢賢治は、18歳の頃、『漢和対照妙法蓮華経』を読んだことがきっかけで、法華経へ改宗しました。それは苦しくも彼が全身全霊で求道した結果の一大決心でした。

彼は浄土真宗でもいいし法華経でもいい、仏教系であれば何でもいい、というふわぁとしたスタンスではなく、ちゃんと教義・経典を調べ、探求した結果、法華経の道に一意専心、帰依することにしたのでした。賢治は自身の生涯の選択を通し、「鰯の頭も信心から」という考え方に断固とした「否!」を突き付けたのです。

「でも私はそういうのちょっと苦手かも・・」当時の私には賢治のそういったあれかこれかの姿勢はいくぶん偏狭に感じられました。

私は拝む対象をあえて明確にせず、一つに絞りたくないな。一つに絞ることは排他的で視野の狭い人間を生み出すような気がしましたし、一歩下がったところからいろいろな「対象たち」を公平に見、扱い、拝むことこそ、バランスの取れた人格者の印なのではないかと考えていたからです。
 
その一方、「拝む対象にはこだわらない」「拝む対象は何でもいい」というのは裏を返せば、結局、自分はどこにも帰依するつもりはないし、主体はあくまで拝む「自分」であって、拝む対象はその自分の意のままになる「従」にすぎないということにも、うすうす感づいていました。

そして、「拝む対象は何でもいい」というのが表しているのは、私とその拝む対象の間に、〈われ-なんじ〉の関係性がそもそも想定されていない、ということも。

母が私に「冷凍ピザ、買ってきてくれる?京王ストアーでもいいし、イーオンの地下スーパーでもいいし、どこでもいいよ」と言う時、買う場所は本当にどこでもいいわけです。

でも「男だったら誰でもいい、とにかく誰かと結婚すればいいよ」と娘に言う親はいません。その「誰か」の善し悪しにより、娘の結婚生活はバラ色にもなれば文字通り生き地獄にもなるということを親は知っているからです。

そして私が気づいたのは、帰依を求める宗教においては、結婚相手の「誰か」以上に、拝む対象の真偽や属性が真剣にていねいに検討されなければならない、ということでした。

なぜなら、宗教の領域では、帰依する相手の善し悪しにより、今の生だけでなく、永遠に至るまでその人(及びその人に関わる人びと)の人生が幸福・平安なものとなるか、もしくは奈落の苦しみを味わうことになるのか、甚大なる影響を受けるからです。

 
こうしてネパールでのこの体験は、時を同じくして私が南インドで見たものに、より明確なる意味を付与することになったのでした。




いいなと思ったら応援しよう!