平家物語・OP光るとき
今年からスタートした深夜枠のアニメ。
もともと平家物語、徒然草・・・そういう読み物も好きなので、たまたま見つけたアニメですが、早速ネット配信で八話まで一気見しました。
平家物語の一族の繁栄と滅亡のストーリーには
欲と雅さ、美しさ儚さ、人間の払いきれない欲と「それでも・・・」という命の願いがある。
けれど、表現にわびさびがあり、セリフもシンプルでわかりやすいので割りとすんなりと引き込まれる世界観のアニメ。
平家の栄華きわめたところから、徐々に見え隠れする綻びに少しずつ
滅亡のフラグが立ち上がって行く心理的な不安。
前半はその見え隠れする不安と対照にほのぼのしたシーンがあったのも薄れて行く。
「何もかもかわってしまった」維盛のセリフ。
登場人物の息が止まるほどの恐怖のシーンも、それぞれが一枚の挿絵のようでした。
維盛の視点の戦のシーンは、琵琶の演奏ともあいまって
美しさと残酷さが深く印象づけられます。
とくに生々しい描写などないのですが
日本の表現技表の一つ。全貌と細かくグロいほどに見せつけるのではなくて、「察する」という見方。
そこに琵琶の音色、唄、観て居る側の心情をより掻き立てれらる。
日本画のような繊細さと色彩の優しさの中に、反するように描き出された
恐怖に凍てつく表情をした維盛の横顔・・・。
「この戦で死ぬかもしれない・・・」の表情。横顔。
唯一の動きのある表現は、維盛の綺麗な横顔をしたたる冷や汗・・・。
リアルです。そして観ている側の人間はいつだってそういう描写にすごく惹きつけられる。
そして、維盛の戦いより舞いを踊る方が得意な性格を思うとやりきれない・・・
性質的にまったくあわない役割を清盛の長男息子(長男)という位置づけで表に出されてしまう。
清盛じいちゃんは、重盛(長男)はこの年齢では立派にやり遂げた。ならば、孫も・・・と
「平家の力をみせつけるのじゃ」
と父親が亡くなって、維盛は平家の新しいリーダーへとむりやり引き出されてしまう。
でも、だれかをひがんだりしない。一心に自分を変えようと挑み続ける維盛の姿を主人公のびわは隣で見つめる。
主人公のびわは父親を平家の禿用心棒に斬り殺されてしまう。血族でもない。
清盛の長男重盛に「ここにいてほしい」と懇願され屋敷でともに暮らすようになる。
この、主人公と平家の人々との距離感と関係性がメインにストーリは進んで行く。
びわの見た平家。平家の日常、そこが文書の平家物語が立体的な奥行きを持たせて居る印象です。
登場人物と語り部役の主人公、第三者の視聴者で平家を改めて見つめて見るという楽しみ方です。
作品の印象は、
作品全体が日本の色彩「うぐいすいろ」「もえぎいろ」とか、そういった濁りみのある色彩の印象で
昔話や平安時代という現代から800年前という時代を超えるベールのような霞みがかったイメージがありました。
濁りみ、霞みがかった淡さのある色彩の中で「運命」を読み取ってしまった人物たちの鮮明な「今」という瞬間が際立つ。
原色になにがまざっているのか。
などと思い馳せてしまいます。
平家の行く末を心から案じて居る重盛の
「なにも変えられず、目の前にあるのは大きな運命。それに死をもって飲み込まれる・・・」という
平家物語の内容は知っていたとしたも、アニメでは現代的な表現技表で心を揺さぶられます。
そう、行く末は、最終回は決まっている。
その一部を知ってしまった。
自分の死も含んだ、一族の終わりという死の形。
”知ったらおしまい”
おしまいとは、区切りで。物質的な終わり。でも、それでも世界は循環している。
死ぬ本人は「人生の終わりにある」のであって。死の一側面しか体験していない。生き残った誰かが「死んだ」とみなして終わる。
そこに関わり絆のあった他者が死の持つまた違う側面を体験して、この二つが揃って「死」というものを第三者を経て理解していく。
けれど「死にまつわる側面はもっと他もある」そういうメッセージ性もアニメから伝わってきました。 OP曲からもそんなイメージを持ちました。
平家物語はそれを無言にも語っているような作品。
”決まって居る定め”運命から逃れられないと気づいてしまう、定めとは人生の終わり方に他ならない。
平家の滅亡という結末へ突き進むストーリに、オープニングの羊文学「光るとき」の世界観もすごくリンクしている。
身内だけではなく、その血筋に関わりをもった他者も交わりながら、車輪のように巻き込みながら最終回へ向かって行く。
引き起こした因果応報を
引き受ける覚悟をした人物たち。
語りべの琵琶ひき少女の視点と唄、それを見つめる私たちもまた・・・。
平家物語の全体のストーリがあってこそ、その物語の中に生きた一人一人があるからこそ。
それを見聞きしている者があってこそ
それぞれの視点があってこそ、「生のいくつもの側面」と「死のいくつもの側面」が「人間」という形が沸き立つ。
一人の人がもつ光が光であるのは、その人が人の絆のなかで他者に尽くそうとする姿が総体のなかで純粋である存在であるから。
その人の持つ願いが個人を越えれば、より純粋さが輝く。
その光・・・
そんなことをこのアニメを見る前から描いていたので、OP曲を初めて聞いた時、じわじわっと泣いてしまいました。
シンパシーを感じました。
「光るとき」に物語をより深く印象付ける歌詞をいくつか抜粋。
「永遠にみえるものに苦しんでばかりだね」
「ならばすべてを生きてやれ」
「あの花が落ちるときその役目を知らなくても
そばにいた人はきっと分かっているはずだから 」
「いつか巡ってまた会おうよ最終回のその後も、誰かが君と生きた記憶を語り継ぐでしょう・・・・
永遠なんて無いとしたら
この最悪の時代もきっとつづかないでしょう」
主人公の視点に寄り添って居る。
もちろん、曲の歌詞すべていいな、と思った。
個人の枠を超えている感覚というのだろうか。
生死観は個人の枠を超える力となにか繋がりがあるのではないか?そう考えさせられる。
時代背景について
平安時代から鎌倉時代あたりに土星と木星のコンジャンクジョンがあった記事を以前読んだのですが、集合意識、社会意識の切り替えの目には見えない感覚の大変動の時代。
目に見える世界も、異常気象により苦しんだ生き物たち。そして戦乱。
死が誰にでもそばにあり、闇が常にある世界。
それをどのような視点をもって生きて死ぬのか。
見えない世界の感覚のほうが先に影響して、見える世界の有様があるように私は考えている。
死ぬ、という事が、他の生命を支えて、その根底のエネルギーは世界の循環なのかもしれない。
生きること死ぬことはこの自分以外の他がある世界でつながる有様なのかも。
物語は個人の生死感を超えて繋がりのなかで「それでも・・・」と何かを託しつつ他の者たちの生を活かそうとする生き様が、
全体主義のようで、自然本来の人間存在全体への回帰な気もします。
私自体が主義という言葉が好きで無いのでこんな表現ですが。
自分の命があるのは繋いだ者たちとそのうしろで犠牲になって死んだ者たちがいること。
その成り立ちの中で築いた血の繋がりの未来のために自分の命を削ぐ決心で働く重盛。
その意思と志しを背中にみて、引き継ごうと己と戦う維盛。
父清盛のコマであろうと、平家の栄華がなんの上に成り立つかを知りつつ、人に尽くそうとする徳子
徳子のセリフに
「すべてをゆるして、ゆるして…ゆるすの。ゆるすなんて偉そうだけど…」
という想いのこもったセリフが
平安の世にある女性運命に対して出した答えで、自分で何かを変えることは出来なくても、
それでも心穏やかに在ろうとする姿にも共感した。
平家の栄華だけにふんぞり返る者も、自らの命をけずりながら一族のためにあろうと振る舞う者も、一族の犯してしまった事実に否定ではなく、ゆるしをもって応えようとする者も
話ではすべて死に行き着く。
そして、それを物語としてみている私達も。
すべて何かの側面でしかない。切り離しもできるが、離せやしない。
血縁が結ぶものか?人間の良心がつなぎとめるものなのか?
これは誰しもがもつしがらみでもあり絆でもあって普遍的に人間にはつきまとう事柄。
命を奪い奪われる世界も命を与え与えられの世界でもあるということ。
見方を切り替える視点は生死観。それも、教え教えられの世界で見つけて行くのかもしれない。
それは一重に見ると美しい世界のなのかもしれない。
そう考えさせられる物語です。