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【短編】九月のある神妙な日

河原に転がっている石を持ち上げたら、そこに小さなカニがいたことがある。

盛夏の日差しにさらされたカニの古巣は、あっという間に乾き枯れて更地になった。

犯された古巣から素早く逃げ出そうとするカニを上から見ていると、なんだか体の奥の方がむず痒くなる。

その痒さは靴の中の小石のように、頭から足の指の先まで広がり、とうとう無視できないほどに大きくなった。

私は足で軽くそのカニを押さえて動きを止め、一台の車が橋の上を通り始めたとき、足にグッと力を入れてそれを踏み潰した。車のエンジン音と橋の軋む音がかき消してくれると思ったからだ。

そのまま足を上げずに捻り、それをすりつぶす。
しばらくの間、踏み潰したままの姿勢でその場に留まる。ただ混乱していたのだ。

「おーい、狭山のとこの次男坊じゃねぇか。おめぇ、そんなとこでなにしてんだ」

声が聞こえた。とめどなく流れる重たい汗を拭いながら前を向く。河原近くの駐車場から川中のおじさんがこちらに手を振っている。

「もう日が暮れる。家まで送ってやるから乗ってけ」

そこでようやく足を上げた。足の下は見ないように早足で車に向かう。摺り足で歩きながら、車に向かうまでの道のりで、足の下にこべりついているであろう身を河原の石に当ててこそぎ落とす。不自然にならないように細心の注意を払った。

「あんなところでなにしてたんだ」
「綺麗な石を見つけて、学校のみんなに自慢しようと思って探しとったんです。」
「おぉ、そうか」

軽トラの助手席に乗り、途中、車に乗った私に気がついた赤島のお婆さんが手を振った。こちらを向いたお婆さんの目はいつもよりも鋭く見えた。何かを咎めるように。

家の前に着いて車を降りる時、助手席の足元に何か白いものがついてるのが見えた。私は意図的にそこから目を逸らした。

家に帰った後も気になってなにもかもが手につかない。明日になっても何もなければ、きっと大丈夫だ。自分にそう言い聞かせながら床に就いた。

次の日も、けたたましく鳴く蝉の声も耳に入らないほどそれが気がかりになりながら、いつものように母の作った小さめの弁当箱をカバンに詰め込んでいると、2階の窓から家の前に軽トラが止まり、川島のおじさんが降りてくるのが見えた。

脂汗が滲み出てくる。急いでランドセルを持って家の階段を駆け降り玄関を飛び出すと、おじさんが今にもチャイムを押すところだった。

いきなり家から飛び出してきた自分におじさんは驚いた顔をした。

「おぉ、驚かさんといてや。イノシシかおもたわ」
「うちに何か用ですか?」
「おぉ、お前のおとんにちょいと用事や。学校やろ。きいつけてな」
「カバンを忘れたのでとってきます。ついでに父に要件を伝えましょうか?」

自分の鼓動が耳に響いている。膝の裏からかいた汗がふくらはぎを伝って草履に染み込んでいった。周りの音は聞こえない、耳はただおじさんの次の言葉を待っていた。

「おぉ、そうか。じゃあ今度の祭りの話やと伝えてくれ。それでわかる思うわ」
「わかりました。」

この時ほど安堵を覚えたことはない。鼓動がだんだんと静まり、蝉の鳴き声がようやく聞こえはじめた。

おじさんに背を向け、歩いて本堂へ向かう。途中ガラス戸に写った自分の顔は醜いほど穏やかな笑顔だった。

これこそが人生で最初の殺生であり、悪意。

子供だからだろうか。否。
この悪意の種はいまも私の中にある。これはいつか花開いてしまうのだ。

わかる。わかるのだ。
これはいつか花開いて、実を結ぶ。
あの安堵感は他に変えられない宝物だから。

ふと窓の外を見ると日はとっくに暮れていた。
かなり長い時間昔の思い出に耽っていたようだ。窓には部屋の明かりにつられた無数の蝿がたかって窓にぶつかりコツコツと音を立てていた。

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