夏休み最後に足掻く それでも自分は最高である
くだらない。
noteを投稿しなくなり、Twitterへのツイートもしなくなり、なんならTwitterは「X」となり、ツイートは「ポスト」となっている。
そんな何も無い中で、なぜか”毎月投稿”だけは途切れさすまいと8月の最終日にnoteを書いている。
夏休み最終日の宿題か?
僕は宿題をため込んで、最終日に頑張るけど「無理だ」と悟って、出さないタイプだった。
と言いたいところだが、なんだかんだ終わらせるのが僕である。
どうせやってないのだから「やっていない自分」を肯定した方がかっこいい。
それなのに、そんな度胸はなく、親の目や友だちの目を気にしてなんとか宿題を片付けるのである。
普通だ。
あるあるに共感できるメリットはあるが、多数の中に埋もれているモブであることに変わりはない。
違うのだ。
モブから注目され、仲間がいて、キラキラしているあいつになりたいんだ。
だからnoteを始めた。
何か人と違うことがしたくて。
誰かに「僕」を知って欲しくて。
たくさんの人に必要とされたくて。
だけど何にもなれなかったな。
フォロワーは100人にも満たない小さなアカウント。
書き続けてもビューもスキも増えないし、無駄に日数だけが重なっていく。
実力は無いのにランクだけ上がっていくゲームのよう。
そんな上がり方をするから、上のランクでは当然太刀打ちできなくて、負けてばかりのゲームは飽きる。
疲れたぞ。
無駄にネガティブなこと書いてるの。
「どうしちゃったのお猿さん」
そう思ってる読者もいるだろうが、僕もそう思う。
結局のところ、人と違うことして注目されて、価値があると思われてる「自分」が欲しいのだろ?
人からの承認はあくまで道具であり、本命は自分からの承認である。
簡単なようで難しいようで簡単。
「夏休み最後になんだかんだ終わらせる自分すごいよね」
それだけである。
理想は両極端よ。
計画的に宿題を消化して最終日もしっかり休みを満喫する。
それか、「できない」と開き直って宿題を出さない。
前者は勉強や計画性の才能があり、後者は胆力と我が道を行く力がある。
頭もなければ気力も無い凡人は、体を使うしかないのだ。
最終日にこれでもかと体を酷使し、翌日の始業式に寝る。
それは始まりから眠りふける怠け者の姿に見えるだろう。
しかし、戦った後の戦士の眠りであることを自分は知っている。
大将にも知将にもなれないかもしれないが、兵がいなければそいつらは何もできないのだ。
お前は有用である。
ただ、当然過ぎて言われないだけ。
その「当然」をしっかりと見て、褒めることが自分にはできる。
さぁ叫べ!
「自分最高!!」
何言ってんだ?
くだらない。