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霊長類学は”オワコン”なのか!?【その1】:私家版日本霊長類学小史
いま、日本の霊長類学は危機に瀕している!!
……と言われても、ほとんどの人にとってはおそらくどうでもいい話題だろう。
しかし、日本の霊長類学の現状について誰も気にしていない、というその事実こそが、日本霊長類学の危機そのものなのである。
なぜか?
誰にも関心を持たれていないということは、はっきり言ってしまえばその学問は面白くないということだからだ。
かつて、と言っても私もリアルには知らない昔のことだが、確かに霊長類学が人々に関心を持たれていた時期があった。現在のように学問が役に立つか立たないかという瑣末なことが話題にならなかった古き良き時代、霊長類学には人々のロマンをかき立てるだけの「物語」があった。人間に似て、しかし人間ならざるサルの生活に分け入ってその仔細を記録し、サルの社会や文化を鮮やかに描くなかで、人間とは何か、人間性はどこから生まれたのか、われわれはどこからやってきてどこへ向かうのか、といった普遍的な問いを、霊長類学は人々に投げかけてみせた。その問いはまた、文系/理系という人間の都合で線引きされた学問領域を縦横無尽に撹乱し、自然科学にとどまらず人文学や社会科学も視野に入れた学問的な広がりと深さを持ち合わせていた。
しかしいま、霊長類学への人々の関心は薄れ、霊長類学の成果が人々の話題に上ることもほとんどなくなった。霊長類学に関連した近年で最も大きなニュースが「京都大学霊長類研究所における不正経理と組織の解体」であったことは、まさに「日本霊長類学の斜陽」を象徴している。
日本の霊長類学は誕生して75年を越えたばかりの、歴史の浅い学問である。しかし、その霊長類学が早くも「オワコン化」しつつあるとしたら、その背景にはどのような歴史的経緯があるのだろうか。そして、もはや人々の関心が薄れつつある霊長類学に、未来はあるのだろうか。
そんな疑問をぶつけてみる、またとない機会が訪れたのである。
山極壽一さんとの公開対談 【霊長類学は“オワコン”なのか?】(@京都新聞社、2025年2月11日)へ向けて
ゴリラ研究の泰斗にして、日本霊長類学会会長や国際霊長類学会会長も歴任したあの山極壽一さんと、霊長類学の危機と今後の展望について対談することになった。
このnote記事では、山極さんとの公開対談へ向けて、自分自身の問題整理と、当日の参加者の皆さんへの事前の情報共有、また当日参加できないが関心を持っていただいている方々への情報公開を兼ねて、「霊長類学のオワコン化の歴史的背景と現状認識(と今後の展望)」について書いてみようと考えている。
全部でどのくらいの分量になるのか、イベントまでにどこまで書けるのかなど、まったく見通しなくとりあえず書き始めてみた記事なので、あまり多くは期待しないでほしいが、もしこの対談や記事の内容に関心があって、対談や記事の中で話して(書いて)ほしい内容があれば、noteのコメント欄やTwitterなどで知らせてほしい。イベントの前にリクエストしてもらえたら、できる限り対談でも取り入れたいと思う。
極私的・日本霊長類学会小史
学問の歴史を語るとき、「いつ頃に誰それが〜の研究を開始して…」というようないわゆる「始祖スタイル」が王道だと思うが、ここは別に論文を書くわけでもなければ、私も科学史の専門家でもないので、なぜ他でもない私(誰?)が「霊長類学はオワコンなのか?」というタイトルの、しかもあの山極さんとの対談に登壇することになったのか、という自己紹介から始めて、いわば末端の小さな枝から大きな幹へ、さらにはその根元へとさかのぼるスタイルで、ラフなスケッチを描いてみようと思う。
日本霊長類学と京都大学・人類進化論研究室
私は2001年に京都大学理学研究科の大学院に入学して、嵐山のニホンザルの研究をしたのち、2002年からタンザニアのマハレ山塊国立公園でチンパンジーの調査・研究をしてきた。いつの間にか、霊長類学に足を踏み入れて四半世紀になろうとしている。
私と山極さんとの出会いは、2001年の大学院進学のときである。私が所属した動物学教室の人類進化論研究室の助教授(当時)が山極さんだった。
とはいえ、私の直接の指導教員は、野生チンパンジー研究のパイオニアである西田利貞さん(2011年に逝去)だったこともあり、山極さんと直接やりとりした記憶はあまりない(西田さんとも直接やりとりした記憶はあまりないが)。大学院のゼミで自分が発表者だったときには山極さんからもコメントをもらったはずだが、何を言われたかはまったく覚えていない。毎週のゼミ後恒例の明け方まで続く飲み会では、ゼミの「残り火」を熾して発表者を再炎上させつつ、その炎にみんなで飛び込んで院生も教員も自由に議論を交わして明け方には灰になるのが通例だったが、やはり山極さんとやりとりした内容はまったく覚えていない。毎週灰になって朝を迎えていたことだけは覚えている。
その後、私が博士課程1年だった2004年3月に西田さんが定年退官し、前後して山極さんが2002年に人類進化論研究室第3代教授に就任した。西田さんは2011年にお亡くなりになったが、私が西田さんの存命中に博士学位論文を書けなかったこともあり、私の博士論文の主査は山極さんになった。制度上は山極さんは私の指導教員だったということにもなるし、学位論文の主査でもあったわけなので学恩も少なからずある、ということになる。
ちなみに、われわれの研究室では、教員と学生は研究者として対等の立場で議論すべし、という理念のもと、教員のことを「先生」と呼ぶことは戒められていた。「西田さん」「山極さん」と教員を「さん付け」で呼ぶのは、私が不遜で失礼なやつだからではなく(そういう面があることは否定しないが)、研究室の「気風」だとご理解いただきたい。
この人類進化論研究室は、日本霊長類学の本家本元の歴史と伝統に連なっている。山極さんは2002年に人類進化論研究室の第3代教授に就任したのだが、山極さんの前の第2代の教授が上記の西田利貞さん、初代の教授が日本霊長類学の礎を築いた伊谷純一郎さんである。
人類進化論研究室の沿革の詳細は以下のリンク先を参照してほしい。
人類進化論研究室の前身は1962年に京都大学理学部に設立された自然人類学講座です。
よく知られているように、日本の霊長類学は今西錦司と川村俊蔵、伊谷純一郎の三名が宮崎県の幸島を訪れた1948年に誕生しました。今西らはそれから10年後にはアフリカに進出し、1961年からタンザニアでの本格的な類人猿調査隊を開始しています。自然人類学講座は、まさしくそういった時代に誕生したのです。当時日本の大学で理学部に人類学の講座があったのは東京大学だけでしたが、京都大学にできたこの講座は、生きたサル・類人猿の生態や社会も研究するという意味では日本初のものでした。自然人類学講座が設立された当時の教授は今西(人文研と併任)、助教授が池田次郎と伊谷、助手が杉山幸丸と葉山杉夫でした。
1981年には、自然人類学研究室から別れる形で人類進化論研究室が設立されました。いずれもヒトを含めた霊長類の研究をおこなっていますが、前者では骨や歯などの形質の研究がおこなわれ、後者では行動や社会・生態の研究がおこなわれることになりました。長年自然人類学講座で助教授を務めた伊谷が人類進化論研究室の初代の教授となります。
その後伊谷がアフリカセンターを設立し、そのセンター長となったため、後任として西田利貞が教授に着任しました。西田が停年退職した後は山極壽一が、山極が京大総長となった後は中川尚史が教授を務め、現在に至ります。
前身である自然人類学講座時代と合わせると、この研究室は、日本で霊長類学が誕生し展開していく流れの中で常に中心的な役割を果たしてきた研究室であると言えます。また、伊谷は1970年代以降は生態人類学を推進していたため、多くの生態人類学者を輩出した研究室でもあります。
日本の霊長類学は、今西錦司とその弟子である伊谷純一郎・河合雅雄・川村俊蔵らの小さなグループによる野生ニホンザルの観察から始まった。戦後間もなくの1948年、宮崎県の沖合に浮かぶ、幸島がその発祥の地である。
そして、日本霊長類学の創始者である今西錦司や伊谷純一郎の系譜に連なっているのが、私が山極さんと出会った京都大学の人類進化論研究室というわけである。
日本の霊長類学史を振り返るのであれば、ここで今西錦司や伊谷純一郎の業績の説明やその後の系譜、さらには霊長類学の発展の歴史をたどる、という流れになるのが普通だと思うが、ここは私が勝手に書いている「私家版」なので、もう少し当時の私や山極さんを取り巻く状況を振り返ることから、この研究室に継承されていた「気風」を描いてみたい。
人類進化論研究室は/霊長類学は「理系」なのか
私が大学院に入学した2001年、人類進化論研究室の教授は西田利貞さん、助教授が山極さん、助手に鈴木滋さん(現:龍谷大学)の3人が教員だった。西田さんは野生チンパンジー研究のパイオニア、山極さんはゴリラの大家、鈴木さんは屋久島のニホンザルや中央アフリカに同所的に生息しているゴリラ・チンパンジーを研究していた。つまり、教員は3人とも非ヒト霊長類の研究が専門だったことになる。また、人類進化論研究室は理学研究科・生物科学専攻・動物学教室の下に置かれており、また修士や博士の学位も「理学」(Master of Science, Doctor of Science)であるため、スタッフの専門としても組織の上でも「理系」であることは疑いようがない。
大学院生やポスドクも非ヒト霊長類の研究者が多かったが、他方で私と同期の大石高典さん(現:東京外国語大学)や一学年下の松浦直毅さん(現:椙山女学園大学)など、人間を対象とした生態人類学を専門にしている院生も少数ながら同居していた。
生態人類学、という学問分野はあまり耳慣れないかもしれないが、実はこの生態人類学の祖こそが、日本霊長類学の祖にして人類進化論研究室の初代教授だった伊谷純一郎その人なのである。
伊谷は、ニホンザルの研究を皮切りに、アフリカの類人猿調査に先鞭をつけ、ゴリラ予察やチンパンジー長期調査地の開拓に奔走したあと、原野に暮らす自然に強く依存した人々の生態と社会を解明することで人類社会の進化の道筋を再構成する、という学問分野を開拓していった。これが生態人類学の始まりである。
伊谷純一郎が生態人類学と霊長類学の関係をどのように考えていたのかを端的に示す文章を引用しておこう。
私はよく、あなたの霊⻑類学と⽣態⼈類学はどうつながるのかと問われたが、⼈類社会の進化を論じようとするとき、この⼆つの領域は必須の分野であり、野⽣の霊⻑類と⾃然⼈はかけがえのない所与であると答えてきた。その両者を貫く理論が先にあってというのではなく、進化がそれを繋ぐはずだという直感への共鳴に応えて、そういう意味で対象に魅せられて、これまでの歩みを続けてきたと⾔った⽅がよいように思う。
これは伊谷の開拓した生態人類学と霊長類学を結ぶ問題意識を示唆したものとして、しばしば引用される文章である。けだし名文と言うべきであろう。
やがて伊谷は、生態人類学の拠点として設立に奔走した京都大学アフリカ地域研究センター(現:アフリカ地域研究資料センター)の初代センター長に着任する(1986年)。その後、1988年に人類進化論研究室では第2代教授として西田利貞さんが着任することになるが、伊谷の弟子にあたる院生には生態人類学を専門とする人も多く、人類進化論研究室には当時からヒトとサルの研究者たちが机を並べて同居していたのである。
伊谷が夢想したヒトとサルの研究を「進化」によってつなぐ、という「気風」は、私が大学院に入った頃(2001年:なおこの年に伊谷純一郎は亡くなっており、私は生前の伊谷にお目にかかったことがない世代である)の人類進化論研究室にはまだ息づいていたように思う。なので、科学論文を読むことは当然だが、文化人類学、社会学、哲学、心理学など、ありとあらゆるジャンルの本を読んで、自分たちに必要な理論や方法を一から考えていくことも、われわれ大学院生に暗に課せられていたように思う。文系/理系といった区別は、対象(ヒトに似て、ヒトならざる生き物)の理解というただ一つの目的に照らせば、はっきり言ってしまえばどうでもよかったのである。
伊谷もまた、日本霊長類学会設立記念講演で、「霊長類は自然科学の対象にとどまらず、人文・社会科学の対象でもある」とはっきり宣言している。
科学は大きく自然科学と人文・社会科学とに分かれます。霊長類学の研究は、欧米におきましてもまた日本におきましても、主として自然科学系の研究者によって進められてまいりました。しかし霊長類という対象は、人文・社会科学的な対象でもあるということ、人文が悪ければ猿文でもよいのですが、必ずしも生物学的かつ還元主義的な方法のみに依存することのない、社会科学としての独自の方法論と理論を構築しうる対象でもあるということを、改めて認識しなおす必要があると私は考えるのです。当然、霊長類の社会を対象とした自然科学的な領域があることを私は否定はいたしません。しかし、これまでに日本の研究者があげてまいりました成果の多く、文化にしましても、言語の起源や社会の起原にしましても、社会構造の問題にいたしましても、これらはいずれも非自然科学的な問題であるということを認識せざるをえないのです。言語や文字はなくとも、行動学が扱う同じ行動という所与に頼りながら、社会科学的な独自な理論を、つまり霊長類社会のための理論そしてその新しい見地からやがて人間社会にも敷衍しうる理論を立てることはけっして不可能なことではないと私は考えます。
翻って、現在の霊長類学は、生物学の一分野、動物学の一分野として、自然科学の一部であることは疑いえない。ある意味ではこれは、初期の素朴なサルの行動の記載にもとづく博物学的な研究から、より体系的で客観的・量的なデータにもとづく仮説駆動型の自然科学への霊長類学の「発展」「成熟」と捉えるべきなのかもしれない。しかし他方で、この霊長類学の自然科学化(生物学化)によって、失われたものもあるのではないか、ということも気になってくる。
この図式は日本の霊長類学に限られない。先日、山極さんが現所長を務める地球研の国際シンポジウムで、前国際霊長類学会会長のKaren B. Strierさんが南北アメリカの霊長類学について講演をしたのを聴く機会があった。そこでStrierさんは、アメリカ霊長類学史を振り返る中で、やはり上記のような初期の記載的・逸話的な博物学から、方法論の標準化や理論的な発展によって、体系的で量的なデータにもとづく自然科学へと発展していった歴史を語っていた。アメリカでは霊長類学は人類学科に置かれていることが多く、とくに初期のアメリカ霊長類学の発展には人類学者の貢献も大きいのだが、現在の霊長類学は人類学から離れて、生物科学と合流しているとも語っていた。
さて、こうした歴史をふまえた上で、人類進化論研究室の先輩/元教員でもあり、今西・伊谷の弟子でもあり、また国際霊長類学会や日本霊長類学会の会長も歴任してきた霊長類学の生ける伝説である山極さんに、まずぜひ聞いてみたいのは、「霊長類学は理系(自然科学/生物学)として今後も発展していく(べきな)のか」ということである。
私も霊長類学が自然科学/生物学の一分野として発展してきたことはよく知っているし、それが学問の成熟の一つのかたちだということも理解はしている。なので、その先にも自然科学/生物学としての新たな霊長類学の発展はきっとあるのだろうとも思っている。
しかし、そういった霊長類学の自然科学化や、それにともなう細分化は、何か霊長類学が持っていた「猥雑さ」や「おもしろさ」もまとめて削ぎ落としてしまったのではないか、という気がしないでもない。いや、そうした「猥雑さ」や「おもしろさ」はいわば学問が成熟する前の素朴な対象理解であって、それが削ぎ落とされたのであればむしろ学問の発展としてめでたいことなのだ、という立場もありうるかもしれない。
というわけで、ここまで自然科学化を進めて発展してきた霊長類学は、今後も「生物学としての霊長類学」を推し進めていく(べきな)のだろうか。あるいは、もし霊長類学が自然科学以外の広がりを持ちうるとしたら、どのような方向性がありうるのだろうか。
この点について、まずは山極さんに投げかけて議論してみたいと思っている。
長くなったので、他の論点は稿を改めることにしよう。