見出し画像

翻訳とオリジナル言語への考察、脱 山ちゃん脳内再生

同僚/友達のイザベルとランチをしていた時の話。彼女は弟が日本に住んでいるというのもあって親日家であり、というかむしろ彼女自身があらゆる文化に対してオープンな性格である。読書家である彼女は日本人作家の本も読む。半年前くらいに、枕草子を読んでるんだ、と聞かされ、え?まじで?って二度聞きした。ちなみに英語の題名は『The pillow book 』だ。直訳感が半端ない。でもいったい日本人のどれくらいが枕草子を読んだことがあろうか。。。そのうえ当時の風情が、オランダ語でどのように翻訳されているのか気になるところだ。

そんな彼女は、昨日、川口俊和/著の、コーヒーが冷めないうちに のオランダ語翻訳版を読み終えたそうだ。
イザベルは、作者が日本人かどうかわからなくても、翻訳された文章を読んでると日本の作品なんだと、雰囲気でわかるのだという。村上春樹作品とかでも同様に感じたそうだ。
例えばどんなところでそう感じるの?と聞いたら、ひとつひとつの文章(情景)が短くきれいに整理されている、そう。
彼女はそのへんの繊細さがあるから、そう感じるのかなぁ。。。

例えば主人公が関西弁だとして、でもきっと翻訳バージョンでは、関西出身ということは明らかにさせられるけど、主人公が話す関西弁までもは忠実に訳されることはないだろう。
そこが、オリジナルの作品を理解することのいちばんの醍醐味だと思う。

ブラジル人作家のパウロコエーリョのアルケミストとか星の巡礼を読んだとき、わたしは、情景はその舞台を想像するんだけど、日本語の翻訳が美しすぎてがっつり日本語脳になってしまった。

金曜ロードショーの吹き替えで育ったわたしたちは、エディーマーフィーやジムキャリーは完全に山ちゃん(山寺宏一さん)のイメージだし、
ジュリアロバーツは戸田恵子さんで脳内再生される。その擦り込みの積み重ねが、他の国の言語に対して、少しづつ敏感さをなくしていくのかも、と思った。

英語でも、ブリティッシュとアメリカ英語では雰囲気がだいぶ違うように、翻訳の仕方で作品の雰囲気はだいぶ変わってくる。
わたしには、イザベルの言語の違いを感じる能力は無いにしても、どの言語にもある美しい部分や特徴を少しずつ感じ取っていけたら、読書も映画も違った観方で、もっと楽しむことが出来るんじゃないかなと思った。

いいなと思ったら応援しよう!