生まれ変わりがあるなら
ある日の寝かしつけ。
娘「オカーチャン、ぎゅーしていつものうたって」
私「(aikoさんの"瞳"を歌って)私があなたの側にいる〜♩」
娘「ムスメちゃんがそばにいるよ😊」
ふいにそう言われて泣いてしまった私を見て、
娘は「かなしいかおしないで」と言う。
こんなことを言ったら変な人だと思われるかもしれないけど、私はときどき、娘のことを「ひいおばあちゃんの生まれ変わりなのかな」と思うときがある。
ひいおばあちゃんは103才まで長生きして、最期まで家(私の実家)で過ごして、亡くなったあとも豪雪の関係でお骨をお墓に納められなくて49日以上家に(お骨の姿で)いた。
だから本当にずいぶんと長い間、この家(いま私と娘が住んでいる家)にいた。
私は、出棺するときにひいおばあちゃんに、「ありがとう。また一緒に暮らそうね。」と声をかけた。
私が離婚してこの家に娘と共に帰ってきて一緒に暮らしているのは、娘(ひいおばあちゃん)の意志なんじゃないかとさえ思う。
娘が産まれてすぐに、「もう離婚が最善」という綻びが明るみになって、そこからは私と娘にとって良い展開しかなかった。
もちろん私の心は疲弊してボロボロだったけど、俯瞰で見ると悪いことがひとつも起こっていなくて、私自身いまのところ「離婚して良かった」と感じることしかない。
娘に守られているな、と感じることがよくある。
全く意識してなかったけど、ひいおばあちゃんと娘の名前には共通点もある。
あるとき、何の気なしに「娘ちゃんはひいおばあちゃんなの?」と聞いたら、悪戯にニッと歯を見せて「うん」とだけ言った。
まぁ意味も分からずに答えただけだろうけど、私の母にそれを話したら、母もそう思っていたと言う。
ひいおばあちゃんが亡くなってしばらくしたとき、夢に出てきてくれたことがある。
よく一緒に過ごした自宅の座敷の長椅子に座っていて、夢の中は朝日なのか夕日なのか分からないとてもあたたかい光が満ちていて、ひいおばあちゃんはニコニコと私を見つめていた。
何も会話はなかったけど、それだけで充分だった。ひいおばあちゃんが今おだやかなんだなと分かって安心した。
何年も前の夢だけど、とても鮮明に覚えている。
と、ここまで書いておきながら、生まれ変わりかどうかは実のところどうでもいい。
そうであってもなくても娘が愛おしいことに変わりないし、そうであったからといってそれが倍増するとかいうことでもない。
ただ、もしかしてそうなのかな、娘は私と一緒にこの家で暮らしたかったのかなと思うと、日常の全ての瞬間があまりにも幸せで涙が出る。
私はきょうだいの中でも特に家を不在にしていたし、18で家を出たし、もし離婚して帰ってきてなかったら、大人になってからこの家でいまの家族と過ごすことはもうほとんどできなかったと思う。
そんな私のことをここに連れて帰って来てくれて、外で家族を築けずに落ち込んでいた私に、「家族」って何なのか、人と暮らしを共にするってどういうことなのか、「愛する」ってどういうことなのか、教えてくれている。
ただ「そんな気がする」というだけだけど。
今日も明日もあさっても、死ぬまで、なんなら死んでも、愛しているよ。
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