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"自己内省の価値"の妄信について

少し離れたところから「コーチングの価値」を見直してみたい

これまでの探究は、コーチの在り方に対する批判的な視点や、コーチングのやり方によっては危険性が伴うという視点を持ち込んできた。

しかし、「”正しく”提供することができればコーチングには価値がある」というスタンスを一貫して持っていたように感じる。

今回は、あえてそこを見直してみたい。


”自己内省の価値を妄信すること"について


最近ずっと頭に引っかかっていることがある。

身近な人が以前、
「自己内省したり、セラピーやコーチングを受けるとその後辛くなるから受けたくない」と言葉にしていたことだ。

あえて内容を伏せるが、彼女は人生の中でとっても苦しい選択に迫れていた。
その時期の彼女は見ていられないほど苦しそうだった。

何か力になりたいと、彼女にリスペクトしている対人支援者を紹介し、受けたいと言ったので、受けることになった。

セッション中、彼女はたくさん涙し、怒りが出てきて、泣き疲れてセッションが終わるということが多かったらしい。

心理学を学び、実践をしてきた私の目線からすると、必要な涙が出ているように見えていた。

抑圧していた何かが、健全に露わになって、癒やされているプロセスの過程なのではないか?と。
紹介して良かったなと思っていた。

でも、彼女は継続したくないといった。
「あの時間が苦しすぎて、現実に戻ってこれない」

その後、彼女は仕事に打ち込み、「日常」を送っている。


もう受けたくないと言われてから約半年~1年ほどは、
身近な人との関係性への課題は消えていないし、私に対してイライラを当ててきたりする様子を見ながら「もっと癒しが必要なのでは?もっと向き合った方が良いのでは?」と思ってしまっていたのが正直なところだ。

しかし、この3年ほど彼女を間近にみていて、彼女には内省することや向き合うこと以外の選択が必要だったんだ、と思える。

当たり前の話のようだけれど、
身近な人になると助けたい、苦しんでほしくないという気持ちが先行し、「向き合ってほしい」となってしまう、この現象に名前をつけたいくらいだ。


「内省すること」や「向き合うこと」の有毒性や適していない人やタイミングとは?


「内省をすること・向き合うこと」は全ての人やタイミングに”良い”のだろうか?」

この問いを投げかけると、多くの人が「いや違う」ときっと答えるだろう。

「適している人やタイミングがある。いつもじゃないし、全ての人でもない。」と。

しかし、「どういう人やタイミングにはよくて、どういう人やタイミングには良くないか?」

と聞いて適切に答えられる人がいるのだろうか?
前述した彼女の例に倣って、「内省」ができない状態について私が仮に言葉にするとしたら、
「瘡蓋ができていない血だらけの状態の時は、内省というよりも、日常を進めることが優先される」と答えるかもしれない。


しかし、この答え方は、
「内省すること」や「向き合うこと」ができる人やタイミングは”良い状態”で、それができない人やタイミングは、苦しい状況だよね、というスタンスであるとも言える。

そして、私自身が、「内省ができる人が良い状態で、できない人は良い状態ではない」のような恐ろしい捉え方をしているとも言える。


確かに、私は内省をすることで救われた。
でも、世の中に「絶対」など存在しない。

「内省すること・向き合うこと」が「できる」・「できない」という上下のような関係ではなく、それがその人やタイミングに「必要ではない」「必要」がただ横並びにあるだけだーーーと書きたいところだけど、
「いつか、人生の必要なタイミングで向き合う時が来るかもしれない」と付け加えたくなってしまう私がいる。

「内省をすること」や「向き合うこと」の価値は理解しているが、その有毒性や、適していない人やタイミングとはなんだろうか?

多重知性から捉える、コーチングの位置付け

少し話は脱線するが、去年末ごろ、私のパートナーは仕事が忙しすぎて苦しそうだった。

そんな彼に私は内省を勧めた。(またやってしまった!)

「この本を読んでみたら?」
「こういう思考法は役立つかもよ?」
彼の力になりたかったのだ。

提案してみたものに対して、前向きな返事はするものの、一向にやる気配がない彼。

その彼をみて不安を感じ、私の母に相談をしたところ「内省するより、体を動かせば?」という一言。

その後、彼はサウナに入ったり、筋トレをしたり、サイクリングをしたりをする中で、自然と本来の活力が戻ってきた。


「やっぱり内省が全てじゃない」という結論づけていたが、改めて「内省」とはなんだろうか?


そんなことを考えていた中で、仲間のコーチとそのことについて対話をしてみた際に、とても印象的な言葉をもらった。

「私は”内省”がある人生を選んだ。」
「私は自分の内側にあるものを外に出す行為として、コーチングやジャーナリングという形がフィットしていた。」


「内にある物を外に出す行為」これは人間という存在の根源的な欲求なのだろうか?

生物学で言われる、「ホメオスタシス」という自己調整機能がある。

生物において、その内部環境を一定の状態に保ち続けようとする傾向

Wikipediaより

それは、呼吸、排泄、循環などあらゆる"動き"を通じて、バランスを取っていく営みだが、心理的にも同様のことが言えると言われている。

汗が流れるように、涙が流れるように、人間は生理的にも心理的にもバランスをとっている。

そう考えて見ると、"内省をする"ことは自己調整機能の一つの手法であると理解できる。

その中でも、コーチングは、 ”ことば” というインターフェースを用いているのが特徴だ。

そして、当たり前だが、自己調整をするためのアプローチは ”ことば” 以外にも無数にある。

例えば、ハーバード大学大学院教育研究科の心理発達科学者である、ハワードガードナーが提唱した多重知能理論では、人間の知能を8つに分けている。

具体的には、人は以下の8つの知能を持っており、人それぞれ特別突出した知能があり、これらはそれぞれ単体で存在しているのではなく、組み合わさっていると言われている。(なので、複合知能理論とも言われているらしい)

言語(Verbal/Linguistic)
数理・論理(Logical/Mathematical)
空間(Visual/Spatial)
身体運動感覚(Bodily/Kinesthetic)
音楽(Musical/Rhythmic)
人間関係(Inter-personal/Social)
內省 (Intra-personal/Introspective)
自然(Naturalist,ガードナーが1999年に補充)

wikipediaより(ちなみに、芸術やアートがないのは、空間を中心に1~8すべてが必要だからと言われているらしい)



この理論のメガネからコーチングの価値をとらえてみると、
言語✖️内省の知能を得意としている人たちにとっては、自分の「内に滞っているものを外に発散する行為」としてコーチングやジャーナリングは効果的かもしれない。

しかし、そうではない人たちにとって、それらがベストとは言い切れない。


コーチングをうける・内省をする以外に、
ボディーワークを受けることや、
運動をすることや、
アートに没頭することや、
歌うこと、
自然の中にいくことなど、あらゆる選択肢が考えられる。


それなのに、人は「自分が癒やされたもの」に妄信してしまうことがある。
「私はこれに出会って変れた」という体験は、その人にとって大切なストーリーになるからである。

でも人は一人ひとり異なる。

「自分が癒された何か」を私のストーリーの中で人に勧めたくなってしまう自分のバイアスを自覚し、
相手が自分とは異なる他者であることをありのままみつめられる人でありたい。


※このnoteは、「『コーチングは誰のためのもの?』コーチング業界の功績と課題を考えてみた」を書く過程で書いたNotionを公開してみたものです。
探究中の言葉たちを自分の中に留めずに、あえてひらいてみることに好奇心が湧いている今日この頃です。

読んでくださってありがとうございました。

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