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約9ヶ月の”余白の日々”で体験したこと。

作年12月ごろに代表を退任してからの期間、「余白のある日々」をあえて意識しながら過ごしてきていた。
この期間の過ごし方について自分のためにも振り返りをしながら、そこで感じたこと、味わったことを言葉にしてみる。
個人的にはこれまでの人生の中でも非常に濃い大切な期間だった。


根をゆったりとおろすような、余白のある日々

去年の12月に前職を退任してからの最初の数ヶ月は、アクティブに人と話たり、人とあったりしていた。
ただ、今年の1月末ごろに自分自身の内側で何か変化を感じ、外に向かっていた意識を意図的に辞め、自分の内側に衝動や好奇心に従う形で、内に籠るような、そんな時間を過ごす意思を決めた。
(「孤独探究期間」と名づけていた。)

本や論文や記事を読んでみて、感じたことを書き出して、書き出したことを眺めて、思考を深めてみる。
それを繰り返していると、言葉にしたいものが自然と現れて、それをNotionに書いてみる。
(長い時は、2万字を軽く超えた文章を1日中没頭して書いていた)

元々発信は好きではないし、受験勉強中も国語の点数はずっと低かったし(笑)、話すのは好きだけど書くのは苦手だから一生やらなくて済むように生きたいな〜って思っていたほどだった。

でも、驚くことに探究を深めていくと自然と湧き水のように言葉にしたくなるものが溢れてくる。

言葉にしてみたものを眺めてみると、「この話題はこの人と対話をしてみたいな〜」という好奇心が湧いて、その人に文章をシェアして対話の時間をもらう。

そんなことを繰り返していた。

今振り返ってみると「ゆっくりと根を土に深くおろすような」そんな期間を過ごしていたように感じている。

この余白の日々があったからこそ、自分自身の人生にとって、とても大切な探究テーマと出会い直すことができている。

日々の暮らしと、時間の過ごし方

これまで「断ること」は得意な方とは言えなかったが、1月ごろ自分の内側で変化を感じたあとからは、自分自身の内側に素直に誠実に生きると決め、断ることが自然とできるようになった。

“仕事”の捉え方を見直す

仕事は、私の探究テーマと重なりがある数社のアドバイザリーと、個人向けのコーチングセッション数枠に限定し、極端に減らした。
言葉にすると伝わりにくいのだが、もっというと、個人の体験としては「仕事」と捉えているような「仕事」はしない決断をした。


自分自身に探究時間をたっぷりと許したかったことと、
純粋な探究を味わうためにも「やらないといけない意識」や「誰かの期待に応える意識」をなくしたかった
のだと思う。

たっぷりと探究期間を許し、仕事と距離をとってみたら、「仕事」の捉え方も大きく変化した。

これまでは「自分自身が価値を発揮する/貢献すること=仕事」と捉えていたように感じる。
そして、そのために自分の成長があったようにおもう。

しかし、余白の日々を味わった今、「探究の一つの活動としての”仕事”(結果、価値が発揮されたり、貢献できたり、成長したりする)」と、主従が逆転した。

「インプットや成長」は仕事で成果を出すための手段ではなく、「探究」自体が目的。
探究は、人生を豊かにしてくれるものであり、自分と世界を捉え直し続ける行為であり、結果誰かの力になれるものだということを身をもって感じることができた。

誰からも求められない探究をすることに対して、一度も飽きず、没頭し続けられていることに、少し驚きもあったが、自分への信頼にも繋がった。

仕事中心の生き方からのシフト

大学卒業後から、気づいたら仕事中心の生き方をしていたように感じる。
仕事を通じて新しく出会える世界にワクワクしていたし、成長できる実感や、仕事を通じて実現できることにやりがいを感じていた。

新卒で入った会社の先輩から「WORK HARD, PLAY HARDER」という言葉を教えてもらい、「仕事も、プライベートも最大限充実させよう!」ということを、ワーク・ライフ・バランスという言葉の意味だ思っていた。
当時は実際に、それぞれを最大限楽しもうとしていた。

その後、「ワーク・ライフ・バランスはもう古い、これからはワーク・ライフ・インテグレーションだ」という言葉を見かけたが、
古い価値観のまま「ワーク・ライフ・インテグレーション」の概念を知った私は、「遊ぶように仕事をする」「趣味のように仕事をする」「何か意味のある遊びをする」と、「ワーク・ライフ・インテグレーション」の概念さえも仕事中心に捉えていた。


それは、この本に書かれている「自己実現型ワーカホリック」という言葉と重なる。

「自己実現型ワーカホリック」
自己実現という言葉をきくと、「仕事で自分の人生を満足させている様子」を思い浮かべてしまうのではないだろうか。
趣味で自己実現してもいい。子育てで自己実現してもいい。いいはずなのに、現代の自己実現という言葉には、どこか「仕事で」というニュアンスがつきまとう。
それはなぜか?2000年代以降、日本社会は「仕事で自己実現すること」を称賛してきたからである。

ちなみに、私は「自己実現型ワーカホリック」が悪いと言いたいわけではない。

ただ、私個人の体験として自分の人生の中で、「誰からも求められていない探究」をただ続けてみたら、想像していた以上に、人生の面白さや喜びと出会うことができた。

自分を生きることを真ん中に感じながら、仕事や子育てをとらえてみると、それらと健やかな距離感が生まれ、全く違う景色に見える。(概念としては、結局目新しくはないのだが)

古い価値観のまま、新しい概念をしっても古い価値観に引っ張られた捉え方しかできない。余白の日々の体験を通じて、やっとこの概念を自分なりに咀嚼することができた、そんな体験だった。

"何者"でもなくなったことで、自分への信頼が深まった

この余白の期間中、自己紹介をするのが一番難しかった。
「何してる人ですか?」と聞かれたときに、一番しっくりくる言葉が見つからなかった。

「私はどういう存在か?(BEING)」は、「何をしているか(DOING)」ではわからないはずなのに
人は「何をしている人か(DOING)」が知りたくなる。
(そして、振り返ってみると私もよく聞いてきた)

そんな時、ある学びの場で、
知人に「ひとみん最近何してるんですか?主婦ですか?」と聞かれた。

私のことを知ろうとせずに、決めつけられたことに少しカチンときたが、同時にそのリアクションをしている自分が面白く、内省が進んだ。


余白の日々の間、「何してる人ですか?」と聞かれるたびにいろんな言い回しをしてみていた。

「サバティカル休暇中です」「コーチです」「お母さんです」「人生の夏休み中です」「ふらふらしてます」「探究してます」「コーチングと数社のアドバイザリーしてます」

どれもしっくりこず、聞かれるたびにうーんと頭を悩ませていたが、「主婦です」という回答は一度もしたことがなかった。

自立した自分でいたかったし、パートナーと金銭的にも社会的にも対等でありたかったし、社会の中で役割がある何者かであろうとしていた・・・

そんなことの現れだったのかもしれない。

前の会社を退任するちょっと前に、個人の会社をタイミングよく精算していたこともあり、その退職金でこれまで通りの生き方をしていた。

なるべく余白の多い生き方を選択すると決めていながらも、
パートナーにも頼らず、面白いほどに「主婦」というステータスに自分がなることに相当の抵抗をしていたことに気づいた。

不意打ちで聞かれた「主婦っすか?」という質問に対して、
「なんでこんなに抵抗する必要があるんだろう?」という気づきがあったし、
はたして、パートナーが余白期間を設けたら、「主夫してるの?」と言われるのだろうか?と社会通念への違和感も生まれた。


「自立とは、依存先が複数あること」とだれかがいっていたが、
「自立した自分」として、健全に頼ればいいし、「パートナーと対等である」ことは、性別に関わらず、お互いニュートラルに頼りあえる関係であることだ。

稼いでいるか、稼いでいないか、
仕事をしているか、仕事をしていないか、
何者か、何者ではないか。

この期間を経て、これまで無自覚に持っていた自分の囚われを一つ一つ手放すことができて、「どんな状態でも大丈夫だ」と、自分への信頼が深まった。

暮らしに潜む、”無自覚な消費”が与えていた影響

元々掃除は好きだったが、この余白期間中、家の中の隅から隅まで片付け、極力ものを減らしてみた。
忙しかった時期は、買い置きをしておかないと不安だったものも多かったが、極力物を減らしてみると、買い物の仕方も変わった。(必要だと思っていたものは実は不要なものが多かった)
ゴミも減ったし、新しいものを購入したいという欲求もへった。
結果、日々の暮らしのリズムが変わった。(些細なことばかりで、具体的なところが言葉にしづらいが)
スマホのアプリも一掃した。FacebookやTwitterや動画配信サービスのアプリは削除し、全ての通知もオフにした。

面白かったのは、SNSや動画配信サービスを削除した結果、時間が単純に増えただけではなくて、自分自身がどんな欲求を持っていたかに気づけたことだ。

動画配信サービスの影響

動画配信サービスは息抜きになっていて、何も考えたくない時に使っていた。
息抜きをしたいことは無自覚で、そういう時にふと手にしてしまうのだが、アプリがないからスマホを閉じる。動画を見るのではなく、お散歩をしたり、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、瞑想をしたり、に切り替えてみたら、身体の疲れが劇的に変わった。
身体や脳が疲れている時に手にしていたスマホでの動画視聴は私の体をさらに疲れさせていただけだったことに気づいた。

SNSがもたらしていた影響

SNSのアプリを削除してみて気づいたことは、SNSが「私の学びや向上心の刺激」になっていたことだ。

「こういうイベントや講座を近々やる」という投稿を見ると、「時間あるから参加してみようかな〜」と思ったり、「この本面白かった」という投稿を見ると、「私も読もう」と買ってみたり。
面白そう!と好奇心を満たしているかと思っていたが、私は人の投稿をきっかけに、自分のスケジュールを埋めていたんだと、SNSのアプリを削除してみて気づいた。
自分で自分の時間を選択しているようで、そうではなかったのだ。
SNSを削除してみると、人の投稿をきっかけとした好奇心や衝動ではなく、自分の内側から自然と好奇心が湧いてくる。
アプリを削除する前までは、「SNSは人との繋がり」を生み出しているのかと思っていた。
けれど、アプリを消しても必要な人たちとは、(当たり前の話だけど)思い出した時にお互いに連絡を取りあえていて、どうやらそのためではなかったようだ。
無自覚にやっている習慣をやめてみると、意識の向けどころが大きく変わる。
暮らしの中に潜んでいるものは、無自覚すぎて気づけないことが多い。
ただ、そのその小さな「当たり前」と向き合うことが、人生にどれほどの豊かさをもたらしてくれるのか、それを体験することができた。


またどこかで、この「余白の日々を終えて、これから」についても言葉にしてみたい。


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