マイパブリックと心のよりどころ
こんにちは。
noteフェスをきっかけに、田中元子さんを知り、ご著書を読んだ感想と、「まち」について考えた話です。
この本でキーワードになるのは、「マイパブリック」ということばです。
【マイパブリック】
「みんなのもの」という責を負わない。作り手本人がよかれと思うものを、やれる範囲でやる。それをフィーリングの合う人が使う。そうでない人は別のマイパブリックを使ったり、あるいは自分でつくったりする。そんな在り方だって、あるのではないだろうか。
- 「マイパブリックとグランドレベル」より
大学時代にプロジェクトで考えた「居場所」
当時のプロジェクトは、子どもたちの居場所を考えていました。今振り返れば、子どものときから、家庭でも学校でもない場所ができることは幸せなことだと思います。辛いときに、逃げる場所があることだから。
色んなコミュニティに足を突っ込んでいくことは悪いことではなく、これからの社会で生きていくのに必要不可欠な能力と言えるかもしれません。
プロジェクトに所属していた大学生当時はあまりピンとこないままでした。しかし社会人になって痛切に感じます。仕事の愚痴が溜まるけれど、生活のためには仕事を続けなければならない。ですが、仕事ばかりの日々でも、心の拠り所を作ることでさらに広がる世界があると思うのです。
私の場合は、会社の近くにあったお店の閉店という出来事が、「心の拠り所」を改めて考えるきっかけになりました。
友達でもなく、同僚でもなく、家族でもない。
「ゆるい関係」というのは、SNSでも言えますが、今後私の人生を生きていく上で大切な関係性なのだと感じています。
「グランドレベル」で何が見えるか
【グランドレベル】
地面。地盤面の高さ。
欧米では、エレベーターの階数が「G」と表示されていることがあります。これは、グランドレベルの意味。
田中さんも本の中で記していましたが、日本のグランドレベルを見ると、マンションでも豪華なエントランスばかり。ベンチが見当たらない、と。ベンチは人々が一旦休憩するための場所の1つですが、休憩する余白すら与えないような日本の景色。
そう考えると、ベンチのように外で椅子を出している店舗は希有な存在です。一方、そういう店舗があると、「入ってみようかな」という気になる。
創作の街 note
この本を読んだきっかけは、10月に開催された「noteフェス」でした。初回のセッションに登壇された田中さんのお考えにとても共感したからです。
そして読みながら思い出したのは、最後のセッションでCEOの加藤さんとCXOの深津さんの回「note創作の街」。
特に加藤さんのお言葉にも刺激を受け、この本を読んで「あ、この世界観をnoteはnoteで創ろうとしているのか」と思ったわけです。(私の勘違いかもしれません。)
私の「マイパブリック」は、noteかもしれない
田中さんのご著書を読み終わり、私は「あ、たぶんnoteやTwitterは私にとってマイパブリックだ」と直感しました。
創作のまちを創るにあたり、noteは、各クリエイターの自由な創作の場を提供しているものの、きちんと最低限の規制はあります。
SNS投稿のマナーであったり。
定期的にクリエイター同士が繋がることができる機会を提供したり。
しかもその機会は、特定のテーマに定めない。
そして、note自体「デザインがすごい」と言われる所以は、きっとどんな分野のクリエイターでも発信できるベースをきちんと整えた上でのデザインであること。
だから、noteを利用するクリエイターたちは、自身の好きなことを発信し続けられるんですね。
そして、いいな!と思う別のクリエイターがいたら、フォローしてみたり、興味を持った分野があればそのコンテストに応募する機会を創ったり。
素敵だなと思いました。
おわりに
先日、「Instagram野望の果ての真実」という本を読んだのですが、Facebookに買収されるにも、創業者とマーク・ザッカーバーグとの間に色々議論がありました。
それは、Instagram創業者が大切にしていることが、「写真を通して世界観をシェアする」ことを大切にし、Instagram側がそういうコミュニティを創ろうとしていた。だけれど、Facebookのデータ、数字重視の方針に飲まれ、やむなく創業者は去らざるを得なかった。
今昔のInstagramを比べてどうか、という話は置いておき、データ重視の風潮がありながらも、リアルでもネットでも「人が創っていく」という世界観は大事なんだなと思う今日この頃です。
▼よろしければ、こちらのnoteもぜひご覧ください。