本当の賢さとは、わからないことを「わからない」と言えること
この頃ふと、本当の賢さとは、
「わからないことをわからないと言える」
ことなのかなあ、と思い始めた。
きっかけは、いつもお世話になっている歯医者さん。腕は普通かもしれないけど、とても丁寧で親切だ。息子の虫歯を治療していただいているのだけど、それがなかなか治らない。なんでも、入り口は狭かったけど、中でものすごく広がっていたのだそうだ。
そしてとうとう先日、先生はこうおっしゃった。
「なかなか治らないでごめんなさいね。ちょっと一度大きな病院で診ていただいた方がいいかもしれない。」
そう言って紹介状を書いてくださった。
私は、その先生の態度に、尊敬の念を感じた。
当たり前のように思う人もいるかもしれないけど、「自分じゃ手に負えないので、もっとプロにお願いしてみよう。」という言葉は、言える人ばかりじゃない。だって、その人にだってプライドはあるし、がんばっていたのだから悔しい気持ちもある。それを、「他の人にも聞いてみましょう。」と言えるのは、逆に、自分に自信があるから。自信があって、自分の今の実力や限界を知っているから言えるセリフなのだと思う。
もちろん、0からの「できません、わかりません。」は、ただの勉強不足だ。誰も信頼してくれない。でも、頑張って取り組んだ上での「できません、わかりません。」には、自分の立ち位置を推し量ることができるだけの力量、即ちある程度の知識と客観的視野、そして謙虚さが必要だ。
そして、
「ここまでは出来るから、ここまではやる。ここから先はわからないから、教えてもらう。」
という姿勢は、勉強や仕事に限らず、全てに言えることなのだと思う。自分の今の限界を知り、それを突き破る努力をすること、それが成長だと考えるからだ。
ただし、そのためには、周りの理解も必要だ。
ネットやテレビでは、残念なことに、大してわからないことを「わかっているフリして話す」人がとても多い。
でもそれは当人たちのせいだけではないのかもしれない。間違いや失敗を許さない社会では、できないこと、わからないことを「恥ずかしい」こととして捉えがちだ。自信がないと、相手に馬鹿にされないために、わかっているフリをして、その自信のなさを覆い隠してしまうのかもしれない。
本当はわからないのに「わかっているフリ」をする。それは少し危険なことだ。本当はわからないことを自覚し、後でこっそり調べくらいの根性があるのならばまだいい。問題なのは、わからないことを自覚せず(あるいは認めず)、そこで学びを止めてしまうことだ。そうなってしまうと、その先の成長は、ない。
何かを「知っている」「わかった」と思い込むことは成長を止めることだ。「ここまではわかったけど、ここから先はわからない」と考えること、そしてそれが素直に言えることこそ、本当の賢さなのではないだろうか。
「わからない」と素直に言える自分でありたいし、また、「わからない」ときちんと言える人を、認める人でありたいと思う。