【小説】椿と佐倉のおしごと日記 虎澤百貨店外商部奇譚 第一話 あやみ、囲われる

あらすじ
「お客様をおもてなしする気持ちや、そのための能力が見て取れる人材であれば、その人が成人である限り、社会的身分や年齢について、当店は差別も区別もしていません」──東京の老舗百貨店の外商部で働く大学生のお仕事は、特殊な事情を抱える富裕層のお客様の依頼に応え、日本全国を駆けずり回ること!?
 同じアルバイト先で働いている彼氏に心変わりされた椿あやみは、ある日新人イケメンアルバイトの佐倉伶に、謎めいた誘いを受ける。
「俺は君を囲いたい」と──。
人情あふれるほっこり溺愛ミステリー(ときどきトラベル)、ひっそり開幕。

※8/5追記
7/23の掲載前に行った第一話の改稿の内容が二話以降に反映されておらず、一部に一話目の内容と辻褄の合わない箇所がございました。
順次、修正をさせていただきます。大変失礼いたしました。

第二話 失われた魔法を求めて 
https://note.com/hitoma/n/na138fe296bb5 
第三話 一、二、三でこっちを向いて。https://note.com/hitoma/n/n06cfd8c3be4f
第四話 
うみねこの鳴く運河の街からhttps://note.com/hitoma/n/n576318a6f858  
 

プロローグ
 
 駐車スペースに車を停め、ドアを開けて古いコンクリートの地面に降り立つと、冷たいけれど穏やかな潮風が頬に当たった。
 白いうみねこが旋回する空は、雲一つない秋晴れ。海は優しく凪ぎ、太陽を照らしている。
 潮風のにおいが懐かしい。胸が切なくなるような思いがした。
 私は両手を少しだけ広げ、足を前へと踏み出す。もっと、この空気を感じたいと思ったのだ。
 ここ小樽南防波堤には、百年以上の歴史がある。
 ということは、この場所は百年以上、波や海風、雨、雪に晒されていたわけで、ところどころが削られて、穴が開いている。
 つまり、足元が悪い。
 はいていたパンプスのヒール部分が穴にはまり込み、私はあっという間にバランスを崩した。
「……!!」
「椿あやみ、気を付けろ」 
 転びかけた私の腕を、強い力で引き上げ支えたのは、同僚の佐倉伶だった。
「ご、ごめん。ありがとう」
 振り向くと、ブルーグレーのスーツに身を包んだ、すらりと背の高い青年が立っている。
 たいていの女性がうっとりしてしまうような、気品のある、美しい顔だち。
 佐倉は整った眉をひそめながら、私を見下ろした。
「仕事中は常に自他の安全に配慮すべきだ。椿は注意散漫が過ぎる」
 要するに、「ぼーっとするな」ということだ。
「はい。すみません……」
 シュンとしている私を、佐倉は顔だけで振り返った。
「行くぞ」
 そう言って、こちらに手を差し出してくる。
 私はびっくりして顔を上げた。
 どうやら防波堤まで、私が転ばないよう、佐倉が手を引いてくれるらしい。 
 真面目で厳しいけれど、優しさもある。
 そんな一面が垣間見える時、私はいつも、隠しきれない「育ちの良さ」を佐倉に感じるのだった。
 佐倉に手を引かれて歩き、ちらりと足元の海面に目をやると、数匹の細い魚が群れになって泳いでいるのが見えた。
「カタクチイワシだな」
「うん」
 今日は天気が良いうえ風が強くないから、海は波が立っていない凪の状態だ。
 だから透明度の高くない海の中でも、水の中がよく見える。
 コンクリートの海水に浸かった部分に、緑色や赤色の海藻が生えていて、私はそこにいがぐり状の黒いものを発見した。
「あ……」
 うにだ──佐倉に教えてあげようと思って顔を上げると、心が湧きたつような美しい秋晴れの空と、佐倉の後ろ姿が目に入った。
 私たちを包み込む明るい陽の光と、佐倉の背中。
 それを見て、ここに来るまでに関わった人たちのことを思い出し、私は開きかけた口を閉じた。
 それぞれの人に、一言では語り切れない想いがあった。
 その人がその人生を歩んでいるがゆえの、その人だけの事情があった。
 これから会う人もまた、抱えていた事情がある。きっと、想いもある。
 
 だから佐倉にうにのことを教えるのは、また後で良い。
 そう思い直して、私は前へ顔を向けた。

 
 第一話 あやみ、囲われる
 
 九月の下旬にさしかかると、東京は一気に涼しくなった。このところ、たて続けに雨が降ったせいもあるのかもしれない。
 街路樹の葉は、秋らしい色付きというにはまだ足りない。けれど、夏の盛りに日差しを反射してギラギラに輝いていた頃よりも、優しい色合いになったように、私は思う。  
 往来の装いは既にはっきりと秋色だ。道を行く人は、ブラウンやベージュ、えんじ色、からし色、ネイビーといった、秋らしい落ち着いた色合いの服を着ている。
 そのほか、来月のハロウィンに向けて、店先にジャック・オ・ランタンや白いおばけの装飾をしているお店がいくつもあって、「秋が訪れた感」の演出に大事な一役を買っていた。
「……ふぅ」
 アルバイト先のカフェ「ジャルダンドゥティガ」の、ガラス張りの店内から外を眺めていた私は、モップの柄を握り直し、視線を店内のへと戻した。
 私の名前は、椿あやみという。今年の春に北海道から上京した大学一年生だ。
 時刻はいま、午前9時30分。
 新人スタッフと一緒に、お客様が飲食をするためのサロンスペースの掃除をしている最中だ。
 カフェの前を行く人たちや立ち並ぶ店がそうであるように、私がアルバイトしているカフェ、ジャルダンドゥティガの内装もまた、秋を意識した仕様に変更されていた。
 特にわかりやすいのは、サロンの中央に置かれた、植物のアレンジメントだ。
 アンティーク調の猫足テーブルに飾られたそのアレンジメントは、葉が黄色く色づいた木枝が生けられていて、よくよく見てみると、黄色い葉の裏側に、栗に似た丸い実がついていた。
 生けられた白くて丸い陶器の周囲には、黄色い葉が数枚散っている。
 さらには茶色くて艶があって、栗ではなさそうなまるい実が、二つほど落ちてもいる。
 わかりやすさと美しさを両立した、見事な「秋の実りの視覚的な情報」だった。
 プロのフラワーデザイナーさんの、こだわりと気合が詰まった仕事に、感心する。
 それはさておき。
私には、気になったことがあった。それは、
「このまるい実は、いったい何なのだろう?」
 と、いうことである。
 これまで自分が生きてきた、十八年分の記憶や知識を頭の中にさらけ出して考えてみても、このまるい実に結びつくような、それらしい答えは得られなかったのだ。 
 なので、私は傍らをくるりと振り返る。
 最近ホールスタッフとしてこのカフェに入った、新人の彼──佐倉伶であれば、答えを知っているかもしれないと思ったのだ。
 私はさっそく、モップをかける手を動かしながら、佐倉伶に声をかけてみた。
「あの。佐倉さん」
 黙々とモップをかけていた佐倉は、「はい」と顔を上げた。
 私はモップの柄を片手に持ち替えて、佐倉のイケメンかつ小さな顔を見ながら、アレンジメントを指さした。
「あのアレンジメントの、植物? 木? なんですけど」
「……はい」
「これって、何なんでしょうか。佐倉さん、ご存じですか」
 イケメンなだけでなく、すらりと背の高い佐倉は、カフェの制服であるギャルソンエプロンを見事に着こなし、アルバイトに入った初日から、お客様にもスタッフにもキャーキャーと言われていた。
 でも彼の一番の特徴は、その外見ではない。と、ひそかに私は思っているのだった。
 佐倉は私の指さした先のアレンジメントに目をやって、当然のように答える。
「これは、マロニエの木です。フランスの、パリを代表する観光スポットであるシャンゼリゼ通りには、マロニエの並木があって、オベリスクがあるコンコルド広場から凱旋門の方まで約3km続いています」
「フランスの、マロニエ、ですか」
 佐倉は、誰もが日常でふと抱くような疑問で、スマホで検索して答えを得るようなこと、もしくは答えを知ることなく忘れ去っていくようなことについて、「何でも」と言えるくらいに知っている。
 佐倉がこのカフェに来てから、二週間が経つ。私は佐倉の教育係として、仕事の合間に、ちょこちょことした雑談を佐倉としてきたわけだけれど。
 結果思ったのは、佐倉はどんな些細なことでも、本当によく知っているということだった。
「このカフェはフレンチスタイルをテーマにしていますから、由来のあるマロニエをアレンジメントにしたのだと思います」
「へぇ……! なるほどです」
 感心して、声が出てしまった。するといつの間にかすぐ横に来ていた佐倉が、私の顔を覗き込むようにして、淡々と言う。
「椿さんは、ご存じなかったんですね?」
「えっ……マ、マロニエをですか」
「ご存じなかったんですね」って。どういう意図でそんな確認を? 
 たしかに、マロニエのことは知らなかったけれども。だから何だというのだろう? 
 嫌味という感じではない。思わず口に出てしまった、というふうでもない。
 佐倉は新人ながら、お客様への気品のある対応は、他のスタッフをしのぐほど。 
 先輩スタッフの言うことをきっちりメモに取って、指示された通りに動く謙虚さや真面目さもある。
 けれど時どき、私に対しては今みたいに、偉そうな、というか、上から目線のような空気感を出す時が、佐倉にはある。 
「それはさておき、椿さん」
 佐倉の静かな声に、私は顔を上げた。
 佐倉は切れ長の目をこちらにを向けたまま、わずかに顎を動かして横を指す。
「あれは、良いんですか」
「え? あれって……?」
 見ると、佐倉が指していたのはテラス席だった。
 私がさっき、往来の様子を見つつ、ちらっと覗っていた場所。
「ああ、あれですか」
 テラス席には、私や佐倉と同じ年ごろの男性スタッフと、少し年上の、髪の長い女性スタッフがいて、開店準備をしていた。
 男性スタッフは中肉中背の短髪で、名前を野々村高志君という。
 女性のスタッフは伊川里香さんという。色素の薄い髪を横分けにした、きさくで魅力的で、色っぽさもある、年上の美人さんだ。
 高志君は、里香さんの頭に手を伸ばして、里香さんの髪に絡んでしまった落ち葉を取ろうと一生懸命になり、「なかなか取れないなぁ」という感じの苦笑いをしている。
 里香さんは恥ずかしそうな表情で顔を少し傾け、口をおさえて笑っている。
 その里香さんの笑顔が、すごく可愛らしいと、私は思った。そして高志君も、そう感じているに違いなかった。
 二人はさっきから、おたがいにはにかみながら、テラス席の清掃をしている。
 この様子を目撃した人全員が、2人の恋の始まりを予感するに違いない、という雰囲気だった。
 いやむしろ、既に二人は。
「お付き合い、してそうですよね」
 率直な感想に笑顔を添えて、佐倉を見上げながら答える。
 すると佐倉は観察するように、私のことを「じっ」と見つめてきた。
 佐倉が私に「いいんですか」と聞いたのは、「彼氏が他の女性とああいう雰囲気でいるのを許せるのか」ということについてだった。
 そう。高志君は私の彼氏なのだ。
 情けない気持ちを、口角を上げた微笑みで隠しながら、私は正直ちょっと驚いていた。
 お付き合いを公表していない私と高志君の関係を、佐倉が知っていて、しかも言及するとは思わなかったのだ。
 まさか、佐倉の知識がそこにまで及ぶとは。
 とはいえ、実は佐倉には一度、高志君と二人でいる時に遭遇したことがある。
 地元が同じで同学年、この春上京したという共通点のある私たちは、「東京らしいところが観たい」と考え、話し合った。
 結果、「テレビでよく見るところに行きたい」ということになり、永田町へ国会議事堂を観に行った。
 その時、とある政党の本部施設前で、スーツを着た急ぎ足の佐倉とすれ違った。
 挨拶するタイミングはなく、おたがい会釈すらなく別れたその時のことを、佐倉はしっかりと覚えていたらしい。
 まぁ、それはさておき。  
 私と高志君は、お付き合いしていることを同僚の人たちに特に公表していない。
 だからこの場合、里香さんは悪くないと私は思っている。
「別に……良いも悪いもない話です」
 しいて何でもなさそうな声で答え、私は佐倉に笑顔を向け続ける。
 そうだ。良いも悪いもない。私が「それはダメです!」と表明したからといって、高志君の恋心の移ろいを、止められるものではない。
 既に高志君は、他の女性とああいう甘酸っぱい雰囲気で接しているのを、私に見られてもかまわないというスタンスになってしまっているのだから。
 メッセージのやり取りも、直接会うのも、既におざなりになっている。
 私にとって、高志君は初めての彼氏だった。だからこういう、わかりやすい恋の終わりの気配も、私の人生ではこれが初めてで。
 どうしたら良いかわからない。でも何となくわかるのは、ここまで次の人への心移りが明らかな場合、何かのきっかけで高志君の心が私に留まったとして、もうどうにもならないということだった。
 まだ、高志君のことを好きな気はする。でももう、以前と同じ気持ちで彼に接することは出来ない。
「向こう、終わらせちゃいますね」
 私は佐倉と、そしてテラスの二人に背を向け、清掃作業を再開した。
 
 清掃を終えた私は、手を洗ってキッチンへ入っていた。
 デリのお惣菜をテイクアウトの冷蔵コーナーへ運び出すのは、開店時間に向けての最終段階の作業だ。

「椿さーん! ちょっとこっち、来てもらって良いかな」 
 と、バックヤードの入り口から、朗らかな呼び声が聞こえる。「はい!」と返事をしながら走って行くと、帆布素材のバスケットを持った、がっしりとした体型に、顎髭を生やした眼鏡の男性が立っている。
 彼は、このカフェの店長だ。いま、店長にこのタイミングで呼ばれる心当たりが、私にはあった。
「お客様の、お忘れ物ですね」
「うん。これ、ちょっと見てくれる?」
 そう問いかけてくる店長と一緒に、私はお忘れ物用バスケットの中を覗きこんだ。
「スマホ、ハンカチ、ハンドタオル、イヤホン、婦人用の日除け手袋に、折りたたみ傘……まさに、忘れ物のオールスターだよねぇ」
 困ったように笑う店長に、「ですねぇ」と私も苦笑した。
「──それで」
 本題に入るような、声色と表情。店長は顔を上げて私の顔を見た。
「椿さんの見覚えのあるもので、今日お返しできそうなのはありそう?」
「ええと……」
 店長に開店前に呼ばれる心当たりとは、このことだ。
 店長は、私がシフトに入っている時に来店されたお客様が身につけていたもので、今日これから来店する見込みがあるお客様の忘れ物はこの中にあるか、ということを私に聞いている。
 つまり、その方がこれから来店された時に「こちら、前回いらした際にお忘れではないでしょうか」とお返しするのを、店長と私はやりたい、という話なのだ。
 私は変なところでやたらと記憶力が良いのである。あまり興味のないものについてはどんどん忘れてしまうけれど、お客様の容貌や服装などは、一目見ればだいたい覚えてしまう。
 その変な記憶力を店長に見込まれ、シフトに入る時にはこうして「お忘れ物お返し担当」の任を任されている。
 ちなみに、忘れ物をした人の中には「どの時点でなくなったのかがわからない」という人がとても多いから、「こちらお忘れでは……」と私や店長が忘れ物を差し出すと、ものすごく感激される。
 だからお忘れ物のお返しは、小さな仕事ではあるけれど、とてもやりがいがあるのだった。
「あ、これ」
 バスケットに入っていた忘れ物の中から、私はとある一つを手に取った。有名なブランドの意匠が総柄になったそれを見ると、ジャケットを着た男性のお客様の姿と、その後ろに見えた空の色やその時オーダーした飲み物が、パズルのピースのように頭に浮かぶ。
「ハンカチか。紳士ものだよね?」
 店長の言葉に、私は小さく首を傾げた。
「ハンカチ……お忘れになったお客様は、これをジャケットの胸ポケットに入れて……えーと。なんでしたっけ、そういうの」
「あー。ポケットチーフってやつね。てことはおしゃれ上級者なお客様だね?」
 おしゃれ上級者。店長の表現に、こくこくと首を縦に振る。
「ですです。見たらすぐにわかると思います。グレーヘアの、もう、いかにも素敵な紳士って感じの方で、良さそうな生地のジャケットをいつもお召しです。眼鏡はしていなくて、カフェオレの砂糖なしを毎回オーダーされます。きっともうすぐご来店するはず──」
 と、言っているそばから、サロンの中へと一番客で案内されて、一人の紳士が入って来た。いつの間にか、開店時間となっていたらしい。
 私は店長にアイコンタクトで、「あの方です」と伝えた。
 既にお仕事モードになり、穏やかな笑みを口もとに浮かべた店長は、私にだけ見えるよう、腰の位置でピースサインを作り、ふりふりする。
「合点承知。行っておいで」ということらしい。
 紳士がこちらに気が付いて、中折れ帽を軽く挙げながら会釈をしてくれた。私も小さく口角を上げて、会釈を返す。
 紳士とは、何度か会話をしたことがある。何のお仕事をしているのかはわからないけれど、とってもユーモアのある方だ。
 ある日は、「今日の僕は配達人です」と言いながら謎の黒い小さな箱を悪戯っぽく掲げて見せてくれたり、またある日は「今日は屋形船の手配と縁日の準備でてんてこまいだったよ」とため息をついたり。
 ユーモアがあるというか、なかなかに──いや、かなり謎めいていて、けれどとても楽しい雰囲気のお客様だった。
 ささやかなやり取りの思い出を反芻しながら、紳士が前回忘れて行ったポケットチーフを、私はそっと手に取った。
 これからオーダーを取るタイミングでお返しすれば、きっと、とても喜ばれるはずだ。
 渡したい。ポケットチーフを返したい。
 でも。
「……」
 私はぎゅっと口もとを引き結んで、店長の横に並び、顔を覗き込んだ。
「どした?」と問うように小首を傾げる店長に、両手で紳士のポケットチーフを差し出し、頭を下げ、小声で切り出す。
「この後、ちょっと外せない業務があるので店長お願いします……!」
 眼鏡の奥で目を丸くしている店長にそのまま背を向けて、私はその場を離れることにした。
 あの紳士はこれからもこのカフェを利用するだろうから、忘れ物を返すのは店長に任せた方が良い気がしたのだ。
 薄暗いバックヤードを進むと、両手にクリーニング済みのナプキンを抱えた佐倉とすれ違う。
 怪訝そうな顔の佐倉に「お疲れ様です」と短く言いながら、私はさっきの光景を思い出していた。
 陽光の降り注ぐテラスで繰り広げられていた、里香さんと高志君の恋愛未満の微笑ましくも初々しいやり取り。
 私が自分で紳士にポケットチーフを返さず、店長に託した理由はこれだ。
 自分の彼氏が同僚へ心変わりをしているのを間近に見ながら、それを受け入れつつ働き続けて、私か高志君か、どちらかから別れを切り出す。
 それは、私にはたぶん──いや確実に、無理そうだという話だった。
 
 今日は休日とあって、開店からティータイムの終わりまで、ひっきりなしにお客様が来店された。
 動き回って、たくさん運動できたのはいいけれど、そのぶん足の裏がちょっと痛い。レザーのパンプスに敷いていたインソールは、そろそろ替え時のようだった。
 ギャルソンエプロン型の制服をロッカールームで着替えて、通用口へ向かう。
 途中には休憩室があるから、誰かがいれば挨拶くらいはしなければと思う。
 高志君がいても嫌だし、里香さんがいても気まずい。だからいっそ、誰にもいて欲しくない……いませんように……と祈り、薄暗い蛍光灯の廊下を歩く。
 しかし願いはむなしく、休憩室には人の気配があった。
 作り笑顔の準備をして顔を向けると、そこにいたのは佐倉だった。
 薄手の黒いジャケットに白いシャツ。私服なせいか、雑誌モデルみたいな風情がある。
 佐倉は長い足を組み、片手に持った本を読んでいた。
 私の気配に気が付き、顔を上げた佐倉と、目が合う。
「お疲れ様です」
 心の準備はしておいたのでスムーズに、「にこ」と笑顔を作れた。あとは、挨拶をして通り過ぎるのみ。
「お先に失礼しま……」
 失礼します、を最後まで言えなかったのは、ひとえに私のスルー力が足りていないせいだ。
 視界に飛び込んできた光景──具体的には、佐倉が読んでいた本の、表紙にデザインされた衝撃のタイトルを、私は見過ごすことが出来なかった。
「人たらしになる方法~悪用厳禁のドス黒い心理学~」
 人たらしになる方法。
 悪用厳禁の、ドス黒い心理学。
「……、」
 何それ、という言葉が、舌先まで出てきたのを堪えることが出来たのは、運が良かったと思う。
 でも、だ。私は立ち止まってしまった。固まってしまったのだ。
 視線に気が付いた佐倉が、顔を上げる。
 私の顔はかなりドン引きのそれだったはずだけれど、佐倉はなんら恥じることなく、私を真っすぐに見つめてくる。
 沈黙。
 どういう状況なのだろうと思う。
「面白そうな本ですね、私も読んでみたいです」と声をかけたほうがこの場合、正解なのだろうか?
 でも建前でも、「面白そうですね」はともかくとして、「私も読んでみたいです」とは言いにくいタイトルの本だった。
 この間、二秒くらい。
 葛藤していると、スマホの振動する静かな音が、休憩室の中に響いた。
 リズムが違うから、私ではない。佐倉のスマホだ。
 佐倉は変な本をパタンと閉じて膝の上に置くと、上着の内ポケットからスマホを取り出し、長い指で操作した。
「はい」
 電話の向こうは、どうやら男の人のようだった。テンポが良くて明るい感じの声だ。
 これはいなくなるチャンスと考えた私は、佐倉に会釈をしつつ、歩き出した。
 佐倉はこちらに会釈を返しながら、静かな声で「おかしな本を勝手に荷物に入れておくな」と相手に言いつけている。
 あの本について、意外にも(?)佐倉は私と同じ認識を持っていたらしい。
 佐倉が色々なことを知っているのは、そうやって意図せず差し向けられた本でもとりあえず素直に向き合って、中身を読んでみるタイプだからなのだろうか。 
 えらいな、と考えたら、咄嗟に口をついて出た言葉があった。
「あの、佐倉さん。お仕事のことなんですけど」
 通話を終えた佐倉が顔を上げる。
「聞きたいことがあれば、どんどん聞いてください。今のうちに」
 わずかに眉根を寄せた佐倉の顔には、「どうしてそんなことを言うのだろう」と書いてあった。
「えーと。私このカフェを、辞めるかもしれないので……というかたぶん辞めます」
 言ってから、「あ、まずい」とすぐに後悔した。こんなことを言ったら気を遣わせてしまうではないか。
 何かフォローしなければ、と、考えていると、佐倉がすっと立ち上がって、私の正面に立った。
 何だろう? 正面に立った佐倉は私を見下ろして、スマホを片手に淡々と言う。
「連絡先、教えてください」
「……え」
 この話の流れで、連絡先の交換とはいかに? 一瞬固まったものの、すぐに理解する。
「あ、メッセージ質問したいということですね」
 顔を上げ、笑いながら言う。佐倉はそれには答えず、じっと私の顔を見つめた。
「……」
 何かを逡巡するような空気に、私は首を傾げた。
「なんですか?」
 佐倉の顔を覗き込むと、目が合う。
 感情の揺らぎのない、冷静な目つき。そして淡々とした声で、佐倉は言った。
「俺は、椿さんを囲いたいです」
 

 
「なんか、あやみってぃ。最近元気ないよね?」
 そう言ったのは、学校の同級生である、美宇ちゃんだ。
 ドキリとした私は、すぐ横を歩いている美宇ちゃんの方を振り向く。
 美宇ちゃんは、額にかかっていたサラサラの髪の毛を耳にかけながら、真剣な表情で私の視線を受け止めた。
 ボディラインを強調した、セクシーなニットワンピースから覗く美宇ちゃんの肌は、健康的な小麦色だ。
 華奢に見える体の線はよく見れば筋肉質で、所属するヨットサークルでの活動に、美宇ちゃんが懸命に取り組んでいる様子が覗えた。
 美宇ちゃんは半目でぐいっと距離を詰め、私の顔を覗き込む。
「授業の時もこう、ポケポケーッとしてたっていうか。なんかあった?」
「私、ポケポケーッとしてたんだ? あはは……」
 美宇ちゃんの言う「最近、元気がなくて、今日はポケポケーッとしていた」には、当然ながら、大いに心当たりがあった。
 最近元気がなかったのは、同郷の彼氏である高志君の心変わりを目の当たりにしているからであり、今日ポケポケーッとしていたのは、昨日佐倉が「椿さんを囲いたい」などと、謎の発言をしてきたからだ。
 ちなみに、佐倉は件の発言の後、「迎えが到着しているので、これで」などと言って、私の返事を待たずにさっさと行ってしまった。
 それからずっと、私はもやもやと悩んでいる。
 佐倉が言った、「きみを囲いたい」とはどういう意味なのか?
「囲う」という言葉で私が連想したのは、着物姿の佐倉が、着物姿の私を、小さめの日本家屋みたいなところに留め置いている状況で、本宅に帰るらしき佐倉を手をついてお見送りして……。
 という、あるはずのない、かつ、しょうもない想像で、一瞬でもそういう方向に想像力を働かせた自分に対して呆れたりしている。
「相談に乗るって言ってるのになぁ?」
 美宇ちゃんの、横目で軽くにらみながらのありがたい申し出に、私は首をすぼめたくなる。
「そのうち、話させてね……」
 本当は、彼氏である高志君の心が離れた状態にあることについて、甘いものでも思いっきり食べながら、美宇ちゃんに相談したいと思っている。
 でもどうしても、できなかった。
 大学入学と同時に上京してきた私にとって、東京生まれ東京育ちの美宇ちゃんは、初めてのまともな友達で。
 そのうえ美人で、人柄も素晴らしい愛すべき人だ。
 だけど、はっきり言って「どうしてこんな素敵な子が私のお友達なんだろう」と思ってしまう相手でもあった。
 だから、下手な愚痴や相談で、引かれてしまったらどうしようという不安があるのだ。
 そういう訳で、今は力なく「あはは……」と笑うしかない。
 そんな情けない私に、美宇ちゃんは思いっきり「ぷん!」と顔をしかめてから、いつもの顔に戻る。
 それから「全然話は変わるんだけどね」と前置きして、近ごろテレビのコメンテーターデビューを果たした教授の話を、何事もなかったかのようにし始めた。
 歯切れの悪い反応を示した私を深く追求せず、話を終わらせてくれた美宇ちゃんの人柄が、すごくありがたかった。
 他愛のない話を続けるうち、正門の手前にたどり着く。
 ヨットサークルの部室棟へ向かうという美宇ちゃんとは、ここで別れる。
 次の日曜に江ノ島で練習をするので、打ち合わせや用具の点検をするのだという。
 
 駅に着いて改札を通り、汗をにじませながら、ホームへの階段をちょっと急いで登ると、ちょうどホームに電車が入ってきたところだった。
 風圧を浴びてくしゃくしゃになった前髪を直しながら車両へ乗り込み、私は吊革につかまった。
「A Day in the Metro」の発車メロディが鳴ってから、車両がゆっくりと、滑らかに動き出す。 
 各駅で微妙にトーンの違うそのメロディを聞きつつ、途中九段下駅で日本武道館にまつわる名曲「大きな玉ねぎの下で」をはさんで、もう二駅。
 計ニ十分で、電車は大手町駅に到着した。
 改札を出て、東京駅の方面へ歩いた先に、今日の目的地である虎澤百貨店丸の内本店がある。
 東京駅の開業とほぼ同時期に創業した老舗であるこの百貨店の地下食品街に、私は用事があるのだった。
 食品街は予想通り、今日みたいな平日でも混み合っている。圧倒的に多いのは女性客のように見えるけれど、外国人客も多かった。
 皇居周辺は外国人旅行客にも人気の観光スポットだから、そこから流れてきたのかもしれない。
 百貨店には日本の良いもの美味しいものがたくさん売られていて、品質も保証されているから、観光客が立ち寄るのは納得だ。
 私がたどりついたのは、墨田区に本店を置く、和菓子のお店だった。お母さんに頼まれた秋限定の詰め合わせを買うよう、おつかいを頼まれたのである。
「黒糖芋栗ようかんセットを自宅用で、二つください」
 学校帰りに百貨店に行くということで、なんとなく体に力が入っていたけれど、支払いを済ませて丁寧な店員さんから商品の入った紙袋を受け取ると、あっけなくおつかいは完了した。
 電車に乗っての用事が済んだことに、ホッとする。
 自宅周辺と学校、アルバイト先を主な行動範囲として普段の日常を送っている私からすると、土地勘のないところへ買い物に来るのはなかなかの冒険と言える。
 でも、私はこの虎澤百貨店の空気感がとても好きだった。
 小さい時、家族で買い物をした後に、レストランで食べたお子様ランチやパフェを思い出すし、コスメコーナーは洗練されていて、乙女心がきゅんとするような良いにおいがするし、地下は特に混み合って活気があって、山盛りに色んなお惣菜やお弁当が売っているのが良い。
 服飾品や家具をあつかう専門のコーナーには、長く慈しんで使えそうなものが数多くそろえられていて、デザインも素敵だった。
 だから、とんぼがえりするにはもったいない気がした。冷やかしになってしまうからあまりゆっくりは出来ないけれど、それでも他のフロアを見て、何が売っているのかをみたい。
 そう思って顔を上げた、その時だった。
 人が行き交うなか、こちらに向かってくるスーツ姿の青年が目に入る。
「……?」
 風貌に、はっきりと見覚えがあった。見覚えというか──あれは、佐倉だ。
 ほんの数歩先まで近づいても、佐倉は私にまったく気がついていない様子だった。
 見ると両手に、虎澤百貨店のロゴマークが藍色であしらわれた、大きな白い紙袋を複数抱えている。
 何かの買い出しだろうか? スーツ姿で? 
「……!」
 こちらに気がつかないまま、佐倉が私のすぐ横を通り過ぎる。 
 佐倉の上着の胸にはネームプレートがついていた。咄嗟に、凝視する。
 ネームプレートには、よく見かける丸ゴシックとは微妙に違う、どことなく品のあるフォントで、彼の氏名が印字されている。
 私が驚いたのは、佐倉伶という、彼の氏名の左側の部分である。
 そこには紙袋にあるのと同じ、虎澤百貨店のロゴマークがついていた。
 佐倉は私と同じカフェでアルバイトをしているわけで、かけもちということなのだろうけれど。
 それが百貨店とは、なかなかに意外な気もするし、彼の雰囲気によく合っている気もした。
 着ているスーツは素人目に見ても、量販店で「吊るし」として売られているものではない。きちんと採寸し、体に合わせて作られたような質感だった。
『俺は、きみを囲いたい』。
 佐倉がその言葉を私に言ったのは、昨日のことだ。
 気のない様子で、スマホを片手にそう言った佐倉の姿が頭の中によみがえった時、私の中に、むらむらとした衝動が沸き起こった。
──佐倉の、行動と言動の理由を知りたい。
「……」
 いったん人の流れから抜け出ると、私は佐倉の向かった先へときびすを返した。
  
 しかし佐倉を追うのは予想以上に大変そうだと気付いたのは、すぐだった。
 とにかく、佐倉が速い。速すぎるのだ。そしてたぶんというか確実に、佐倉は先を急いでいる。
 その佐倉を、買い物客の皆さんの邪魔にならないよう、かつ、間違ってもぶつからないように気を付けながら進まなければならない。
 運動神経がためされるし、神経を使う。
 早足に進むブルーグレーのスーツの背中は、数メートル先に見え隠れしながら、しだいに遠ざかっていくのがわかった。
 考えてみたら、私と佐倉では身長差がニ十センチくらいもあって、足の長さがまず違う。歩く速さが違うのは当然のことなのだった。
 あわあわしているうちに息が上がってきて、「わたし、何をしたいんだろう……」と、冷静というか情けない気持ちになってくる。
 こんな風に本人の知らないところで追いかけて、自分が知りたい謎を解き明かそうというのは、同僚としてどうなのだろう。いかがなものだろう。
 こうなると、最初の勢いはどこへやらだった。
 冷静で慎重な気持ちが湧いてくれば、急いでいた足はすぐにペースダウンする。
「……、」
 目を凝らしても、佐倉の姿はもうどこにも見えなかった。
 邪魔になってしまうから、立ち止まることは出来ないけれど、もともと見知った場所ではない。
 どこへどう方向転換すれば良いのか、すぐには思いつかなかった。
 なのでそのまま、流されるようにしてとりあえず歩く。
 杖をついた和服姿の小柄な紳士や、上品でクラシカルなワンピースを身にまとったご婦人とすれ違ってから、人の歩いていない方へと抜け出した。
 抜け出した先には、生絞りのジューススタンドがあって、その横の通路を挟んで壁側は、階段だった。
 左右と中央に黒い手すりをそなえた石造りの階段は、休憩スペースになっていた。英国式の庭園にありそうな、金属式のテーブルと椅子が置かれていて、透明なカップに入ったマスカットグリーンのジュースを、小さな子が目を細めながらストローで飲んでいる。
 天井は高い吹き抜けで、踊り場の壁にはめられた大きなステンドグラスには、地上からの西日が届いて淡く光っている。
 後で知ったことだけれど、虎澤百貨店の建物は昭和の東京を代表する建築物として有名で、「東京たてもの散歩ブック」みたいな本にもたびたび登場するらしい。
 私はバッグからスマホを取り出した。
 ステンドグラスとジュースをそれぞれ写真におさめて、ようやく気が付く。トップの画面には、新着メッセージの通知が表示されていた。
 送信元は、高志君だ。 
 喉がぎゅっとして、みぞおちに力が入る。
 ここ数日、私たちはメッセージのやり取りをしていなかった。
 私が送った「十一月のお誕生日、どうする? 何か食べたいものなどあったら教えてね」という数日前のメッセージに、高志君からひよこが親指を立てて「いいね」しているスタンプが返ってきたのが最後のやり取りだ。
 朝起きて、高志君のスタンプでの返信を確認した時に、なんとなく、違和感みたいなものを感じてはいた。
 私たちはもともと、まめにメッセージを送り合うタイプではない。けれど、今回みたいに都合を確認するやり取りで、スタンプだけであいまいに返されたのは初めてだった。
 その日は学校が終わった後に、バイトで会える予定だったから、その時に話せば良いと思っていた。
 高志君と里香さんが休憩室で、すごく仲が良さそうに「昨日、楽しかったね」と話しているのを目撃するまでは。
 里香さんと頭を寄せ合うようにして笑っていた高志君が、ふと顔を上げたところで、私たちは目が合った。
 高志君は笑った顔を固定したまま目を逸らし、里香さんの方が私に気が付いて、私たちは挨拶を交わした。
 私も笑顔のまま、その場を通り過ぎた。大丈夫、とその時は思っていた。
 きっと、後で何か説明してくれるはずだと。
 けれど、高志君からは何もないままだった。途中で私は高志君の心変わりという事情を確信し、今に至るというわけである。
 そういう経緯があるから、一瞬、メッセージを開くのは怖いような気がした。
 でも、それでもやっぱり、「私の考え過ぎだったのかも」という期待もあって──結局、私は急いで高志君のメッセージをタップした。
『最近課題とか忙しくて、ゴメン!』
『俺の誕生日!』 
『焼肉とか? 食べたいかも』
 というメッセージの後に、よだれを垂らしたヒヨコが、こちらを見ているスタンプ。
「……何それ」
 思わず呟いてしまった。声はかすれて、ほとんど音にならなかった。
 特に釈明せず、けじめはつけずという、高志君の態度。
 胸の奥の方から、重苦しい納得のいかなさが湧いてきて、気持ちが悪い。息が苦しい。
 少しでもスッキリしたくて残りのジュースを飲んだけれど、どうにも出来ずに立ち上がる。
 ジュースの空き容器を回収ボックスに入れて、私はそのまま階段を目指した。とにかく、地上へ出たかった。
 私から何も言わない限り、現状維持を試みるという方針を選んだらしい高志君のやり方が、ショックだった。
 胸の奥の重苦しい気持ちは、喉の方までせりあがって、涙になる。
 今、階段には人がいない。かといってこんな街中で泣きたくないから、溜まったものがこぼれないよう、目を見開いて、上を向く。
 上を向くと、西日に照らされた踊り場のステンドグラスが目に入る。
 踊り場でこちらを見下ろし、目を瞠っている佐倉の姿に気が付いたのは、その時だった。
 
 表通りから少し外れた、古いテナントビルのある一画を、私と佐倉は歩いていた。
 あの時、踊り場で私と鉢合わせた佐倉は、私のところまで降りてきて、耳元にささやいたのだった。
「ちょっとお話しできませんか。ゆっくりできるところがあるので」
 いつもだったら、躊躇していたと思う。
 なのにこうやってついてきたのは、高志君に裏切られて納得がいかず、佐倉には泣き顔を見られて恥ずかしく、もうどうにでもなれという気持ちがあったからだ。
 佐倉には怪しいというか謎の部分はある。けれど、男女間の何かに期待する下心は一切感じないし、何より、しっかりとしたところで働いていることを私は知っている。
 たどり着いたのは、花屋さんの隣にあるガラス張りのカフェだった。
 平成の趣を感じさせる、エメラルドグリーンのガラスの向こうには、いくつもの観葉植物が白いプランターに入って吊るされ、あるいは窓に沿って置かれている。
 温室のようなつくりのそのお店は、「アトリエ エール」というらしい。
 佐倉が外開きの扉を開くと、ベルの音が鳴りひびいた。
 佐倉に続いて、おそるおそるお店の中へと足を踏み入れる。湿度のある優しい空気が顔に当たって、私は顔を上げた。
 額に入った大小の絵画や写真が飾られた店内は、照明が優しく、奥には四人掛けの小さなソファ席があった。
 表には人がたくさんいるのに、お店の中には誰も人がいない。
 キルトのカバーがかかった黒電話が置かれたカウンターの内側で、コーヒーサイフォンの中のお湯がコポコポ音を立てているのが見える。
 カウンターの奥にかかっているのれんは、黒電話とおそろいだ。
 まるで時が止まっているかのような──ドールハウスを覗き込んでいるみたいな不思議な感覚になった時、キルトののれんが揺れた。
「はぁい」
 現れたのは、黒いタートルネックを着た細身のマダムだった。
 ワンレングスのショートボブが印象的なグレーヘアのマダムは、佐倉を一瞥して「あら、佐倉くんじゃないの」と鷹揚につぶやき、それから私の方に気が付いて、わずかに目を瞠った。
「あっら……珍しいこと。佐倉くんのお友達?」
「あ、えーと」
「そんなところです」
 状況的にどう答えたら良いのか迷った私の代わりに、佐倉はサッと答えて、奥のソファ席の方へと進んでいく。
 マダムは佐倉を見送り、私の方へ向き直ると、笑みを深めて「ゆっくりしてらしてね」と首を傾けた。 
 私はマダムに会釈して、佐倉を追う。佐倉はソファ席の前で待っていて、私を見とめると、座るよう促した。
 私が壁側、佐倉は向かい側に座る。
 そして座るなり、佐倉はいきなり口を開いた。
「カフェ。辞めるんですか」
「……!」
 まだ腰が落ち着かないうちから、何の話だと思いかけたけれど、実はそう唐突な話題ではない。
 ある程度の事情を知る佐倉は、さっき階段で泣いていた私を見て何かを察したらしい。
「お話し出来ませんか」と私に耳打ちをした後、続けるようにして「今の状況の椿さんには、そう悪い話ではないと思いますから」と言っていたのだった。
「あ、はい。辞めるつもりです……もう間違いなく、辞めます」
 きっぱりさっぱり答えたつもりが、ちょっとだけ怒りがこもってしまった。
 佐倉は静かに「そうですか」と頷き、いきなりこんなことを言った。
「では、椿さんに紹介したいお仕事があります」
「え? お仕事……ですか?」
「つきましては、僕の上司がこれからここへ来ます」
「えぇっ?」
 いやさすがに、急展開過ぎやしないだろうか。
 混乱しているさなか、トレーを持ったマダムがやってきて、ブラウンのグラスに入ったお水とコースター、あたたかいおしぼりを置いてくれる。
 佐倉はマダムに「ケーキセットを三つ。飲み物はブレンドで」と慣れた様子で注文し、マダムはゆったりとした仕草で伝票を書き……と、のんびりした時間が流れている。
 しかし一方で、私は一人でハラハラしていた。
 仕事の紹介? 上司がここへ? どういう展開なんだろう?
 胸の前で片方のこぶしを握りこんだりして、落ち着かずにいると。
 グラスのお水を飲みながらスマホを確認していた佐倉が、後ろを見やる。 
「着きました。上司」
「えっ」
 佐倉と同じ方向を見て、私はさらに混乱した。
 カーブを描くように枝葉を垂らした観葉植物と、エメラルドグリーンのウインドウの向こうに立っていたのは、昨日もジャルダンドゥティガに来店した、紳士だった。
 ポケットチーフの忘れ物をし、屋形船の手配が大変だったと笑い、手にした正体不明の小箱を、届ける仕事の最中だと明かしてきたこともある、謎の紳士。
 紳士は両手でこちらに手を振ってから、エールの扉を開けてお店の中へ入ってくる。
 マダムは「ヨッ」と挨拶をするように片手を上げて紳士を迎え、紳士は「どうも」と帽子を上げて返してから、私と佐倉の座る席へと足取り軽くやってきた。
「やぁ。こんにちは」
「は、はい……こん……にちは……?」
 佐倉は奇麗な所作でお水を飲み、紳士はにこにこと笑い、マダムは紳士の目の前にお水を置いた。
 状況を飲み込めないでいるのは、相変わらず私だけだった。
 アルバイト先に来ていた、ポケットチーフのお忘れ物をして、屋形船の手配で大変な思いをした、謎の小箱のお客様。
 その人が佐倉の上司とは、一体どういうことなのか?
「ケーキ、頼んでくれた?」
 紳士は佐倉の横に座って、おしぼりで手を拭きながら、わくわくした様子で訊ねている。
 二人のやり取りを緊張しながら見守っていると、紳士と目が合った。
 紳士が穏やかに微笑む。
 空気が変わったのは、その瞬間だ。
 ゆるく口角を上げたまま、紳士はコホンと咳ばらいをして、居住まいを正した。
 そして無駄のない、けれどゆったりとしたした仕草でジャケットの内側に手を入れ、黒い革の名刺入れを取り出した。
「虎澤百貨店外商部の、及川と申します」
 差し出された一片の名刺。相変わらず状況は飲み込めていないのに、言葉は自然に、口をついて出た。同時に、両手も。
「頂戴いたします」
 絹のような手触りのそれを受け取って、私は顔を上げる。
 佐倉の上司である彼は、虎澤百貨店の外商部というところで、部長職についているらしい。
 と、いうことは、佐倉も虎澤百貨店の外商部で働いているということになるわけだけれど……。
「単刀直入に言います。椿さん。僕たちと一緒に、虎澤百貨店の外商部で働いてみませんか」
「外商部……ですか」
 及川部長の声は、不思議だった。
 今さっきまで状況を整理しきれず緊張していた心が、いつの間にか凪ぎのように落ち着いている。
「すみません。私、外商部がどういうお仕事をする部署なのか、曖昧にしか知らないんですけど」
 包み隠さずに言うと、及川部長はゆったりと頷いた。 
「うんうん。じゃあまずは、百貨店の外商とはいかなる仕事なのか、の説明から始めた方が良いのかな」
「はい」
「佐倉君。説明して」
「……っ、俺がですか」
 気を抜いていたらしい佐倉の、手に持ったグラスの水が波打っている。
「同じ年齢の君の言葉で説明した方が、椿さんもわかりやすいと思うんだよねぇ」
 佐倉は背すじを伸ばして口もとに手を当て、考える素振りを見せる。
 そこにまた、トレーを持ったマダムがやってきて、私たちの目の前にそれぞれソーサーとコーヒーを置き、それから砂糖のポットとミルクを置いていった。
 コーヒーの深い香りが広がる中、佐倉が静かに話し始める。
「──外商とは、法人や個人のお客様に、店舗に限らない場所で商品を売る仕事のことをいいます。たとえば、お客様のご自宅など」
 私は佐倉の説明に、ふむふむと頷いた。
 モノを買うといえばお店に買いに行くか、ネットかフリマアプリを使う私にとって、それはやっぱり遠い概念ではある。
 けれど、これまでの人生で何となく聞いたことのある「外商」の情報と、佐倉の説明は、頭の中ですっきりリンクする。
「外商は昔から色んな店で行われていて、古いものでは江戸時代にまでさかのぼります。現代では、高額のお買い物をされる方がメインの客層であるという性質上、誰もが知っているというわけではありませんが、実際に利用している人も、知識として知っている人も多くいますし、海外のハイブランドにも外商のサービスがあります」
 佐倉は手元のカップに、ポットから薄茶色の角砂糖を三つと、ミルクを多めに入れて、スプーンで混ぜ溶かしながら、話を続ける。
「これはあくまで噂ですが……入手することが困難で有名なブランドEのバッグBを初めて購入する場合、転売防止のため、そのブランドの外商担当者と懇意にならないと、購入の目途が立たないと言われているそうです」
「す、すごい話ですね……」
 知らない世界線の話に、目を丸くする思いだった。感心しながら話の続きを待っていると、「すみません、話が逸れました」と言って、佐倉は咳ばらいをした。
「話を虎澤百貨店のことに戻します。当店の外商部は、一定以上の金額のお買い物をされたお客様に担当者をつけさせていただき、店舗でのお買い物をアテンドするほか、お宅に伺って商品をお見せしたり、外出先に品物をお届けしたり、といったサービスを提供しています。たとえば時計、万年筆のインク。高級レストランのお弁当100個など」
「外出先にも……」
 話を聞いていて思い出したのは、私のアルバイト先のカフェ、ジャルダンドゥティガにお客様として来ていた及川部長が言っていた「今日は小箱を運ぶ仕事です」という言葉だった。
 あの時の及川部長は、お客様のところへ商品をお届けする途中だったということだろうか。
 必要になった商品を、必要な場所へ、担当者が届けてくれる。その人からすればありがたいだろうし、すごく便利なサービスだ。
 けれど、思ったこともある。それは、外商のサービスは便利な半面、お店としては、すごくコストがかかるのではないだろうか、ということだった。 
 佐倉は私の疑問を察したように、口を開く。
「僕たちが提供するサービスにかかる費用を上回る額のお買い物を、お客様はしてくださいます。だから僕たちも、可能な限りのサービスでお応えしています」
 なるほど、と思って、私はこくこくと頷いた。
 まるで心の中を読み取ったかのような佐倉の説明には驚いたけれど。
 何はともあれ、だいぶ、百貨店の外商サービスへのイメージが出来てきたと思う。
  出来てきたところで、素朴な、そしてとても根本的な疑問も出てくる。
「そのお仕事って、大学生でも大丈夫なんですか……?」
 私の疑問に答えてくれたのは、及川部長だった。
「お客様をおもてなしする気持ちや、そのための能力が見て取れる人材であれば、その人が成人である限り、社会的身分や年齢について、当店は差別も区別もしていません。まぁ大学生だと時間の都合もあるから、アシスタントという立場の方がおたがいにやりやすいのかなと思うけど」
 柔らかい笑みを浮かべながら、きっぱりとそう言って、及川部長はテーブルの上に手を組んだ。
「今のは虎澤百貨店が表明した、人材発掘に関する指針なんだけれど。僕たち外商部には事情があって、この人ぞ、という人材を見つけた際には、積極的にお声がけをしていました。今みたいにね」
「事情……ですか」
 事情という言葉に、ごくりと唾を飲みながら続きを待っていると、マダムがやってきて、トレーからチーズケーキの載ったお皿を、テーブルへ置く。
 マダムを待ってから、及川部長はさらに説明した。
「そう、事情です。当店の外商部では伝統的に──お客様の、特殊なご用命を承るサービスを提供しています。そのご用命にあたるため、正規の外商担当者のほかに、アシスタント的な立ち位置で動いてくれる人材が欲しい。それで、椿さんに声をかけさせてもらったというわけです」
 締めくくると、及川部長はチーズケーキのお皿の両側に手をついて、私の方へ身を乗り出した。
「と、いうわけで。どうでしょうか!」
「ど……⁉」
「僕たちの仲間として、働いてくれますか」
 いきなり返事を求められたことに面食らって、私は「そ、そうですね」と曖昧に答える。
「あの。ええと」
 いろいろとたくさん説明はしてもらったけれど、わからないことは、まだある。 
 たとえば、「特殊なご用命にあたるためのアシスタントが必要」とのことだけれど、その特殊なご用命とは、なんなのか。
 あと、ここまで話を聞いていて、私は自分がすごく買いかぶられている気がしていた。
 そもそも、いったいどこでそんなに買いかぶられたのか?
 決まっている。アルバイト先の、ジャルダンドゥティガだ。私たちの接点はそこにしかない。
 あそこにはお客様として及川部長が来ていたし、そのうえ佐倉は新人で働いていて、だからそのどちらかが──と考えて、
「……んん?」
 と、私は唸ってしまった。
 何かがおかしい。そんな偶然、あるだろうか?
 思わず顔を上げ、私は佐倉の方を見る。
 佐倉は奇麗な所作で、お皿の上のチーズケーキを一口分切り崩しながら、
「あのカフェで働いていたのは、ある方の特殊なご用命に沿うためです」
 と、こともなげに言った。
 その横で、及川部長がにこにこしながら悪戯っぽく小首を傾げる。
「当店は、潜入調査も承っております」
「……」
 私は、無言のまま、両手で口を抑えた。
『ええ⁉』と、素っ頓狂な声が出てしまいそうになったからだ。
「いやそうだよね、びっくりするよねぇ」
 小首を傾げながら言われて、口をおさえたまま、こくこくと頷く。
 及川部長はうんうんと頷いて、事情を説明した。
「佐倉くんが潜入調査に入って、僕も様子を確認がてら、あのカフェには何度か立ち寄らせてもらっていました。そしたら人となりも働きぶりも素晴らしいスタッフがいた。そして佐倉くんの話では、そのスタッフは辞めるらしい。それなら、僕たちの所に来てもらおう。どこかに見つかる前に囲ってしまおうという話になったわけです」
「囲う……ですか」
 昨日、帰りがけに佐倉が言われた言葉がよみがえる。
『僕は、あなたを囲いたい』
 そうか、なるほど──と、合点する。
 頭の中で、パズルのピースがはまったような感覚だった。
 あの時佐倉が私に言った「囲う」は、人材確保の意味合いだったらしい。 
「あのカフェには、椿さんがいる時には三回くらい行っているかな。僕が飲んだものとか、服装とか、覚えてる?」
 私は頷いた。映像として記憶に残っている情報を、日付と共に、そのまま言葉に載せる。
「覚えています。三回とも、カフェラテの砂糖抜きで、服装は──」
 及川部長が満足そうに頷く。
「うん。やはり、お客様に対する姿勢と記憶力が良いね、椿さんは。ちゃんと関心を持っているということだからね。あとはそう──洞察力も」
 洞察力? と、私は首を傾げそうになった。
 接客の姿勢と記憶力に関しては、自分でも捨てたものではない、と思っている。
 でも洞察力については、心当たりがなかったから、言われて少々戸惑ったのだ。
「そ、そうでしょうか」
「そうです。だからその力を活かして、ぜひ僕たちと一緒に働いてもらいたい」
 言いながら、また及川部長は身を乗り出してきた。
「僕と佐倉くんは、椿さんと一緒に働きたい。いかがでしょうか」
「……!」
  正直なところ、買いかぶられているのでは? という思いはまだ、私の中にあった。
 でもそれよりも今、私の心を支配しているものがある。
 それは、私の力を必要としてくれている、目の前の二人と一緒に働いてみたいという気持ちだった。
 だから、背すじを伸ばして覚悟を決め、真っすぐに前を見て頷く。
「ぜひ、やらせていただきたいです」
 
 まだ仕事が残っているという及川部長とは別れて、私は佐倉と、駅までの帰り道を一緒に歩いていた。
 見上げると、燃えるような夕日が、立ち並ぶガラス張りの高層ビルを照らして、茜色に染め上げている。
 この時間帯の大手町を歩くのは初めてだった。都会の真ん中としか言いようのない場所で見た夕暮れの景色は、独特の切なさを私の胸に刻み付けた。
 こんな空の下、おたがいに無言で歩いているのは何か心細い気持ちになって、私は左隣を歩く佐倉の気配を感じながら、口を開いていた。
「佐倉さんも、外商部のアシスタントなんですか」
「そうです」
「学生ですもんね……学校はどこでしたっけ」
 訊ねながら見上げると、端正かつ無表情な顔が、私を見下ろして言った。
「東京大学です」
 おお……と、私はこっそり感心する。
 佐倉はたぶん勉強ができるだろうな、と思っていた。
 だから納得しつつも、やっぱり東大はすごい。
「椿さんはどちらですか」
 静かな声で訊かれて、私も答える。
「早青大です」
 佐倉が「なるほど」と頷き、私も「はい」と頷いたけれど、「なるほど」とはどういう意味なのか、ちょっと気になる。
 もう少し佐倉と親しければ突っ込むことも出来たけれど、とてもそういう雰囲気ではない。
 というか、と私は思った。
 なんかこう、佐倉と私は同い年で同学年なのに、そういう人と一緒にいるとは思えないほどに、すっごく息苦しい。というか気まずい。
 佐倉とはジャルダンドゥティガで働いていた時、いろいろと仕事についての話はしていたけれど。
 改めて考えてみると、こうして仕事に関係のない時間を一緒に過ごすのは初めだ。だから気まずさのメインは、そこだと思う。
 そしてきっと、私たちが敬語で話しているのも息苦しさと気まずさを助長している。
 なので私は、ちょっと勇気を出してみることにした。
 歩きながら佐倉を覗き込み、
「……あの。これから仕事じゃない時は、敬語をやめてみても良いですか?」
 と、提案する。
「……」
 佐倉は私を見下ろしながら、黙ってしまった。
 あれ。ダメだっただろうか? 
 口角を上げた表情をキープしながら、私は佐倉の返事を待つ。
「……」
 やはり、ダメだったらしい。こういう場合は、とりいそぎ、フォローした方が良い。
 そう判断して、私は前に向き直る。
「ダメならダメで、」
 全然、大丈夫ですけど。そう、言いかけた時だった。 
「いいよ」
「! ……良かったです」
 ダメだったか、と諦めてからの「いいよ」に、私は必要以上にホッとして、また敬語でしゃべってしまった。  
 でも、佐倉は別になんとも思ってなさそうだった。
 今はまだまったく打ち解けられていないけれど、とりあえず、とっかかりは作ることが出来た気がする。
 なので、気になっていたことを、私は聞いてみることにした。
 周囲に人がいないか、確認する。それから少々、声のトーンを落して。
「特殊なご用命って──たとえば、どんなものがあるんですか」
 虎澤百貨店の外商部は、お客様からの特殊なご用命に応える。
 そのためにアシスタントが必要、と及川部長は言っていた。
 その特殊なご用命とは具体的に何なのか、まだ聞いていなかった。聞く前に、及川部長の時間がなくなってしまったのである。
「……」
 佐倉がわずかに顔を上げた。その反応に、秘密の保持や社外秘といった部分で、やはり答えにくさがあるのだと私は悟る。
 でも、こう言ってはなんだけれど。一応、その仕事に関わる予定の私にだって、さわりのない範囲では、聞く権利があると思う。
「答えられる部分で大丈夫、です」
 付け足すように言うと、
「ひゃ⁉」
 背中を押され、すぐそばの街路樹の下へと誘導される。
 摩天楼と呼ぶにふさわしい、高層ビルが立ち並ぶこの辺りで、この夕方の時間帯だから、人気のない場所というわけでもないけれど、知らない人に話を聞かれる心配のないような場所だ。
 佐倉は私に体を寄せ、「今から挙げるのは、実例を脚色した、いくつかだけど」と前置きし──その事例を語り始めた。
「……!」
 それは、脚色された内容と言えど、やはり人に聞かれるのは良くないと思えるようなものばかりだった。
『当家の邸宅の敷地内に、百年前の当主が、かなわぬ恋の相手と一時を過ごしたらしい思い出の離れが残っている。偲びたいが、先代の管理が甘く、残念ながら傷んでしまっている。復元してくれないか』
『祖母の推しであるワーグナー歌いの彼を、祖母の誕生日にサプライズでお招きしたいがツテがない。謝礼は積むので繋いでほしい』
『遺産相続の条件があろうことか「謎解き」だった。人海戦術で知恵をカバーしたい』
『息子が女性にモテるための指南をしてやってくれないだろうか』──。
 聞き終えた私は、声のトーンが上がらないようにするのに苦労した。
「す、すごいですね。予想以上だし、予想外でした」 
「……うちの外商部は日本全国はもとより、世界各地に合わせて約10万人のお客様を抱えている。中にはこういったご用命をされる方もおられる。そして、こういった特殊なご用命への対応は──」
 佐倉は言葉を切り、真っすぐに私を見つめた。
「誰にでも任せられるのものじゃない」
 穏やかだけど、真剣さが感じられる低い声色に、私はゴクリと唾を飲みながら頷いた。
「家系に長い歴史を持つお客様や、プライベートでの顔を公にしたくないお客様というのは、他には明かせない繊細な問題を抱えることがままある。「虎澤百貨店の外商にしか相談できないような悩み」だ。それを担当者と相談し、解決に向けて尽力出来る姿勢がアシスタントには求められる」
 これを聞いて、私は思わず「なるほど……」と呟いてしまった。
 話に出てきた例は、いずれも下手なところへ依頼すれば、名誉が傷つけられたり、変な人たちに目をつけられたり……そういう、困ったことになりそうな話ばかりだ。
 老舗で信用があって、しかも実績がある虎澤百貨店外商部へそういった相談事が持ち込まれるのは、理にかなっていると思った。
 いやはや。もうすっかり自分は大人になって、世間のことをわかったつもりでいたのに、そんな世界があるなんて、まったく知らなかった。
「こういったご用命は、頻繁にあるわけじゃない。でも、ある時にはあるし、急な場合も多い。その際の対応には、予備的体力とフットワークの軽さが求められる。だから、俺たちのような学生アシスタントは重宝される」
 予備的体力。フットワークの軽さ。
 洞察力。記憶力。お客様への関心──。
 どうやら、求められるものはたくさんあるらしい。
「ぷ、プレッシャーを感じる……」
 にわかに緊張して、身震いした私の背中に、佐倉の手が触れた。
「行こう」
 そっと押されて、私たちはまた、茜色に染まった道を歩き出した。
 気が付けば、大手町駅はすぐそばだった。
「じゃあ、また」
「はい。送ってくださって、ありがとうございます」
 来た時には人気が少なかったのに、帰宅ラッシュで人が多い。でも、他の大きな駅にあるようなギッシリ感はない。
 歩き出し、人の流れに乗ってから、会釈くらいしようかと思いついて、後ろを振り返る。
 佐倉の姿はもうなかったので、拍子抜けしてため息が出る。
 自宅のある板橋駅へ帰るには、二番ホームへ向かわなければならない。
  歩いていると、なんだか無性に美宇ちゃんと話をしたくなってくる。
 あの時美宇ちゃんは、私の話を聞いてくれようとしていた。それを勝手に「美宇ちゃんに引かれたくない」なんて考えて、ごまかした自分が恥ずかしい。
 大学の入学式のことを、私は思い出していた。
 まだ入学式なのに、周囲の学生はなぜか既に仲良しになっていて。
 どうやら三月の合格発表の直後からSNSを通じて知り合い、つながっていたらしく──そんなことはつゆ知らずだった私は、同級生たちのコミュニケーション能力の高さに、すっかり恐れおののいてしまったのだ。
 オリエンテーションが終わり、授業がはじまってしばらくしても、友人と呼べる同級生がいなかった私に挨拶をしてくれたのが、いつも一人で行動していた美宇ちゃんだった。
 私も勇気を出して隣に座って良いかを聞いたら、にっこり笑っていろいろ話しかけてくれて。連絡先を交換しようと、美宇ちゃんは言ってくれた。それからの付き合いだ。
 そんな美宇ちゃんが、私の悩みを聞いて引くわけがない。あの時の私は、なんでそんなこともわからなかったんだろう?
 いや、なんでかはわかっている。いろいろと、余裕がなかったのだ。
 今は、違う。変わったお仕事に囲い込まれて、戸惑いも混乱もあるけれど、でも、新しい道が見えたことで、胸がすいている。
 うん。 小さく頷いてから、私はスマホを取り出した。SNSのチャット機能から、美宇ちゃんの画面を開く。
 どんなメッセージを送ればいいかちょっと迷って、結局はシンプルに「美宇ちゃんと話したいよー」と、泣き笑いの絵文字つきで送信した。
 すぐに既読が付いて、「OK! これからごはんとかいっちゃう?」と、返ってくる。
 思わず笑ってしまった。明日美宇ちゃんはヨットサークルの活動で早朝から江ノ島に行くはずだ。
 それなのに、なんてフットワークの軽い。頼もしい。
 こんなふうに、話を聞いて味方になってくれる人がいることは、救いでしかない。
 救い。そう、その言葉だ。
 虎澤百貨店の外商部が担当するお客様は、国内外に十万人もいるらしい。
 その十万人のお客様の中に、事情を抱えて、助けが必要な人がいる。
 その人達の事情がどんなものなのかは、私なんかには想像もつかないけれど
 助けることが出来るのなら、むしろ自分から。
 虎澤百貨店の外商部に囲われたいと、私はそう考えていた。
 


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