椿と佐倉のおしごと日記 虎澤百貨店外商部奇譚 第四話 うみねこの鳴く運河の街から

 
 とある世田谷区の、ちょっとした公園と見まがうような広いお宅に、及川部長と私、佐倉の三人がかりでやってきたのは、納品する品の数が多かったからだ。
 対応に出てきたお手伝いさんに挨拶をしていると、杖をついて、奥から人がやってくる。
「おうっ。小売屋ァ。来たか」
 なんとも威勢のいい「ご挨拶」。もうすぐ御年九十五歳の小沢様は、ニヤリと笑ってから、及川部長を杖で小突くふりをした。
「小売屋とはまた、ずいぶんですな」
「ナニィ、じゃなきゃ御用聞きが良いか」
「そっちの方が僕は好きだなぁ」
 小沢様が部長とお話している横で、私と佐倉はお手伝いさんの案内にしたがい、持参した品を運び入れた。
 こちらのお宅に限らない話だそうだけれど、基本的に、納品の業務は配送業者にお任せすることの方が多いらしい。
 ではなぜ今回のように、外商員がみずから納品をするパターンがあるのかというと、それにはやはりメリットがあるからなのだそうで。
 たとえばお客様の近況を知ることで、外商員は、必要な商品やサービスについて心づもりをして、業務の下地を作ることができる。
 そして大きいのは、佐倉曰く、
「近接性バイアスを軽視する外商担当は滅びる」
 なのだそう。近接性バイアスとは、簡単に言うと、顔を合わせたり物理的距離が近くなる機会の多い人──要は、会って仲良くすることが多い相手に対して、人は親近感を抱き、優遇したくなる……のだとか。
 普段から商品を買ってもらったりして、良い関係を築けているからと言って、顔を見せるのを疎かにしていると、お客様との関係性は悪くなり、必要なサービスもわからなくなるという話らしい。
 今回小沢様のお宅に納品するのは、渓流釣りを始めるのに必要な道具の一式に、海釣りを始めるのに必要な道具の一式、それから屋内用燻製器の大型のものが一台。大きな箱に入ったものをいま、佐倉が車の荷台から降ろしている。
 まるで、新しい趣味を始める三人分くらいの品々だ。けれど驚くべきことに、これらはすべて小沢様ひとりのものらしい。
 これくらいの年齢で、そんな気力に満ち溢れているなんてすごい──と、こっそり感心していたつもりが、表情に出てしまっていたらしい。小沢様が、私を覗き込んできた。
 白く長く伸びた眉毛の下から、鋭い瞳が私を射貫く。
「──俺はかたちから入る人間なんだ」
「す、素敵ですっ」
 アワアワしつつ何とか答えると、小沢様がニヤッと笑った。びっくりして体が咄嗟に佐倉のいるところへ走ってしまう。
 自分の背中の後ろに隠れた私を振り返る佐倉は、怪訝そうな顔をしていた。
「なに?」
「すみません、なんでもないんです」
 自分の落ち着きのなさに、顔が熱くなった。恥ずかしさを紛らわせようと、荷物を降ろしている佐倉に手を貸そうとしたら、「いや大丈夫」と追い払われる。
 察しの悪い佐倉にきぃっ! と(八つ当たりだけど)なっていたら、後ろから声がかかる。
「外商さんがた。美味しいお菓子がありますから、どうぞ呼ばれていってくださいな」
 救世主となったのは奥様だ。
 旦那様よりずいぶん若い、七十代くらいに見える奥様は、おっとりと微笑みながら私と佐倉を手招きしていた。
 小沢様には今回購入した品を使っての野望があるそうで、及川部長に向かって熱く語っている。
 私と佐倉は言葉に甘えて、お宅に上がらせていただくことにした。
 ペルシャ絨毯にアンティーク調のテーブルや椅子が置かれた応接室に通される。
 雉、雄の孔雀、フクロウなどの剥製、信楽焼のたぬき、壺、積みあがった古い百科事典、置時計などなどが並んでいるせいか、部屋の中は博物館のようななつかしいにおいがした。
 剥製たちは、ご主人様ゆずりの眼光の鋭さで、並んで座る私と佐倉をにらみつけている。
「お紅茶はプリンス・オブ・ウェールズですよ」
 おっとりした口調で奥様はそう言い、手ずからお茶を注いでくれた。
「若いんですから、たくさん召し上がってくださいな」
「ありがとうございます……」
 私と佐倉が声をそろえて恐縮すると、奥様は微笑んで応接間を出て行く。小沢様と話し込んでいる及川部長を呼びに行くのだろう。
「……」
 私は、銘々皿に鎮座したモンブランを、無言で見下ろした。
 つやつやとした、大ぶりな渋皮煮が載った見目麗しいモンブランが、「栗の香りは飛びやすいんだから、一秒でも早く食えっ!」と、私を急かしている。気がする。
 にもかかわらず、私がフォークを握るまでにやや間があったのには、理由があった。
 これは本当に恐縮なことだけれど、お客様のお宅でこういうおもてなしをいただくことは珍しい話ではなく。
 そしてつい三十分前に違うお宅で、今と同じように「若いんだからたくさん召し上がって」と、美味しい、こぶりなおはぎを三個も、大喜びでいただいたばかりだったのだ。
  私はそれなりに食べる方であるのだけれど、おはぎ三個はさすがにこたえていた。
 それなのに、
「椿──これも食べろ」
 そう言って、佐倉が自分の銘々皿を私の方に寄せる。
 佐倉はおはぎのお宅で「若いんだから、たくさん食べなさい。こんなに細い体をして……」と、四つのおはぎを取り分けられていた。
 甘党でも大食いでもない佐倉には、やはり厳しい量だったようだ。
 私は泣きたいような気持ちになった。だって──だって、もったいなさすぎる。
 おはぎもモンブランも同じくらいに大好きだけれど、こうタイミングが重なってしまっては、後攻のモンブランが色褪せてしまうのは不可避という話なのだ。
 悲しいし申し訳ないし、自分のお腹のキャパシティのなさが恨めしい。
 まぁ──それはそれとして。
 「いただきます」
 紅茶のカップに口をつける佐倉の横で、とりあえず私は遠慮なく、しかし慎重に渋皮煮をフォークでさらい、頬張った。
「! 美味しい」
 渋皮煮特有のねっとり、もっちりとした食感とともに、栗の香りが鼻腔いっぱいに広がる。
 まったく。色褪せるのは不可避だなんて、とんでもない見くびりだった。
 この調子なら、二個目も美味しくいただけそう──そう考えて安心していると、視線を感じる。
「……?」
 顔を上げてその方向を見ると、入り口からこちらを覗き込んでいる人がいた。
 小沢様である。
「……ッ!」
 突然のご登場に、私はびくりとして、喉を詰まらせそうになった。
 悶絶していると、佐倉が何も言わずに背中をさすってくれる。
 小沢様はそんな私たちを「じっ」と観察してから、おもむろに口を開いた。
「君たちはあれか、──、なのか」
「……?」
 自分の呼吸を整えるのに必死で、何を仰ったのか聞こえなかった。
「いいえ。違います」
 佐倉が引き続き私の背中をさすりながら、やけにきっぱり、何かを否定する。
「?」
 いったい、小沢様に何を言われたのだろう──と疑問に思っていると、小沢様は小沢様で、「何ィ」と、疑うような視線を佐倉へ向けていた。
 何の話だろう?
「違うなどと無責任な立場を取っておいて、二人になった時には甘い言葉を耳元で囁いて、一杯ひっかけてから千駄木のサカサクラゲにしけこむつもりじゃあないのか?」
「あり得ないことです」
 小沢様と佐倉のやりとりの意味がまったくわからない。困惑して佐倉の方を見たら、佐倉は私と目を合わせずに、これまたやけにきっぱりと答える。
「──あり得ません。彼女は同僚です」
 佐倉が冷静に、きっぱりと否定するほどに、なぜか小沢様のボルテージは高まるようだった。
「いいやあり得る。俺が東京に出てきたころにはお前みたいなすかし者がな、そりゃあ大勢いたもんだ。シャンゼリゼのカフェで焼きたてクロワッサンを食べるようなすかし方で女にオデンと安酒をご馳走して、サカサクラゲに連れ込むような、「すかし助平」な輩がっ」
「……」
「す、すかしすけべい……?」
 まったく意味はわからないけれど、小沢様の剣幕に私も佐倉も言葉を失ってしまった。
 話に出てきた千駄木という街は、おしゃれなレストランやカフェがたくさんあるところだ。
 その千駄木の「サカサクラゲ」の意味もわからなければ、小沢様がこんなに熱の入った──どこか嬉々とした表情で佐倉に絡む意味もわからない。
 ど、どうしたら良いのだろう。困る。
「旦那様。もう千駄木にサカサクラゲはありませんよ」
 素っ気ない声は戻ってきた奥様のもので、続けて及川部長が入ってくると、千駄木の話はわからないまま終わって、違う話に花が咲き、あっという間にお暇の時間になる。
「小売屋、次は写経の道具を持ってこい。もちろん一式だ」
 玄関を出る間際、そう言って杖の先で及川部長を指さした小沢様に、部長が微笑んで頷く。
「かしこまりました。写経とは、これまた面白そうですな」
「さっき、釣りというのは存外に暇な時間が多いと言っていただろう。魚を待つ間にやるんだ」 
 時間を無駄にしたくないからな、と続けた小沢様に、及川部長は「明日にはお持ちいたしましょう」と約束する。 
 別のお宅に立ち寄ってから帰店するという及川部長とは別行動になり、私と佐倉は社用車でひと足先に店舗へ戻ることになった。
 車の中で、私は運転席の佐倉に話しかける。
「写経のセットを明日納品ってことは、戻ってすぐに用意しないとだよね?」
「そうだな」
 素っ気なく答えた佐倉の横顔を見ると、さっきの千駄木の話がまた気になってくる。
「そうそう、さっきの千駄木のサカサクラゲ? がどうとかって、何の話だったの? その前の「君たちは、」のところも聞き取れなくて、何もわからなかったんだけど」
「……」
 佐倉は前を向いて、黙っている。
「【千駄木 サカサクラゲ】で検索してもね、これっていう結果が出てこなくって」
「そうか。そうだろうな」
「……? いや、そうかって……」
 私は眉間にしわを寄せた。
 いつもの佐倉雑学で私の疑問に答えてくれると思ったのに、「そうか」って。
 何だろう? 佐倉の態度に、どことなく煮え切らなさというか、歯切れの悪さを感じる。
 あの時あれだけきっぱり「違う」だとか「そういうつもりはない」と答えていたのだから、佐倉は間違いなく意味を把握しているはずだ。
「どういう意味? 佐倉は知ってるんでしょう?」
 じれったさをおぼえて、ちょっと強めの口調になってしまった。
 だって気になるのだ。覗き込むように顔をうかがうと、眉間にしわを寄せてにらまれる。
 佐倉はため息をつくと、しぶしぶといったようすで口を開いた。
「……今から七十年以上前、高度経済成長のころ、千駄木には連れ込み旅館が多く立ち並び、温泉に湯気が立つマークの看板がかかげられていた。サカサクラゲはそのマークを指した隠語だ」
「連れ込み旅館のマーク……?」
 簡潔明瞭なこの解説。連れ込み旅館とはつまり……。
「小沢様の仰るサカサクラゲは、今でいうブティックホテルだとかラブホテルの意味だ」
「──……」
「ちなみに、この話の前に仰ったのは、俺たちが「つがい」かどうか。つまり男女の関係があるのかどうかを確認されていた」
「あー……そうなんだ。なるほど、なるほど……うん」
 どうやら私たちは、とんでもないセクシャルハラスメントを受けていたらしい。 
 全てを理解した今、私はどういう表情でいたら良いのかわからなくなった。
 ど、どうしよう。何か、もっと感想やコメントを言うべきだろうか。
 ちらりと、佐倉の様子をうかがう。
 佐倉は真っすぐに前を見てハンドルを握り、平然とした表情で運転を続けている。
 こうして様子をうかがっていることがバレてもものすごく嫌なので、私はすぐに視線を戻した。
 そしてこれ以上、この問題──私と佐倉が「サカサクラゲ」に行くような「つがい」なのかと聞かれたことについて、考えるのをやめることにした。
 とにかく、元気が良くて何よりだと思うことにしたい。うん。それが一番だと思う。素晴らしい。何よりだ。
 それにしても、九十代も半ばを超えて、あんなにも色々なことに挑戦しようと思える気力は本当に素晴らしいし、いっそ目標にしたいくらいだ。
 そのうち、もう少し気軽にお話しできるような関係を築けたら、秘訣を聞きたい。 

 小沢様の葬儀が行われる運びになったのは、それから一週間後のことだった。
 それにあたって、奥様は、虎澤百貨店外商部へ、とあるご用命を託された。
 
 
 
 私と佐倉はいま、学校の体育館くらいの広さのホールにいる。
 幾何学模様に星を散らした柄のカーペットが敷き詰められた空間は、古いホテルの式場のような雰囲気だったけれど、それよりは照明が暗い。
 葬儀は、小沢様が会長職を務めていた菓子メーカーが主催する「社葬」という形式で行われるのだそうだ。
 社葬という言葉を、私は今までまったく知らなかった。
「企業の創業者や重役が属していた会社が執り行う葬儀のことを、社葬と言う」
 そう教えてくれたのは例によって佐倉だ。
「小沢様の場合は、ご自身が創業した菓子製造の会社が葬儀を企画して、その費用の一切を小沢家の資産管理を行う会社が支出するそうだから、社葬というより複数企業での合同葬という方が正しいのだろうが……」
 どうやら佐倉は今回の葬儀の形式を社葬と呼ぶべきかそれとも合同葬なのか、それとも全く別の呼び方がふさわしいのか……ということについて、悩んでいるらしい。
 私にはよくわからないけれど、真面目な佐倉の中では大きな問題なのかもしれない。
「そうなんだね」
 悩む佐倉に相槌を打ちながら、私はホールの奥に顔を向ける。そこには祭壇があって、ぎっしりと花が敷き詰められた壇上の中央部分に、小沢様のご遺影が掲げられていた。
「──で、その社葬のための会場の手配だとかのすべてを、今回は及川部長が仕切ることになったんだっけ」
 気を取り直して佐倉に確認したとき、複数の人がホールに入ってくる気配がした。
 入ってきたのは、及川部長と会場のスタッフ、それからオザワ製菓の人たちだ。
「社葬の実務を知っている人間ははっきり言って、少ないからな。しかし今回はさらに特殊ではあるわけだが……」 
部長たちは顔を突き合わせて手元の資料を見ながら、この後の流れの最終確認をしているように見える。
 たしかに、打ち合わせメンバーの中で落ち着いた様子であちこちを指さし、指揮を執っているのは及川部長のようだ。
 百貨店外商部の仕事は多岐に渡るけれど、冠婚葬祭に必要なサービス、物品その他の手配を一気に請け負うこともままあることなのだそうだ。
 老舗百貨店の外商ともなれば、一般の人があまり詳しくない、古く細かいしきたりや「いわれ」、必要な物品やサービスをどこへどう手配するかを熟知している。
 要するに、豊富な知識や経験のある人間に託してしまえば、オーダーが一回で済むうえに失敗がないというわけだ。 
「及川部長が担当者になったからこそ、小沢様の御本が、全員の目に留まるように出来たってわけね」まる
「そういうことになるな」まる
「小沢様の御本」とは、小沢様が今際の際に、奥様へ託した一冊の本のこと。まる
「小売屋に、頼んでくれ。返してくれ」という言葉と共に遺したそれは、「トゥーキュディデース 戦史」というタイトルの、上中下巻で刊行されたうちの上巻だった。まる
 一九六六年に発売されたその本の内容は、佐倉によれば「紀元前四三一年からの古代ギリシアのアテナイが、ペロポネソス戦争へと至る経過を記したもので、俺も昔一度読んだきりだ」とのことである。
 その「戦史」という本を、小沢様は誰かに返したいと願っている様子で──けれど奥様にもどこの誰に返せばいいのか、見当もつかない話なのだそう。
 及川部長に依頼するにあたってまずは、先に済ませた密葬のおり、参列した親族に聞いて回ったそうだ。まる
 けれど心当たりのある人は一人もいなかった。小沢様はそれを予測していて、及川部長の名前を出したのではないか、と奥様は仰っていたらしい。〇
「お客様の葬儀はどんな形であっても悲しい」と塞いでいた及川部長も、いまは静かに奮起しているように見えた。
「佐倉君と椿さんは、メモリアルコーナーの設営に立っていて欲しい。小沢様の例の御本に心当たりのありそうな人がいたら、マークして」〇
「メモリアルコーナーですね」
「承知しました」
 私と佐倉は、目を合わせて頷いた。
小沢様の御本──「戦史」はいま、小沢様の経歴や趣味について展示したメモリアルのコーナーの入り口に、目立つようにして「小沢様が臨終の際に持ちぬしに返したいと願った本です。お心当たりのある方はぜひ、名乗り出てください」という説明書きつきで目立つように展示されている。
 どんな風に展示して説明書きをすればいいのかは、現場の懸案事項だった。
 しかし小沢様と三十年以上の付き合いがあり、人となりをよく知る及川部長が「どういう言葉や方式で、というのは小沢様が気にされるところではないでしょうから、率直な説明書きで良いのではないでしょうか」と提案し、入り口での展示となったのだ。
 私と佐倉はさっそく、メモリアルコーナーのある下の階へと移動する。
 古くて薄暗いリノリウムの階段を降りてそこへたどり着くと、まるで博物館にいるみたいな気分にさせられた。
 多趣味だった小沢様のメモリアルコーナーは、実際小さな歴史資料館の常設展示くらいの規模になっている。
 大きな肖像の右隣に経歴を記したパネルがあったりして、それを見て私は自分の出身地が小沢様と同じ、北海道の小樽市であることを知ったのだった。
 他にも、小沢様が創業に至った経緯などの事柄がたくさん紹介されていて、思わずじっくり見入ってしまいそうになった。
 後ろ髪を引かれつつ、佐倉と一緒に、順路を逆から歩いて入り口へ。
 そこには、「戦史」の書影を引き延ばしたパネルが大きく展示されていて、まるでこのコーナーのテーマのようになっている。まる展示の中に戦史(ほんものではない)がある?
 書影が大きく飾られているのはあくまで、この本の持ちぬしを探すためのことだから、決して「戦いの歴史」ということがテーマではないはずなのに──でも、
「なんだか、しっくり来るね……」
 と、私は思わず口に出してしまった。失礼な言い方だったかなぁ、と反省していると、
「そうだな──実際、小沢様は戦中戦後を生き抜いて、会社を大きくした方だから──戦った時もあったんじゃないか」
 佐倉がそう言ったので、「そう、私もそれを言いたかったんです!」とばかりに、何度も頷いてしまった。
 本当に、そうなのだ。小沢様は戦時中と戦後の大変な時に青春時代を過ごして、大学を卒業後に東京に移った。
 高度経済成長期、千駄木にサカサクラゲがあった時代に下積みをして、三十代で独立創業、その後もさまざまな時代の波を乗り越えてきたのだ。
 小沢様のお宅に初めて伺った時の、長い眉毛の下からの、鋭い目つきを思い出す。
「持ちぬしの方──現れると良いね」
「そうだな」
  
 
 
 虎澤百貨店外商二部の執務室は、沈んだ空気に包まれていた。
 椿あやみは直帰したので、俺の向かいの席は空だ。
 このところ内勤仕事の時にはいつも向かいに椿がいて、椿が動くたびに古い椅子のきしむ音が聞こえていた。
 本音を言えば俺はその音が苦手だったので、近々摩擦のある部分に注油をしようと考えていた。
 しかし今、この瞬間に至っては「椿あやみの椅子のお馴染みの音」が部屋の中に響いていて欲しかったと思う。
 あの音は既に、外商二部の活気づいた空気感を表すものとして、俺の中に記憶されているのだ。
「持ちぬしの方、見つからなかったのねぇ。社葬だったら仕事以外で親交のあった人も来ていたでしょうに」
 そうため息をついたのは、鷹人さんだ。
「本命を逃したとなると、なかなかの難題になってきましたね」
 すみれさんは眉根を寄せている。
「……もしかすると、ご存命じゃない可能性もあったりするのかしら」
 鷹人さんのこのつぶやきで、また一段、執務室の空気が沈んだようになる。
 小沢様が探して欲しいと願った対象が既に亡くなっている可能性は、おそらく全員が考えていたことだ。
「……どこをあたるにしても、佐倉君と椿さんにお願いすることになりそうで……歯がゆいなぁ」
 部長席の及川部長が、自分の手元を見つめながらぼやいた。
 次の手をどうしたら良いかを思案しているようにも、考えあぐねているようにも見える。
「私の知り合いの古書店で、聞いてみましょうか? その本を好みそうなお客様を紹介してもらって、その中で探すとか……草の根的ですけど」
 すみれさんの提案に、及川部長は首を横に振った。
「気持ちはありがたいけれど、仰る通りの草の根活動だね。それなら宮ヶ丘さんには通常業務を優先してほしいかな」
 お客様のご用命であれば、草の根を分けてでも対象物を探さなくてはならないというのが虎澤百貨店外商部の大原則ではあるが、及川部長がそう言うのももっともな話だった。
 虎澤百貨店の場合、こういった特殊な依頼には、かかった経費に一定のサービス料を上乗せするという取り決めがある。
 つまり無料で請け負っているわけではないから、お客様の負担やこちらがかけられるコストやリソースなどの事情を考えれば、現実的でない探索はむしろしない方が良いという話なのだ。
 もしかすると、見極めが必要になるのではないか──。
 そう考えるに至り、俺は顔を上げた。
「そもそもが、現実的ではないお話だったのではないでしょうか。小沢様が本を返したかった相手を探すというのは、森の中から一本の木を探せと言われているのと同じだと僕は考えます」
 しかも、その木を社葬という森に検討をつけてスクリーニングしてなお、見つからなかったのだ。
「小沢様と奥様にはとても申し訳なく感じますが、今回の依頼は──」
「佐倉君」
 顔を上げると、及川部長が微笑みながらこちらを見ていた。
「お客様の依頼を無理だと考えるのは、お客様を疑うことだよ」
「疑う、ですか──?」
「うん。佐倉君はさ、虎澤百貨店の外商利用のお客様が、どうしてモノやサービスの購入以外で僕たちに何かを依頼をするのか、理由を考えたことはあるかな?」
「……」
 及川部長が改めて問いかけてくる意味がわからず、考え込んでしまう。
「……お客様は、虎澤百貨店の外商部が長年培った特殊な見識やノウハウ、コネクションを頼りにされて、依頼をくださっているのだと思います」
 問われているのはおそらくそこではない、と考えながらも言葉にすると、及川部長は頷いた。
「それも正解だね。でもそれ以前にお客様は、僕たち外商員であれば解決出来ると判断したから依頼をするんだよ。無理だと考えるのは、お客様の判断力を疑うことだ」
 判断力を疑っている、という言葉が突き刺さる。これは本当にその通りだと思った。
「──はい。仰る通りです」
「虎澤百貨店の外商部なら本の持ちぬしを探し当てられる、ということはね、僕たちが探せる範囲の中にしか手がかりがないということさ。だからそれは森にある特徴の分からない一本の木を探せという、途方もない話ではない」
 及川部長は落ち着いた声でゆっくり話しているが、選ぶ言葉や表現のためなのか、思わず聞き入ってしまう力があった。
「探しているのは限られた範囲の、枝葉に特徴のある一本であるはずで、僕たちなら見分けをつけられる術を持っている。小沢様はそれがわかっていたから依頼したという話さ」
「……はい」
 限られた範囲の、特徴のある一本を探す。
 小沢様は、虎澤百貨店の外商部であれば出来ると見込んで、ご用命をくださった。
 なるほど、と納得するのと同時に、俺は自分の至らなさを痛感した。
「浅慮でした。申し訳ありません」
「謝ることはないさ。佐倉君は素直ってことだよ」
「いえ……」
 どうして最初から及川部長のような思考を出来ないのか。なぜ最初から正解を導き出すことが出来ないのか。
 己の未熟さが呪わしいし恥ずかしかった。
 これまでの人生で幾度となくこういう気持ちを味わってきたが、いつになったら自分は完璧になれるのか、自問してしまう。
 このままではパフォーマンスが落ちてしまうので、どうにか頭を切り替えようと、目の前の作業に集中しようと試みる。
 しかし、すぐには思考が切り替わらず、答えのない自問を繰り返しながら、約三分の時間を無駄にしてしまった。これは未熟さの二次災害だ。
 目を閉じ、ため息をこらえていると、左隣から声がかかる。
「あのねぇ。もっと大人になったら「どうにもならなさそうだけどどうにかしなきゃならない」場面ってたくさんあるわよ。覚えときな、佐倉」
 顔を上げると、頬杖をつきながらこちら鷹さんがこちらに体を向けていた。その向かいですみれさんもうんうん頷いている。
「そうだよ佐倉、覚悟しときな。アワアワしちゃうような仕事を終えた後に、最高の仕事が出来たと思うやつなんて、むしろ信用ならないんだからね」
 先輩二人の話はずいぶん抽象的で、難しい。もう少しわかりやすく話してくれるとありがたいのに──そう考えていると、
「「返事は?」」
 と二人が声を合わせて凄んできたので、何の儀式なんだこれは、という思いにかられつつ、俺は「はい」と返事をしておいた。
「ていうか、学生はそろそろ帰る時間じゃないの」
 鷹さんに言われて、壁の時計を確認すると、時刻は午後六時を回ったところだった。
 俺が学生で、こなさなければならない課題があることを知っていての気遣いだ。
「何か指示がありましたら、連絡してください」
 立ち上がった俺に、及川部長が謝るようにしてぱん、と手を合わせた。
「探索の実務は引き続き、佐倉君と椿さん頼みになっちゃうけれど!」
「かまいません。そのための僕たちですから」
「無理させちゃってごめんね」
「いいえ。お先に失礼します」
 先輩方に頭を下げ、俺は事務室を後にした。
──とはいえ、どうしたものか。
 自宅に戻り、シャワーを浴びてから自室に戻ると、デスクの上に積まれたトゥーキュディデースの戦史、上中下巻が目に入った。
 この本がどういう経緯で小沢様の手元に渡り、なぜ今際の際にまで「返したい」と強く願ったのか。答えが出るまで、考え続けなければならない。
 小沢様ご本人の人となりや経歴については、依頼を知った時に確認してはいたが、改めて調べてみるべきか。
 それで何か結びつくものがあればと思うものの、正直自信はなかった。
 これは俺の能力の無さゆえなのだろうか。悶々としていると、ドアをノックする音が響いた。
「伶くーん、入りますよぉ」
 返事をするより先に入ってきたのは、父の秘書の一人、鴻池だった。
「もう何度言ったかわからないが、俺が返事をしてから開けた方が良いと思う」
「あらすみません」
 俺より少し上背があるくらいの身長に、ゆるくパーマのかかった髪を横に流した鴻池は、永田町の議員秘書界隈で「佐倉外相のところのチャラ眼鏡」と呼ばれている。
 こんな時間でもスーツを着込んで、いつ父に呼び出されても対応出来るようにしているらしい鴻池が何をしに来たのかというと、
「もう少し色んな界隈のパーティーに顔を出すべきです、こんな招待状が来ています」
「有力議員のご夫人の集まりも意外と楽しいですよ、実は伶君ご指名で首相夫人からお誘いがあって」
 だのと、俺が乗り気になれない誘いについて、熱心に参加を促すためだった。
「人脈づくりの大事さは重々承知の上で、気乗りがしない」
 頭を拭きながら答える。鴻池は「そう言うと思いました」と、白い歯を見せて笑った。
「顔を出しちゃうと、ご夫人方や御令嬢から色っぽいお誘いがたくさん来ちゃいますしね。そうなるとまた麦さんがやきもちを焼いてしまうかもしれないですし」
「……、」
 ため息が出そうになったのを、何とか堪える。どうやら本命はこっちの話題であったらしい。
 鴻池の言う「麦さん」とは、親がとり決めた俺の婚約者のことだ。
 わざわざ名前を出したということは、もっと連絡を取れだとか一緒に出歩けだとか、そういうことを言いたいのに違いない。
 が、触れられたくない話だったので、引き続き無言をつらぬくことにした。
「──まったくモテる男はつらいですよね~。俺もこの前ご縁を広げたくてマッチングアプリを使ったら、キャバで仲良くしてた娘が怒っちゃって」
 俺のことを長年そばで見ていた鴻池は、俺について察するのも早い。
 ごくさりげない方向転換で空気が重たくなるのを防いでみせたその手腕には感心したが、
「でもね表参道のダコタンさんのパンを差し入れしたら無事、ご機嫌になってました! 並んだ甲斐があったなぁ~」などという、変えた先の話題があまりにどうでも良かったのには、閉口する。
 そんな調子でペラペラしゃべった後、鴻池は反応しなくなった俺に首を傾げた。
「聞いてます? ていうかお疲れですよね。お仕事、の後ですし」
「お仕事」という語句に込められた明らかな皮肉の響きに、こめかみがうずいた。
 目を上げ、不快感を込めた視線を向けても、鴻池は今度は引かなかった。
「外商の仕事をしながらお兄さんを──宗介さんを探す、とはよく考えたものです」
「……」
「富裕層の方々の横のつながりと情報網はとんでもないですからね~。ご縁をつないでいけばいずれは宗介さんにたどりつくやも……という気持ちは理解できますよ」
 兄の話はいま、一番して欲しくない話だった。さっきとは違い、察していながらわざわざ話題にあげる鴻池のサディスティックぶりに、辟易する。
「もう寝るから。出て行ってくれ」
「でも──」
 追い払おうしたのに、鴻池はにこりと笑ってそう前置きし、話を続けた。
「宗介さんは帰ってこないと思いますけどね。日本にいるかどうかもわかりませんよ」
「──、」
 鴻池はにっこり微笑んで首を傾けていた。 
 何か言ってやろうと思って、やめる。余計に疲れるだけだ。目を閉じてため息をつくと、素っ頓な声が耳に響いた。
「あ、トゥーキュディデースじゃないですか! これはまた、良い本をチョイスしましたね」
 良い本をチョイス──鴻池がこんな言い方をするのは、代々政治家を輩出してきた佐倉家の教育方針になぞらえてのことだ。
 政界へ行って上を目指すには、言わずもがな人脈づくりが不可欠で、多種多様な話題に難なくついていける教養が求められる。その教養を身につけるには読書が必要、という話である。
 俺が本を読むようになったのはそれがきっかけで、十代の初めごろからの習慣になっており──多少は、であるが、どんな相手でも、どんな話題でも、難なく会話が出来るようになった。
 同じ歳の椿などは俺のこういう部分について関して感心しているようだが、これは俺がすごいのではない。本を書き、本を作り、読者の手元に届けた人たちがすごいのだ。
 それにしても──鴻池の反応は気になるところだった。
「その本について「これはまた良い本を」とコメントする理由が知りたい」
 部屋着に着替えながら問いかけると、鴻池は何かのスイッチが入ったように語り始めた。
「そうですね──いつの世も変わらぬ権力者と人民の心理と、それによって物事の因果関係が変化し、平和を望んでいるはずの民衆がどうして戦いへと思考を方向転させられてしまうのか、という部分については特に学ぶべきところがあります。今で言うバイアスだとか承認欲求だとか、他責の精神だとか、そういう身近な事象にいくらでもなぞらえて参考にすることが出来ますからね」
「……」
 内容はともかく、葬儀と仕事の帰りで疲れ、入眠の前段階になった脳には、入ってきにくい話し方である。
 この本は俺も読んだことがあるが、歴史の中の大きな出来事を一つの事象として紐解いたもの、という印象で、鴻池の読み方は性格が悪いと思った。
 それでも頷きながら「うん」と相槌を打っていると、鴻池が何やらドヤ顔になる。
「実は議員秘書界隈で根強い人気があって。特に上巻です。僕も先輩から使い方を伝授してもらって」
「──!」
 気になる話だった。脳の奥が鋭く反応して、眠気が一瞬で引っ込む。
「上巻が、秘書界隈で?」
 小沢様が遺したのも、上巻だった。
 思わず顔を上げた俺に、鴻池は満足そうに頷いて、人差し指を立てて解説を続ける。 
「上巻にはアテネの将軍、ペリクレスが民衆に訴えかける言葉がたくさん載っています。これがまぁキレッキレで、上手いこと市民の心を鼓舞させる内容なんですよねぇ。だから演説の内容を考える時にはもちろん、議員がご縁を結びたい相手へのお手紙を代筆する時なんかには、アレンジして使えたりするわけです。語句を入れ替えればそれなりの内容になりますし、ほんのり詩的な響きがこれまたねー。おじさん方に鉄板で大ウケしちゃってウハウハなんですよね」
「……」
「って、聞いてます? おねむですか? そっちから聞いてきたのに……」
 鴻池は俺の顔を覗き込み、ウワッと声をあげた。
「眉間のしわがヤバい。こわい」
「……鴻池」
 顔を上げると鴻池は後ずさりしながら、
「……なんです?」
 と、慎重な声で言った。
「──ありがとう」
「え、え、何? 伶君がこわいんですけど……あ、俺まだ仕事が残ってるんだった!」
 せっかくこちらが感謝の気持ちを言葉にしているのに、鴻池はわざとらしく切り上げ、「おやすみさなさい」と言って部屋を出て行った。
 
 
 
 ふたたび、私たちは世田谷区の小沢邸にいた。
 佐倉も私もお手伝いさんに借りたエプロン姿だ。奥様の許可をいただいて書斎に入り、戸棚を開けて探し物をしていて──今ようやく、佐倉がそれらしいものを見つけた。
「順番、狂わないように気をつけろよ」
「了解です」
 応接セットのローテーブルの上に並べられたそれらは、穴を開けて厚紙のバインダーに綴じられていた。
 バインダーの表紙には年代が記されている。「昭和四十五年四月~昭和四十六年三月」といった風にマジック書きされていたものが、途中(平成に入ったころ)からはシールになっていた。
「平成三年以降のフォルダは棚に残したまま、出さなくて良い」
「了解です」
 これから私と佐倉は、この小沢製菓の社内誌を、片っ端から確認するという作業をする。
 社内誌は小沢製菓の本社と工場で月に一度、配布されていたそうだ。綺麗に年代順に並べられたそれらは、小沢製菓の企業としての変遷を見ているようだった。
「なんでだろう、なんだか懐かしい気持ちになるね」
 創業当時からしばらくはA4の紙をひとつひとつ手作業でホチキス綴じたしたもので、手作りされた温かみを感じた。
 表紙のイラストや写真はきっと社内で得意だったり趣味にしていた人が担当していたのだろうと想像できる。
 季節の鳥や草花や、当時の映画作品のポスターをオマージュしたような大胆で面白おかしいものもあり、バリエーションが豊かだ。
 内容は実績の報告や、新製品の紹介、競合他社の製品との比較(他社製品をはっきりと批判していて、時代を感じた)があったり、コラムや各部署の新人紹介の記事があったりで、手が込んでいるし、独特の味わい深さがあった。
 会社の規模が拡大して以降は印刷会社に製本を依頼していたようで、表紙も内容も一気に洗練され、雰囲気が変わっていた。
 そしてその後は、
「二〇一五年で発行をやめているんだね……」
 私が言うと佐倉は頷いて、
「ペーパーレスが叫ばれるようになってからはウェブに移行したらしい。それもまだあるのかは不明だが」と呟き、顔をあげて私を見た。
「おい、内容に夢中になるなよ。冒頭の社長のあいさつだけで良い」
 釘を刺されて、内容に夢中になりかけていた私はドキリとした。だって、面白いんだもん──と言い訳したくなったけれど佐倉の言う通りで、今は社内誌をじっくり読む時間ではない。
 私たちは「トゥーキュディデース 戦史」の持ちぬしの手がかりを探りに来ているのだ。 
『小沢製菓に社内誌のようなものがあれば、確認したい。その中に「社長のことば」みたいなコラムがあると思う。そこから手がかりを得られるはずだ』と言ったのは佐倉だった。 
 奥様に問い合わせると『すべて保管しております』とのことで、さっそく二人で世田谷へやってきたのである。
 私の手元にはタブレットがある。そこには佐倉が用意した資料が表示されていて、「将軍ペリクレスの演説一覧」とタイトルがあった。
 で。佐倉が何を考えているのかというと。
 このペリクレス将軍の演説と似たような語感、文章のあいさつ文を、社内誌から探し出せという話なのである。
 なかなかの難題に思えたけれど、やるしかない。
 私は「よし」と腕まくりをして、右手の中指に、すみれさんが持たせてくれたシリコン製のサックをはめた。
「!」
 指にサックをはめたことで紙のめくりやすさが格段にアップしている。
 これは佐倉も使った方が良さそうだ。手のひらに載せたそれを差し出すと、佐倉は無言で受け取る。
 それからしばらくのあいだ私たちは確認作業に没頭した。
「椿は、無理だと思わないんだな」
「え?」
「戦史の持ちぬしを見つけ出すことだ」
 いったい何の話だろう? 無理だと思ったら、こんな風に気合を入れて作業なんて出来ないのに。
「えーと。無理だと思わないかな。だって、見つけるのが不可能なものを依頼するなんて、小沢様はしなさそうだし……それに」
「それに?」
「佐倉が今回社内誌を確認したいって言って、こうやって資料まで用意してきたってことは、絶対に根拠っていうか自信があるんだなって思って……じゃあそれにしたがえば見つかるんだなって」
「……」
「?」
 佐倉が何も言わないので、なんだろう、何か変な事を言っただろうか、と考えていると、タブレットの画面が消えた。
「貸して」
 差し出された手にタブレットを渡すと、佐倉はパスコードを打ち込んでから何やら操作をして、すぐにそれを返してきた。
「はい」
 どうやら設定を変更して、長い時間操作がなくても消えないようにしてくれたらしい。
「あ。ありがとう!」
「……うん」
 佐倉は頷いて、私と同じように、腕まくりをしてから指サックをはめた。
 それからタブレットの画面をスクロールして文章をいまいちど確認し、手元の社内誌をめくり始める。
「それらしいあいさつ文が書かかれたものを見つけたら、その次は書いた人を探す」
「えっ、書いた人は、社長──小沢様なんじゃないの?」
「そういう文章は、代筆されている場合も多い。書きたい気持ちはあっても忙し過ぎてリソースが割けなかったり、本人が文章を作るのが得意じゃなかったり。理由はさまざまある」
「じゃあ、誰が……?」
「秘書かもしくは総務の社員。いすれにしても、社長に近い人間だろうな。そしておそらくは、その人が本の持ちぬしだ」
 それを聞いて、私は生唾を飲み込んだ。
「見逃したらどうしようって思うと、緊張しちゃう」
「資料にある文章を見ながらであればたぶん、難しい話じゃない。ペリクレスの演説にはかなり特徴があるから」
 資料をスクロールして確認した感じでは、たしかにペリクレスの演説には特徴があった。
〝時の言うことをよく聞け。時はもっとも懸命なる法律顧問なり〟
〝貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことである〟
 といった、簡潔明瞭かつ断定している文章が多い。
 でも、そもそも──と私は思った。
 ペリクレスの文章の多くは訳の癖なのか、言い方が現代人からすれば乱暴に聞こえるし、本当にこれが経営者のあいさつ文として使われているのか、少々不安になってしまう──いや。
 とりあえずは、探そう。探す。佐倉を信じてとりあえず動いてみる。これしかない!
 社内誌は創刊が一九七〇年四月で、小沢様が社長職を退任したのが一九九一年三月。
 二十一年のあいだ月一回発行されていたから、合計すると二五二冊。
「俺は小沢様が退任する時期からさかのぼるから、椿は一九七〇年の創刊号から当たってくれ」
「了解です」
 返事をしながら、表紙をめくってすぐのところに載っているあいさつ文を確認する。
『出来る人であるための秘訣は何もありません。ただただ誠心誠意の四字ばかりです──これを見て、アレッ、何かどこかで聞いたことがあるナァ…と思った人。ツウですね。実はこれ、勝海舟の受け売りです。勝はこれを「政治の秘訣」として語りましたが、──』
「……これは違うよね。除外して、次は──」
 あいさつ文の本文は、内容こそ違えど、ほとんどが同じ構成だった。この感じだと、最初の一文だけを見て行けば良さそうだ。
『人の心に残る仕事をする一つの方法を、皆さんに伝授します。それは、真剣に取り組むことです。言葉だけで見ると、いかにも簡単ダナァと。皆さんそう思いますよね。しかし──』
 違う。
『実践で得られる学びには、想像で得られない価値があります──』
 違う。
 そうして探しているうち、一九七一年の四月号に、私はその一文を見つけた。
『知らないことは恥ずかしいことではありません。しかし、その状態から脱しようと務めず、そのままで良いと満足することこそが恥ずかしいことなのです』
「佐倉、これ!」
 向こうを向いていた佐倉の背中を叩いて、紙面を二人で覗き込む。
 佐倉はそれを真剣な顔でじっと目を凝らして確認し、頷いた。
「見つかったな。一九七一年の四月号──この号を含め、前後にあいさつ文を作っていた人物が、ほぼ間違いなく本の持ちぬしだろう」
 一緒にうんうん頷く。
「というか、最初に見て違うと思ったあいさつ文も、もしかして同じ人の代筆なのかな。似てる気がする」
「文頭に偉人の名言のオマージュを置いて、その解説。よくある構成な気がするが、それが癖だったのかもしれないな」
 そう言ってから、佐倉は私を見下ろし、右の手の平を挙げた。
 私はそこに遠慮なく、自分の手のひらを叩き合わせる。勝利のハイタッチだ。
 次にやることは決まっている。
 私と佐倉は世田谷を撤収すべく、二人で片付けを開始した。
 
 
 
 新千歳空港を出発した電車は、途中の札幌駅を経由して、終着駅である小樽駅へと向かっていた。
 車窓から見えるのは、鈍い青色をした石狩湾だ。
 私と佐倉はいま、本の持ちぬしに会うために、小沢様の出身地である小樽へと向かっている。
 小樽駅からレンタカーに乗り換えて、土地勘のある私が運転を担当した。
 観光名所として有名な小樽運河と倉庫街は駅から車ですぐだ。
 深い青緑の水をたたえた小樽運河は、脇に立ち並ぶ古い石造りの倉庫群との色合いのコントラストが美しい。
 ガス灯が設置された御影石の散策路は国内外からの観光客でにぎわい、大正ロマンふうの着物とはかま姿でおめかしをして、人力車に乗っている人も見える。
 そこからまた数分、車を走らせてたどり着いたのは、町はずれの防波堤──小樽南防波堤だった。
 車を降りると、晴れた空を白いうみねこ達がみゃあみゃあ鳴きながら旋回している。
 ここが本の持ちぬしが指定した、待ち合わせの場所。
 奥様が『見つけた方の手でお返しするのが一番良いと思うの』と仰って、私と佐倉の二人で出向くことになったのだった。
 防波堤を歩いて少し行くと、古いコンクリートの側面の、海面よりももう少し下、海藻が生えているあたりに、黒いいがぐり状の何かが見えいる。
 あ、ウニだ、と私は思った。今日はよく晴れて海が凪いでいるから、透明度の高くない北の海でも、水の中が見えやすい。 
「待ち合わせは十三時だ」
 佐倉が腕時計を確認し、あたりを見まわす。
「もういらしているのかもしれないな」
 沖の方まで長く伸びるように造られた防波堤は、横幅は数メートルほどで、釣りを楽しんでいる人が何人もいた。
「──本一冊返すのに二人の社員を寄越すとはな」
 声をかけてきたのは、黒いウインドブレーカーの上下に、紐付きのアウトドアハットを被った男性だった。
 防波堤にいる人たちの中で、私と佐倉だけがスーツ姿で場違いだったから、すぐにわかったのだろう。
 私と佐倉は姿勢を正して頭を下げた。この方が小沢様が返したいと願った「戦史」の持ちぬしの、木田様だ。
「僕たち二人の手でお返しすることが、奥様のご希望でした」
 佐倉が丁寧な口調で、「羽振りの良さが理由で二人でここへ来たわけではない」と言外に否定する。
 歳の離れた義兄弟と聞いていたとおり、木田様は小沢様よりもずいぶん年齢が下のようだった。
 とはいえ太くしっかり生えた眉と気難しそうな目つきは小沢様の姿を思い起こさせるものがあって、二人の間に血のつながりが無いことを意外に感じる。
 何も言わず、木田様が傍らの簡易チェアに腰かけた。足元には釣りの道具が置いてある。
「……兄貴が亡くなったとはなぁ。知らなかったな」
 楕円の形をした背中の後ろ姿の向こうには、大海原が広がっていて、うみねこが舞っている。
「お兄様の御本はこちらです。お返しいたします」
 佐倉がそっと差し出すと、丁寧に包装されたそれを木田様は片手で受け取り、そのまま帆布のトートバッグに押し込んだ。
「はい、確かに受け取りました。わざわざどうも」
「とんでもございません」
 これまでの経緯を思えば、こういう態度を取られることは予想がついていた。
 でも私と佐倉は今日、本を返すだけではない、もう一つの目的を持っていた。
 それは小沢様が「本を返したい」と望んだ先にあったであろうもの──木田様との、仲直りだ。
 これについては奥様から正式に依頼を受けた。二人が没交渉になってしまった事情を知りたい。本の持ちぬしには、小沢様となった夫の想いを知って欲しい。
 なので、帰ってよろしいという態度を取られて引き下がるわけにはいかない。
「……小沢様が本を返したいと、そう仰ったのは、今際の際、ご家族への感謝を伝えた後に、最後の力を振り絞るようにしてだったそうです」
 海に向いている背中へ、私は語りかける。横に立っていた佐倉も、私の後を引き取るようにして口を開いた。
「──そのさい、木田様のお名前を仰らなかったので……どうすべきか、悩むところはありましたが、オザワ製菓の社内誌であいさつ文を拝見しまして、たどり着きました」
 あいさつ文、と出たところで、木田様の肩が動いた。
「……あんな、薄っぺらで恥ずかしい」
 そう独り言ちてから、釣り竿を持ったままゆっくりとこちらを振り返る。 
「あの古臭いあいさつ文にたどり着いて、しかもこんなところにまで来たってことは、理由も、わかってるのかい」
 どことなくばつが悪そうな言い方。「理由」というのはきっと、二人が疎遠になった事情のことだ。
「──はい。推測の域を出てはいませんが」 
「……今日は駅から運河の横を通ってここへ?」
「はい」
「小樽運河はどうだった」
「事情を知っていてさえ、僕たちの目には美しく映りました」
 率直な言葉に木田様が笑い、佐倉は目を伏せた。
「軽々しい感想で、申し訳ありません」
「いや、いいんだ。我々が燻ぶったところで、外の人からしたら何もないっていうのは、もうわかってるから」
 木田様の言葉に、私は自分たちの推測が正しかったことを知った。
「小樽運河が一九二三年(大正十二年)につくられたのは、船の積み荷を運搬する作業の効率化をはかるためと、本で見ました」
 佐倉の言葉に、木田様は頷いた。
 小樽にはニシン漁や石炭輸送が大当たりして、のちに「北のウォール街」と呼ばれるほどに栄えた歴史がある。
 その中で小樽運河は、町が繁栄していくうえで、大きな役割をになっていた。
「しかし戦後になると、港の岸壁が整備されて大きな船はそちらに着岸出来るようになり、運河が果たす役割は小さくなったのですね」
 そして国内では、一般家庭にも車が普及しはじめ、それは小樽も例外ではなかった。
 自動車の運行ありきで造られていなかった街はしだいに全体が渋滞するようになる。
 不要になった運河を埋めたて、道路を造ろうという案が行政から提案されたのは、それから間もなくのことだった。
「この案に賛成する人と反対する人とのあいだでは大きな論争が起こり、反対派の「守る会」が発足して以降、十三年に渡って議論が続いたと資料で読んだことがあります」
 佐倉の説明を聞きながら、私は小沢邸で社内誌を探索していた時のことを思い出していた。
 私たちが気が付いたのは、ある年から社内誌のあいさつ文の雰囲気がガラリと変わっていたことだった。
 社内誌の創刊第一号から、「戦史」のペリクレスの演説をはじめ、偉人の名言を引用しながら、若い人にも親しみやすく書かれていた社長のあいさつ文。
 それは、ある時を境に、難しい言葉を多用したお説教のような文章に変わってしまっていた。
 ではそれまで、「戦史」の本からペリクレスの演説を引用して、社長のあいさつ文を代筆していたのは誰だったのか?
 私たちはオザワ製菓に問い合わせをした。
 回答からわかったのは、小沢様の秘書を務めていた従業員が、あいさつ文が変わったのと同時期に退職をしていたということだ。
 その人──木田様は小樽の大学を卒業した後、一九七〇年(昭和四八年)にオザワ製菓へ入社し、幹部候補として秘書の仕事をしていたけれど、一九七二年(昭和五十一年)に退職をしている。
 一九七二年は、小樽運河を守る運動が本格化していたまさにその時期だった。
「俺も兄貴も東京にいて、運河の埋め立ての賛成派だった。でも、ある時帰省して学生時代の友人と会って、歴史的遺産として運河を残したいという熱量を知ってから、俺は反対派になって──」
 その友人が主要メンバーの一人として「小樽運河を守る会」を結成する運びになると、木田様にも声がかかった。
 市民の心へ訴えかける弁舌や士気を盛り立てる役割を、期待されてのことだった。
 一方で東京からは何度も電話がかかり、会社に戻るよう諭されたという。
「逆にそれで『ああ料金を気にせずこんなに市外電話をかけられるんだから景気が良いんだな』だとか『兄貴は権力者側の人間だから、一般市民が声を上げると都合が悪いんだろう』だとか思ったりもしたな」
 あの頃は権力だとか金を持ってる人間が敵に見えて仕方なかった、と木田様は自嘲するように笑った。
「とにかくあの時は、体の中の血潮がそっちに──自分の意見を通すために流れていた時だ。仲間にはたしなめられたが、自分たちと違う主張をする人間はどうしようもない愚か者だと思うようになっていった。自分の兄貴に対してもだ」
 木田様が反対派の陣営に加わり、論争が決着するまで十三年。
 月日が流れる中、二人の間ではいろいろなことがあった。
 いつしか東京からの連絡はとだえ、木田様は活動を通して知り合った女性と結婚し、子どもにも恵まれた。故郷へ根を下ろしたのだ。
 活動のさなか、オザワ製菓が上場を果たしたことを新聞で見て、知らされていなかったことに裏切られた気持ちになった。
 なさぬ仲の縁とはそういうものかと、投げやりな気持ちにもなった。
 小樽運河はその半分を埋め立てられることになり、観光資源とするための整備が行われ、現在の姿となった。
 反対派の中には当然、運河が残ったとはいえ、その姿が変わってしまったことを悔やむ人もいた。けれど、ひとまずは論争に区切りがついたのだという。
「決着がついて落ち着いた後──いや、途中だな。わかったことがある。もう元の形に戻すことが出来ないものっていう世の中にたくさんあって、俺たち兄弟の関係もそうだった」
 木田様は自嘲するように笑う。
「兄貴が最期にこの本を俺に返したいって思ったのは。完全に縁を切りたいってことだったんだろうさ。あの世で顔も見たくないってね」 
 そう締めくくって無言になった木田様を見て、私はもどかしい気持ちになった。
 違います、そうじゃないです──感情的に言ってしまいたいのをこらえて、佐倉の顔を見る。
 佐倉は私の視線を受け止めて頷き、口を開いた。
「縁を切りたい、あの世で顔も見たくないなどという考えを、小沢様は持っておられません。それどころか、切れてしまったご縁を結び直したいとお考えだったのです」
「──そんなの、わからないだろう」
 目を逸らした木田様のところへ佐倉は近づき、ある資料を差し出した。奥様の許可を得て開示する、虎澤百貨店外商部の資料──数枚の納品書だ。
 そこには海釣りをするのに必要な道具の一式、渓流釣りをするのに必要な道具の一式、そして家庭用の燻製器。それぞれの数量や、金額が記載されている。
「? これがなんだって──……」
「僕たちの上司に、小沢様は仰っていました。医師の許可が出れば、故郷に行って弟と昔みたいに釣りをする、そこではアメマスが釣れるから、燻製にしたい。それを肴に弟と夜通し飲んで話すのだと」
 それを聞いた木田様は茫然として、佐倉の顔を見ている。
「そのあと間もなくして小沢様は倒れ、本を返して欲しいという最期の依頼を僕たちへ託して息を引き取りました。当初は生前に仰っていた釣りの話と本の持ちぬし探しは別々のこととして考えていたのですが──」
 うみねこがひときわ大きな声で鳴き、私たちの近くを滑空した。見送ってから、佐倉は続ける。
「目的は、一つだったようです。また弟と、つながりを持ちたいと」 
 木田様は目を閉じ、何度も頷いていた。
 うみねこの鳴き声とさざ波の音が、声にならない嗚咽をかき消している。
 積年の思いが風によって洋上へさらわれ解けていくのを、私は佐倉と静かに見守っていた。
 
 
 
 
   エピローグ 
 
 
 椿が虎澤百貨店の外商部で働くことになってから、二か月近くが経とうとしている。
 俺たちは今、新大久保の国道沿いを歩いていた。
「コリアン要素の強い多国籍タウン」として知られる新大久保の街へ二人がかりでやってきたのは、もちろんお客様のご用命に応えるためだ。
 人の密度が高く、賑やかな街中を、前と後ろに並びながら、早歩きで進む。
「ここだな」
 たどり着いたのは、コリアン雑貨とコスメのショップだった。
 店の軒先から店内にまで溢れるほどの商品が陳列され、女性客で賑わっている。
 その中を縫うようにして奥へと歩みを進め、女性の店員に用向きを伝えると、すみれさんから連絡を受けていたらしい店員は頷いて、奥へと引っ込んだ。
 戻ってきた店員が手にしていたのは、男性アイドルグループのグッズが詰まった段ボールだ。
 この手のグッズやノベルティは、グループの絶頂期に入手が困難だった場合でも、数年後には新大久保にひっそりとそして大量に入荷したりするらしい。
「往年のファン」というのは一途なもので、特に日本の場合、他国に比べてその傾向が高い。
 すみれさんのお客様はまさしくそれにあたる。
 推しのグッズは重複OKで、多ければ多いほど幸福度が増すと考えているのだそうで、普段から「グッズの掘り出しがあれば「常に」手に入れて欲しい」との要望をすみれさんに出していた。
 だからすみれさんが伝手を使って、商品を確保した。
 しかし特別に譲り受ける品を、顔も出さずに発送まで店に任せるのでは、信用を損ない、今後の取引に関わることもある。
 俺と椿が業務の合間、わざわざ足を伸ばしてこの店へと来たのはそういう理由だった。
 コスト重視で、直に顔を合わさずとも取引が可能なこの時代において、戦略的に必要と判断した場面では、真逆の戦法──つまり、コストは度外視で相手と直接会い、密な関係を維持するのが当店の方針なのである。
「直接顔を合わせることで相手との関係性がよくなる」事象は科学的に実証されている話で、「ハロー効果」と呼ばれている。
 話が大きくそれた。
 ともあれ、大量のグッズを見て、椿は戦々恐々という表情になっている。
「宅配業者に頼んであるから、俺たちが運ぶ必要はない」
 俺の言葉に、椿が小さく頭を振る。
「ううん、そうじゃなくて。これを全部買うって、とんでもない金額になりそうと思って」
「推し」への愛のためとはいえ、覚悟を決めたファンの人ってすごいよね──と椿が続けた時、店員があっさりと会計額を口にする。
「じゃあこれ二箱で、一万千円ね」
「……」
 値段を聞いて複雑な顔をする椿を放って、決済のためのバーコードをスマートフォンに表示させた、その時だった。
「ちがうって! それじゃないから!」
 店内に響いたのは、若い女の声だった。
 決済を済ませてスマートフォンをジャケットの内側にしまい、声のした方に目をやる。
 怒り顔の女と、叱られた連れの男には見覚えがあった。
 椿の様子を覗うと、既に気づいていたらしい。大きな目をさらに丸くして、二人を見ている。
 カフェ「ジャルダンドゥティガ」のアルバイトスタッフ──リカと高志だ。
 そのリカと優也が、こちらを見て目を瞠った。どうやら、気がついたらしい。
 一瞬はひるんだように見えたのに、なぜかリカは強い目で顔を上げ、高志を従えてこちらに突進してくる。
「あやみちゃ~ん! 久しぶりぃ!」
 語尾を下げる独特の発音。リカは椿に声をかける。
 緊張した様子で目を見開き、会釈をしてきた高志は、椿の姿をまじかに見とめると、急に落ち着かない素振りになった。
──関わらずにやり過ごそうと考えていたのに、面倒なことになりそうだ。
「ねー元気だった? っていうか、なんかメイク変わってない? 前より全然可愛くなってる! その方が良いよ、断然!」
 唖然としている椿にリカは矢継ぎ早に話し、それから高志の様子に気が付いて無表情になった。
 どうやら高志の視線が椿に注がれていることに機嫌を損ねたらしい。
 しかしそれも一瞬のことで、今度は眉根を寄せて弱々しい表情になる。
「……えと、ごめん。あたし達……本当にごめんね」
「……」

 唐突の謝罪だったが、察するに、リカは、高志と付き合うにあたり、高志が椿と付き合っているということを承知していた。
 承知しながらも、高志と椿との関係が終わることを待たずに高志を自分のものにしたことを、椿に詫びている、と。
 どうやらそういう構図らしい。
 どうでも良すぎる構図ではあるのだが、さすがに同僚としては、椿の様子が気になった。かたわらをうかがうと、椿ははっとした顔になり、
「あ、いいえ! あの、本当に全然大丈夫なので……」
 と、何度も頷く。
 少し、不可思議な反応だった。
 ふつうこういう状況であれば、謝罪された側は気まずい素振りを見せる。
 しかし椿は、「まるで何について謝られているのかわからない」という表情をしていたのだ。
 気になって椿を注視していると、スマートフォンに着信があった。
【宮ヶ丘すみれ】の表示を見て、どうしてこんなややこしい時に……と思う。
 しかしとりあえず、俺は通話のアイコンをタップした。
「佐倉です」
 電話の向こうで、すみれさんは興奮していた。
『あ、佐倉⁉ 悪いんだけど、そのまま椿と横アリに向かってくれる⁉ 会場限定のレアグッツが入ってきたみたいで、──と、──のを買ってきて欲しい!』
 電波が安定しないのか、音声が乱れて聞き取れない部分があった。しかも興奮気味の早口である。
「すみません、聞き取れないのでテキストで送ってください」
『え? 何? なんつった?』
「一度切って、折り返します」
『──もしもーし!』
 ため息をついて終話のアイコンをタップすると、椿がこちらを見上げて静かに言った。 
「ペンラとワンポのバケハって言ってたよ、すみれさん」
 思わず俺は、椿の顔を見た。
「ペンラ」はペンライトで、「ワンポのバケハ」はロゴがワンポイントで入ったバケーションハットを指す。この場合、どちらもアイドルのグッズを指す。
 今の通話でよく聞き取れたものだと感心する。
「さ、行こ! 早く並ばないと遅くなるよ」
 所在なさげにしているリカと高志に「じゃあね」と椿は柔らかく微笑み、前へと足を踏み出した。
 ジャケットの袖が引かれる感触があって、見ると、椿が俺の手を引いている。俺たちはそのまま、ショップを後にした。
 新大久保駅へ戻る道すがら、俺は椿に訊ねる。
「もう、椿は気にしてないのか」
「うん。というか……」
「というか?」
「忘れてた。自分でもびっくり」
 その表情はあっさりしている。
「なんかホントに、忘れてた……ひどいことされたはずなんだけど、その時の嫌な気持ちとか、もう全然残ってなくて」
 いろいろと、忙しかったからかなぁ……興味がないと、忘れちゃう方なんだよね……と呟く椿を見て、安堵するのと一緒に、俺は改めて彼女を見直した。
 椿を虎澤百貨店の外商部に迎え入れたいと及川部長に聞いた時は、多少見た目が良いだけの普通の女子の、どこにそんな価値があるのかわからなかったのだ。
 けれど、およそ二か月を一緒に過ごした今、彼女に頼もしさすら感じている。
「佐倉、急ごう! 予定の電車を逃したらニ十分もロスするよ」
「……ふっ」
 やたらと奮起してせかせかしている椿が微笑ましくて、思わず笑ってしまう。、
「え。佐倉がまともに笑ってるの、初めて見たかも」
 目を丸くした椿も、次の瞬間には笑った顔になる。
 この時の俺は、何も知らなかった。
 自分が椿の薄茶にきらめいた瞳に惹かれていくことも。
 自分たちが、情を交わす関係になることも。
 関係は長続きせず、彼女を悲しませることも。
  何も知らないから、自覚はないままに、心に刻み付けている。
 西日に照らされ、ささやかなまぶしさを伴った、彼女の輪郭を。
 
 
 


いいなと思ったら応援しよう!