人と比べた瞬間に人は不幸になる。
誰しもが聞いたことのある言葉で、誰しもがそんなことは当たり前だと理解している。それなのに、比べてしまう自分を消す手段を知らない。なんなら、比べて何が悪いんだと開き直ったり、とことん比べてやろうと思ったりする。
兄弟のいる家庭なら、兄弟同士で進む学校や性格を比べられることなんて日常だ。
「ママはいつまでもあんたが心配だよ」
末っ子だから心配しているのかと思ったら、どうやら違った。安心させてあげたいと思う。何かを選択するときの理由に母を使いたくないとも思う。安心させるために、という基準で生きる方向を選ぶのも違うと思う。
「人の役に立つ仕事がしたいです!」
小学生のとき、将来の夢を語る同級生に感心しながらも、馬鹿じゃないのか、と鼻で笑った自分の鼻はもう、息をするので精一杯だ。きっとあの同級生は今頃私を鼻で笑っている。私のことなんて眼中にすら、たぶんない。
ドイツに移り住んだ日本人の書いた記事を、どこかで見かけた。
ドイツへ行ってはじめに衝撃だったのはドイツ人が身なりに気を遣っていないことだと書いてあった。特別なときしか化粧はしないし、職場にもほつれたスウェットのような、パジャマ同然の姿で出勤するとあった。
”ドイツ人の自己肯定感が高いのは、人の目を気にせず、どんな自分も認めているから”
みたいな内容だった。やたらと耳にする”自己肯定感”という呪文は、意識的に高まるものなのか。自己肯定感を高めようとしていて自己肯定感の高い人に出会ったことがない。小指の爪くらい小さな世界しか知らないからなのか。
海外では日本人のように日常的に化粧をする国は少ないだろうし、太っているからといって体型を隠すような服装が流行ることも聞いたことがない。
けれども、ほとんどの日本人は日本に住んでいる。海外に住んでいたときの習慣も、日本に帰国したら自然と日本仕様になる。
自分はどちらが合っているのか比べて、移り住む。私の場合はそうだった。
「日本から脱出したい!」
19歳、タイで1年弱生活してから、日本より住みやすい国、み〜つけた! と思った。新しいことを知るとか、体験するっていうのはそれまでの自分の知識と経験とを比べるってことなんだと思う。
自分にとって何が良いのか、何が譲れないのか、それは比較しないとわからない。なのに比較すると不幸になるという。比較すらできない方が不幸じゃないのかとも思うけど、選択肢は少ない方が幸せなのかもしれないとも思う。知らなければ不幸にもならない。
「それでも、知っちゃったんだからしょうがないよ。受け入れるしかない」
大学の先生がふとこぼした言葉がずっと、頭に刻まれている。
環境問題の話題をすると、一定の割合でアフリカの子どもが登場する。アフリカの子は着る服もなくて、泥水を飲んで… たまたま日本に生まれただけで、とりあえず生死を問われるような生活になることはなくて、恵まれていると。そう思う…けど…アフリカの子はその世界しか知らなかったら不幸になることもないんじゃないか。たまたま恵まれた国に生まれた私たちが、自分を幸せだって思うために利用してるいるんじゃないか。そもそも日本に暮らしていたら同じような状況になることはまずない。アフリカの貧しい人と比べても実感が湧かない。
比べて不幸になるのは、自分と近い人と比べるからじゃないか。
石油王と自分を比べて自分は不幸だと思う人は少ないだろうけど、同じ大学を卒業したのに友だちは良い旦那と結婚して子どもを産んで家庭に入って、丁寧な生活、とやらを送っている一方、私はフラフラ仕事を転々として恋人ひとりいない。幸せそうな友だちと比べたら私は不幸になる、と思う。
比べることは悪いことばっかりじゃない。ウサイン・ボルトがなぜ足が速いのか、科学者が束になって研究して、正しいとされているフォームの個々が違うとか、他の選手では動き用のない関節が動いているとか、優れているものとそうでないものを比べながら、文明は発達してきたはずだ。
問題は文明が発達したから幸せなのか、というところで、天空の城ラピュタのムスカが文明の進化を独り占めしていたら幸せになれたのか、文明を破壊することで、ムスカの不幸も終わったんじゃないか。
近しい人と比べない方がいいのはわかってるけど、比べずにいられない性はもう…受け入れるしかない。
人はこうしている。こうした方がカッコいい。見えてる部分はほんの一部で、カッコいいと思っていた生活は地道な努力なしでは成り得ない。知っちゃったものはしょうがないし、比べちゃうのもしょうがないならもう、そのまま生きていくしかない。本当に比べなくて平気になったら、幸せなんだろうな… と思いながら、どこかで劣等感を感じながら生きていく。