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コミカライズという抑圧と抵抗 漫画版『残像に口紅を』感想(2025年2月16日の日記)
生活
数日前から続く耳の炎症は収まってきたが、未だに幾らかめまいがして今一つ体調が戻らない。下北沢らへんで売ってそうなカレーを作って食べる。漫画版『残像に口紅を』を読む。仕事相手から仕事の連絡。社長とかマネジャーのなかには仕事が楽しすぎて昼も夜も休みもなく無限にやっちゃってる人がいて、相手も同じ感覚で仕事が楽しくて無限にやりたがってると誤解してるからマジで体調が悪いくらいに伝えないと無理言って押し込まれる。何だかんだでバトルに負けて結局仕事をやってしまう。自営で受託開発の仕事やってると世間の中小企業の社長がみんなこんな調子でここ数年完全に休めた日がない。家から逃げて仕事できない状態を作ってしまうことにする。
閉場間際のコミティアへ行き目当ての新刊を入手し、その後は秋葉原を散歩。帰宅後、歩き疲れてしばらく倒れる。仕事の連絡を返す。アニメを観る。
コミカライズという抑圧と抵抗 漫画版『残像に口紅を』感想
筒井康隆の原作小説『残像に口紅を』を紹介する際によく言及されるのは「文章中から日本語の音を1文字ずつ消していき、劇中でもその文字を含む概念も失われていく」というルール、次々と使える文字が減っていくなかで文章を成立させている技巧(リポグラム)だが、あまり言及されない重要な点が別にある。それは登場人物たちがフィクションの中の存在だと自覚していること、読者の存在を知っていること、そして主人公・佐治は小説家にしてこのフィクションの世界の書き手ということである。佐治はルールに翻弄される登場人物のひとりにして世界を改変した張本人でもあるのだ。一文字ずつ失われていくルールは振ってかかった天変地異ではなく佐治が自らが設定したものであり、佐治は物語をいかに面白くするかを考えて振舞う。登場人物でもあり書き手でもある佐治を通じて、言葉や概念が失われていき忘れ去ることの悲しさ、書き手として言葉で支配することの是非、虚構の中の傀儡に過ぎないとしてもいかに生きるのか、といった問いの数々を投げかけている。手法に限らない示唆的な要素を数多く含む作品なのである。
寺田浩晃によるコミカライズ版では日本語の音が1つずつ消えるルールの存在、登場人物がいずれもフィクションの中にいるという自覚、いかに物語を演じ切るかを考えるところまでは同じなのだが、このフィクションの書き手は佐治ではないという大きな違いがある。佐治が小説家という設定を守ると、漫画として描かれているこの世界を自ら描けないのだ。ではこの筋書きは誰が書いたのか?答えは原作小説であり、漫画化を企画したKADOKAWAである。なんと劇中に原作小説がそのまま出てくる。果たして佐治たちは「傀儡の傀儡」にすぎないのか?そして終盤ではコミカライズならではの展開を見せて見事な結末に到達する。
本作は実験的な小説のマンガ化という労作であることのみならず、メディアミックスへの批評性にあふれた作品にも見える。アニメ化や映画化に対する「原作通りにしてほしい」という訴えはなんとも不思議な言葉である。媒体が変わるのだから実際に原作通りになるのはありえないし、書き言葉を話し言葉に直す、媒体によって必須となる描写を補完する、存在しなかった色やら声やら動きをつけるといった変更を加えなければ成立すら難しい。実際にこの言葉が意図するところはメディアミックスは原作の傀儡であれということではないだろうか。原作の意図、読者の解釈の通りに成立させ、修正や補完を行ってもその痕跡を露骨に感じさせず、メディアミックスの作り手には意図が存在しないかのように振舞えという要求である。しかし前述のとおり、この作品は「原作通りに」コミカライズを行うとパラドックスが発生する。佐治が小説家という設定を守ると漫画として描かれているこの世界を自ら描けず、佐治を漫画家にすると改変になってしまうのだ。本作はシビアな原作の設定を引き継がなければならないが、コミカライズが「抵抗」をする余地も多分に含んでおり、隙を突いて傀儡を抜け出そうとするのである。
恐らく漫画版の作者こそが、佐治にもっとも近い状況だったのではないか。読者の視線があり原作の筋書きの傀儡であるが、その中でいかに面白く振舞い、いかにして自らのマンガとして描き切るかを自らに問いかけたに違いない。そして佐治と同じようにラストまで描き切ったのである。
きょうのカレー
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きょう観たアニメの感想
妃教育から逃げたい私 7話
アニメオリジナル回らしいが、原作付きでこんなキャラをギャグテイストに改変してぶっ飛んだ話をやってしまっていいのか。なんか「絶対に笑ってはいけない~」と同じような、大規模なセットが組まれてて急に出てくる異常な展開に耐えながら進行するタイプのバラエティ番組みたいだった。罠だらけの地下迷宮で次々と脱落していくシーンの変な叫び声の演技がリアクション芸人すぎる。そしてホラーなオチ!
君のことが大大大大大好きな100人の彼女 第2期 7話
かつてはノルマというほど見かけたけど最近のアニメで久しく見ない野球回。嘘みたいな必殺技、やりたい放題のオマージュを連発するが、それが見事な絵を伴っているし配置が完璧(笑いの間の取り方、天丼ギャグのタイミングのよさなど)。
試合後に相手チームと焼肉に行き、全員で仲睦まじく焼肉を食べつつ和解するCパート。カノジョ全員に気を配るシーンの優しすぎてシュールなところに通じる、ケアの行き届いた嬉しさがある(恋太郎ファミリー以外の登場人物が明らかに雑に造形だったり冷遇されることもあるのだが……)
全修。7話
オムニバス形式にしてそれぞれ違った画風で描く4つの回想はいずれも面白く、バックグラウンドの開示も進んで謎解きとしての見応えがある。人間理解の不足や作品への介入の是非など、いよいよ本題に迫りそうな予兆を見せるラスト。ただし今までのナツ子の成長がステップバイステップという感じがせず断続的で、ラインが見えてこないので今後の回でどう繋げて並べ直すか次第という印象。
戦隊レッド 異世界で冒険者になる 6話
異世界サイドのキャラがみんな人間らしくて魅力的で、政治事情や魔導技術の普及と規制をめぐるリスクベネフィットの話題なども凝っていて面白く、オマージュ要素をほどほどにしてもレッドの人柄がイドラに影響を与えて異世界サイドの事情が動くだけでかなり面白い。地力の高さがうかがえる。
えっちなハプニングでラブコメを進展させてもレッドの素朴すぎる人柄のおかげで嫌味がないのがうれしいし、猥談も変身アイテムやロボットのSEを使ったギャグでネットリした嫌味を排除しカラッとした味付け。でもいいシーンでイドラの服装がエグいのだけマジでなんとかなりませんか?(今回も良いシーンで露出がすごすぎると変に見えると思われたのか、イドラの顔アップや横の構図を多用して露出をかなりごまかしていた)