実は身長180cm越え ~大隈重信と言えば…?~
大隈重信(おおくましげのぶ)の立像は4つ!
1つ目は軍服姿です。
2つ目は衣冠束帯を着ていました。現存せず。
3つ目が超有名で、早稲田キャンパスの象徴!
四角い帽子をかぶっているあれです。
4つ目はフロックコートで国会議事堂内に…。
そうなんですよ。
しかし、慶應義塾大学の創始者、
「福沢諭吉」に比べますと
(早稲田大学の関係者以外の)知名度は
そこまで高くないように思える…。
何しろ諭吉さん、長らく一万円札の顔として
日本中を旅していますからね。
しかしこの大隈、立像が4つもつくられた
(胸像レベルならもっとたくさんある)
ことからもわかるように、すごい人だった…。
早稲田ウィークリーでは、
このような記事がつくられていました。
(下部のリンクからぜひ!)
本記事では大隈重信について
そのエピソードと人となりの一端を
紹介してみよう、と思います。
まず、基礎知識からいきましょう。
大隈重信は、何をした人?
1838年(天保9年)生まれ、
1922年(大正11年)に死去。
江戸時代末期から大正時代の人で、
満83歳まで生きました。
肥前国、現在の佐賀市の生まれです。
幼名は八太郎。
家柄は「上士」、つまり
武士の中でも偉い身分の家の出でした。
7歳で藩校の弘道館に入校する。
しかし、儒教教育が嫌で嫌でたまらず、
藩校改革運動などを起こしています。
…これが後に「自由闊達」な
早稲田大学をつくるもとになったとか。
当時の佐賀藩の藩主は
鍋島直正、という人でした。
号の「閑叟(かんそう)」の名でも
知られています。鍋島閑叟。
この人、教育ママならぬ教育藩主でして、
藩士に激烈な教育を強いたことでも有名。
江戸時代と言えば、身分が高ければ
オートマチックに出世できる
システムの時代でした。
しかしそこに「学力主義」を持ち込んだ。
できない場合、家禄没収などしている。
できる人ならいいですが、
できない人にとっては恐怖の専制君主…。
肥前の佐賀藩は、現在の佐賀県だけでなく、
長崎県の一部も管轄していました。
幕末の時に重要地「長崎」も管理していた。
とにかく欧米の近代の技術と知識を学べ!
いいから学べ!
そんな意識が特に強かったのでしょう。
大隈は、ここで頭角をあらわす。
いわゆる「維新の志士」となり、
勉強に励みながら各地で活動しています。
しかし、藩主の閑叟は、
旗幟を鮮明にはせず様子を見ていた。
「肥前は敵か、味方か?」
『肥前の妖怪』とも呼ばれます。
佐幕派、討幕派、両方から警戒されました。
時代の変わり目にそれではいけないと、
1867年、大隈は佐賀藩を脱藩します。
徳川慶喜に大政奉還を勧めにいきますが、
京都で捕まって佐賀に戻され、
1か月の謹慎処分を喰らう。
…ただ彼のこういう積極的な志士活動が
明治時代になると活きます。
諸外国との交渉、外交で活躍。
全国における鉄道敷設に尽力。
大蔵卿(財務大臣)への任官。
1881年の「明治十四年の政変」では
政府から追い出されてしまいますが、
不屈の大隈は「立憲改進党」を設立、
議会政治の発展に尽くします。
1887年に外務大臣。
1898年には内閣総理大臣…。
1914年にも総理になっていますので、
2回も組閣した政治家なのです。
1922年の彼の「国民葬」では
約30万人もの市民が駆けつけた、とも
言われております。
彼は、外交や財務など
地道な政治の世界で活躍してきたので、
「文明開化」「学問のすすめ」の
福沢諭吉と比べて、どうしても
知名度の点では一歩譲ることになる。
そこでここからは、彼の知られざる(?)
エピソードとともに
「人間・大隈重信」を紹介します!
①身長180cm越え
江戸時代生まれの人としては
かなり背が高かった。
歴代総理の中でも上位に入る。
◆近衛文麿: 182cm
◆大隈重信: 180cm
◆中曽根康弘: 178cm
◆鳩山由紀夫: 177cm …
(ちなみにアメリカ合衆国大統領は
南北戦争の時のリンカーンが193cm、
トランプ元大統領が188cmであり、
190cm近い人も何人かいます)
②園芸マニア
「花を愛する人に悪人はいない」が口癖。
彼は温室や菜園をたくさんつくった。
バラやキク、盆栽などはプロレベル。
「日本で初めてマスクメロンを
食べた人」とも言われています。
あまりに好きになり過ぎて
ガラスの温室をつくらせ
自らマスクメロンを栽培したとか…。
③実は福沢諭吉と仲がいい
早稲田の大隈、慶應の福沢。
「早慶戦」などの影響で
「仲が悪い」と思われがちですけれども、
実は当人たちは仲が良かったそうです。
「ほとんど親族同士の懇意さ」と
本人も語っていた。
どちらも日本の近代化、文明開化に
一役買った人ですからね…。
④自分を暗殺しようとした人を弔う
1889年、明治憲法ができた年、
彼は来島恒喜という人に
爆弾を投げつけられ、重傷を負います。
大隈は命を取り留めたものの、
右脚を大腿下三分の一で切断。
来島は現場で自刃。
しかし、自分の右脚を奪った犯人に対して
大隈は、その壮気をたたえ、
来島の年忌の法要に、毎年
代理人を派遣して弔ったと言われています。
⑤文字を書かない
彼の書は、ほとんど残っていません。
なぜなら彼が「書かなかった」から。
(ライティングメンターとしては
もうちょっと書けば?と思うのですが…)
弘道館時代、とても字が上手な友がいた。
「こいつには字ではかなわない」
そう思った大隈は、発想を転換します。
「字を書かなければ負けることはない!」
それ以降、勉強は暗記、文書は口頭、
ほとんど書かずに生涯を過ごしたそうです。
どんだけ負けず嫌いなんだ、大隈。
口八丁手八丁の能弁家、議論の達人…。
それは「あえて文字を書かない」ことから
生まれたことかもしれません。
最後に、まとめます。
本記事では大隈重信のエピソードと
人となりの一端を紹介しました。
彼の名言『大隈五訓』もコピペしておきますね。
私は早稲田大学の関係者でも
何でもありませんが、
なかなかに奥深い人です。
さらに彼について知りたい方は
ぜひ下記の記事をどうぞ!↓
※伊藤博文とのからみで
以前に書いた記事はこちらです↓
『大隈重信、早稲田と伊藤』
※好敵手同士で仲が良かった
福沢諭吉についてはこちら↓
『諭吉と開化』
※賛否両論あふれる
政治の世界に生きた伊藤博文については
こちらからどうぞ↓
『賛否両論伊藤博文』
合わせてぜひどうぞ!