中欧のラストエンペラー ~オーストリア帝国の国父~
フランツ・ヨーゼフ一世!
1830年~1916年の人。
ハプスブルク家が統治した
「オーストリア帝国」の皇帝として、
その在位、何と68年。
彼の後継者、本当の最後の皇帝、
カール一世の在位は二年弱のため、
「実質的な」最後の皇帝とも言われます。
本記事では、彼の一生を書きます。
オーストリア帝国の「国母」として
名高いのは、フランス革命で
断頭台の露と消えた
マリー・アントワネットの母親、
「マリア・テレジア」です。
こちらは1717年~1780年の人。
彼女は、十六人の子どもを生みました。
その息子の一人、
ヨーゼフ二世が後を継ぐ。
アントワネットのお兄さん。
彼には子が無く、弟が後を継ぐ。
レオポルド二世です。
これまた、アントワネットのお兄さん。
この頃「フランス革命」が起こります。
1789年から始まる大動乱!
レオポルド二世は、彼女の兄として
「ピルニッツ宣言」を出し、
「国王を助けるために行動するぞ!」と
全ヨーロッパに宣言。
これは貴族たちをサポートするための
社交辞令、建前上の宣言、
と言われますが、革命勢力たちを怒らせ、
さらに過激な行動に走らせた。
革命の炎が全ヨーロッパに広がった、
とも言われます。火を付けちゃった。
彼の息子が、フランツ二世。
ナポレオン軍に粉砕される。
神聖ローマ帝国の皇帝位を放棄させられ、
名だけが残っていた帝国が
名実ともに消えてしまう…。
しかしただでは転ばない。
彼はこれを奇貨として、
「ドイツはもう知らん、
俺はオーストリアで頑張る!」と
自分の国の中を再編しようとするんです。
ドイツを狙うナポレオンもこれを承認。
…このナポレオンが衰亡した後。
ヨーロッパの枠組みは
「ウィーン会議」という会議で
決まっていくのですが、
彼は「メッテルニヒ」という
優れた外交官を起用し、
この国際会議を主催します。
オーストリアの威信を見事に回復!
これが1814年です。
しかし次の皇帝、フェルディナント一世は
かなりの病弱でした。
実権はメッテルニヒが握っていた。
しかし1848年「三月革命」が勃発すると、
彼はメッテルニヒをクビにして
民衆に歓呼で迎えられた。
…ただ、革命運動は先鋭していく。
結局、フェルディナント一世は退位。
後を継いだのが(ようやく出てきました)
甥のフランツ・ヨーゼフ一世なのでした。
ここまでがヨーゼフまでの流れ!
1848年の即位時、18歳。若い!
新時代の皇帝!
皇帝の大事な仕事の一つとして、
結婚して後継者を得ることがあります。
1853年、バイエルン公の公女、
ヘレーネという娘とお見合いをする。
…その時、運命の出会い。
ヘレーネの妹、エリーザベト。
絶世の美貌、愛称は「シシィ」。
172センチのすらりとした長身。
親は社交界に慣れされるために
妹もこの場に連れてきていたのですが、
何とヨーゼフ、この妹に一目ぼれ!
母親にいかに魅力的かを熱弁し、
舞踏会でも彼女としか踊らない(姉は?)。
こうして1854年、彼はエリーザベトと
結婚することになります。
(ただ、自由を愛する彼女は
結婚後、義母との折り合いが悪くなり
たびたび旅行に出ていますが…)
その後、皇帝ヨーゼフはイタリアや
ドイツに手を出そうとする。
…ただこの当時、隣のドイツには
虎視眈々と「ドイツ統一」を狙う
ギラギラした男がいた。
「鉄血宰相」ビスマルクです。
ビスマルクはイタリアを味方にして、
オーストリア軍を
南北に分散させることに成功します。
プロイセン軍は約32万人。
オーストリア軍は約40万人。
まともに戦えばオーストリア有利。
ビスマルクは参謀総長である
モルトケたちと策を練る。
オーストリア軍をボヘミアに誘い込み、
三方面から包囲してからの短期決戦!
見事に、この策がはまった。
オーストリア軍は大打撃を受けます。
1866年「ケーニヒグレーツの戦い」です。
ビスマルクは決して
無益な戦争はしない主義。
無割譲・無賠償・即時講和の方針で
スピーディーに講和が行われた。
こうして、ドイツの統一は
オーストリアの影響を排除した
「小ドイツ主義」で進んでいきます。
…惨敗したオーストリアは威信が落ち、
「ハンガリーの独立運動」に直面。
この時のオーストリア帝国は、
現在のオーストリア共和国より
はるかに広い領土を持っていました。
チェコ、スロヴァキア、ハンガリーも
その領土の中。
1867年、妥協(アウスグライヒ)が成立!
ハンガリー部分を国として認めた。
でも君主は一緒。いわゆる同君連合。
「オーストリア・ハンガリー二重帝国」
という、珍しい形をとる。
…プロイセンには負けたけれども、
なかなか話のわかる皇帝だ。
柔軟な対応もしてくれる。
彼の評判は上がっていきますが、
相次ぐ不幸が彼を襲う。
1867年、南米メキシコで
皇帝に担ぎ上げられていた弟が
革命によって処刑…
1889年、息子が心中事件で死去…。
1898年、皇后エリーザベト暗殺…。
後継者として指名した
甥のフランツ・フェルディナントとは、
彼の結婚問題で対立して不仲に…。
そしてついに、あの事件。
1914年、サラエボという街で、
甥のフェルディナントが
暗殺されてしまうんです。
この「サラエボ事件」を契機に
第一次世界大戦が始まってしまいます。
孤独の中、ヨーゼフ二世は、
大戦中の1916年に死去します。
86歳の生涯。68年の在位!
彼は国民から絶大な敬愛を集めた、
「国父」と呼ばれる存在なのでした。
最後に、まとめます。
本記事では、オーストリア帝国、
ハプスブルク帝国の実質上最後の皇帝、
フランツ・ヨーゼフ一世を書きました。
なお、彼の後を継いだ最後の皇帝、
甥のカール一世は、
「絶対に退位しないぞ!」と息巻きますが、
スイスに亡命を余儀なくされ、
オーストリアは共和国へと変わります。
後にハンガリー王として
再起しようとして失敗。
大西洋に浮かぶ孤島、マデイラ島に配流…。
四男の四歳の誕生日プレゼントを
買いに行った時に風邪をひきますが、
すでにカールの財産は尽きかけていた。
医療費のことが心配で、彼は
医師の診察を受けなかったそうです。
1922年、34歳で肺病で亡くなりました。
ハプスブルク家とオーストリア帝国。
その栄光の最後を担った
皇帝たちの晩年は、
ちょっと寂しいものだったのです。
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