2003年発売の『世界に一つだけの花』という歌。
約20年前に世に出てから、
賛否両論が激しい歌です。
「ナンバーワンよりも、オンリーワン」
この思想を高らかに明確に歌っている。
だからこそ賛否両論がつきまとう。
ナンバーワン。オンリーワン。
これらは抽象度の高い言葉です。
それぞれ前提を決めなければいけない。
…何に基づいて評価するのか?
自由に「自己評価」でいいのか?
それとも「他者からの評価」?
厳然と可視化された「評価基準」があるのか?
微妙に意味が変わってきますよね?
また、主語も明確にしなければわからない。
当然ながら個人であれば
何を目指しても個人の自由。しかしこれが
複数、組織ならば「意思決定」が必要。
意見が割れるようなら、多数決などの
決定方法や権限を決めておかなければいけない。
そう、主語が大きくなればなるほど、
あてはまるメンバーが増えれば増えるほど、
意思決定は難しくなっていくものです。
個人は千差万別なのですから。
そう考えていくと、単純に
「ナンバーワンよりもオンリーワンがいい!」
「いや、オンリーワンよりナンバーワンだ!」
とは、なかなかまとめられない…。
この前提を無視して、ただ単に
「ナンバーワンVSオンリーワン」と
議論を戦わせたところで、不毛。
「それってあなたの感想ですよね?」で
終わってしまう危険性があります。
前置きが長くなりました。
本記事では、この歌を念頭において、
「主語の大小」を考えます。
「主語が大きい」という表現があります。
「私」だと、小さい。
「私たち」だと、大きい。
〇〇世代、性別、日本人、人類、生き物…。
既婚/未婚、子どもがいる/いない、〇〇代…。
都会VS地方、日本VS世界…。
あてはまるメンバーが増えれば増えるほど、
主語は大きくなる。
本当は「それってあなたの感想ですよね?」
という話者の個人的な主観を
さも周りも同意見「であるかのように」、
つまり主語を大きくして、叫ぶ人もいる。
これをネット上では『太宰メソッド』とも
言うらしいです。
太宰治が小説『人間失格』の中で
書いた話法にちなんで。
(注:太宰本人が言ったわけではありません)
『人間失格』の中にはこんな場面があります。
「世間が許さないぞ!」と言うキャラに対して、
主人公が「それは世間じゃなくて
君の意見に過ぎないのでは?」と思うくだり。
自分が文句を言いたいだけなのに
「世間が」そう言ってる、という言い方!
これは、偽装です。
ですけれど「世間」では、あるあるな話法。
主語を大きくして、相手の気持ちを
その圧力でへし折ろうとする…。
さて、『世界に一つだけの花』の話に
戻していきましょう。
誤解を招かないよう改めて書いておきますと、
私自身は、この歌の「主張」については
良いとも悪いとも言いませんし、言えない。
先述したように、評価主体や主語で変わるから。
ただ、この歌の歌詞の「主語」については、
把握しておく必要がある。
日本語は、主語が省略されがちです。
ましてや歌いやすくするために、あえて
きちんとした構文にされていないから。
そこで、この歌詞を英語に直し、
さらにその英語を日本語に直す、
という作業をしてみましょう。
主語を明確にするために…。
(ここから英訳意訳、一番のみ)
(英訳終わり)
この英文歌詞を和文に、修飾語を省き、
主語を明確にして訳すと以下のようになります。
主語の移り変わりがわかるよう、
直訳風で、あえて硬い文章にしています。
(ここから部分直訳、一・二番)
(部分直訳終わり)
…いかがでしょう。
「私は」という「小さな主語」から始まり、
「私たちは」という「大きな主語」に変わる。
これが、この歌の特徴なのです。
(もっとも、世間に広がる流行歌とは、
万人に届き、問い続けるもの、ゆえに、
主語が大きいものも多いのですが…)
歌に対する良い悪いは、軽々には言えない。
しかし、もともとこういう構造の歌なのだと
踏まえた上で、考える必要が
あるのではないでしょうか?
さて、読者の皆様は
「主語の大小」に気を付けていますか?
私も、つい、大きくなりがちです。
「それってあなたの感想ですよね?」と
言われないよう(誰に?)、
主語が無意識に大きくなり過ぎないように
気を付けようと思います。
※こちらの記事も、併せてご参考まで。