短編小説『ゆりいか池の精』
一人の男が、森の中を歩いていた。
鬱蒼とした森である。
まるであの生徒の心の中のようだ、と
彼は思った。昼間でも薄暗い。
時折、木漏れ日が差し込む。しかし、
雲がかかれば、また薄暗くなってしまう。
明かりを持って近づけば、その近くだけ
明るくはなるが、消えれば、また見えなくなる。
…何か道が見える方法はないのだろうか?
そんなことを考えながら、彼は歩いていた。
「うーん、このあたりのはずだが…」
彼は地図を見ながら、森をさまよっていた。
先輩の教員から、先日、教えてもらっていたのだ。
あの森には池がある、ゆりいか池、という名だ、と。
そこに行けば、人の心を見えるようにする
道具をくれる『池の精』がいるんだよ、と。
このご時世に、おとぎ話じゃあるまいし!
そう彼は、一笑に付していた。
だが今、彼は、その荒唐無稽な作り話に
すがるほど、追い詰められていたのである。
彼の生徒の一人が、学校に来ていなかった。
自宅で、会った。直接、話もした。
しかし、その生徒の心は見えない。
彼には、何か理由がある、としか思えなかった。
しかし保護者に聞いても、生徒に聞いても、
明らかな返事はなかった。
…もしかして、本人にも見えていないのでは?
そのように結論を出さざるを得なかった。
見えていないことをいくら聞いたところで、
明白な答えが返ってくるはずはない。
こうして彼は
先輩に聞いたその森へと足を向けたのである。
もちろん池の精など、いるはずもない。しかし、
森林浴でもすれば、自分の心も安らぐだろう、と
自分に言い訳をして。
「このままだと自分のほうが追い詰められていき、
学校に行けなくなるのではないか…?」
真面目過ぎる教員が心を病むのを、彼は見ていた。
心の警報が、彼の足を森に向かわせたのである。
その時、さあっと風が吹き、ぱっと視界が開けた。
彼は、思わず息を飲んだ。
昼下がりのさんさんとした日光の下に、池があった。
水面が、きらきらと輝いていた。
思いがけない眼前の光景に、彼は息を飲む。
そう、彼の心は学校現場の日々のあれこれに、
自然を眺める余裕すら失っていたのだ。
湖畔には、一つの切り株があった。
自然と彼はそこに腰を下ろし、
ぼんやりと池を見つめた。一つ、ため息をつく。
…あの生徒にも、見せてやりたいな。
そう、思った。
生徒自身にも何かわからぬ、薄暗い心。
それにより学校に行けないのであれば、
まずは心をぱっと明るくさせて、
見えやすくするべきなのではないだろうか…?
「こんにちは」
背後から急に声をかけられ、
彼はびくっとして、後ろを振り向く。
そこには初老の人の良さそうな男が、
にこにこと笑みを浮かべて、立っていた。
「いやね、あんた、何か悩んでそうだったからさ、
心配になって声をかけてみたんだよ。
…ここは飛び込んでも、浅いよ?」
「す、すみません。お気遣いいただいて。
私、そんなに思いつめた様子でしたか?」
「ああ、その背中が、丸くなっていたよ。
あんたも教壇に立っている時は、
もっとぴしっとしているだろうに」
…この人に、自分は教員だと明かしただろうか?
その初老の男は、軽く手招きするとこう言った。
「私はこの池の管理人さ。
時々、不法に釣りをする輩がいるんで見張っている。
おいで、お茶でも、ごちそうしてあげよう」
なぜか、彼はその誘いを断る気が起きなかった。
「…ふうむ、なるほど、学校に来ない生徒がいる。
何とかして心が見えないか、ということかな」
気が付くと彼は、初老の男に
自分の悩みをとうとうと語っていた。
一つうなずくと、管理人は
机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「これを使うと、いいんじゃないかな」
「…これは?」
「『ゆりいかシート』と呼ばれるものさ」
そこには、図表や文章が書かれていた。
「左に、要素チャート、心のエネルギースケール、
右にイメージのすり合わせ欄と、手立てボックス」
管理人は、シートの説明を始めた。
「不登校の要因は千差万別さ。
百人いたら、百通りの理由が、あるだろう。
だが、本人にも、保護者にも、教員にすら、
その要因は見えにくいものなんだ」
彼はうなずいた。
「だからこそ、チャートの形で見えやすくする。
成長スタイルは何か、個性・状況はどうなのか。
環境・経験は? 健康状態はどうか。
ただね、これを堅苦しく書き出したんじゃあ、
全くイメージがわかないだろ?
イヌ、スズメ、のように、親しみやすい表現で、
お互いにその生徒の要素をイメージしやすくする」
「…心のエネルギースケール、とは?」
「うん、エネルギーがどの程度あるかによって、
適切な手立ては変わるものさ。
エネルギーが満ちていたら、きっかけを与える。
でもエネルギーが少ないなら、まずは充填が先決。
車のガソリンが空なのに、
どんなにアクセルを踏ませても、動かない」
「どんな手立てがあるんでしょうか」
「…おいおい、そう急くなよ。
まずは、保護者が願う子どもの将来イメージと、
子ども自身が描く将来イメージを
すり合わせてから、じゃないかな。
ここのずれは、車の左右の前輪が
違う向きを向いているようなものだ。
前に進めない」
「では、それをすり合わせてから…」
「ああ、手立てボックスを埋めていくんだ。
現在の状態や本人の強みから推察して、
『本人に変化を起こすための手立て』を
文字化して見える化していくのさ。
現時点における『ミニゴール』を決めよう。
手立てを決めるのは、そこから」
管理人は、彼の目を見て、笑顔でうなずいた。
その笑顔に彼は、しばらく味わっていなかった
安堵が心に満ちるのを感じたのである。
「…いいかい、お若いの。
鍵は三つだ。共感、誘出、勇気づけ。
共に感じろ。方向性を合わせろ。
一人で抱えるな。お互いの手立てを誘い出せ。
その上で、他の誰でもない、生徒自身の
勇気をつけてやるんだ。
魚じゃなくて、釣り方をこそ、示していくんだ」
にやっと笑うと、管理人は言った。
「生徒自身に、自分の心を『発見』させるといい。
子どもたちは『人生の宿題』をやっているんでね。
すぐに宿題を終わらせられる子どももいれば、
じっくりと時間のかかる子どももいる。
エウレーカ、ユリイカ、の精神だ。
それが、お前さんの『発見』にもつながるだろうよ」
…池を後にした彼は、管理人に教えてもらった
シートを、早速、使っていった。
考えの押し付けではなく、自身に『発見』させる形、
お互いに目に見える形で、手立てを考えていった。
後日、彼はあの管理人にお礼を言おうと、
森に入り、池を訪れようとしたのだが、
どんなに探しても、あの池とあの小屋を
見つけることはできなかった。
「…あの人は、池の精だったのかもしれない。
そう、不登校の生徒への働きかけに
悩む教員の前にだけ、現れるような」
もし、自分と同じように、
生徒の不登校に悩む教員がいたら、教えてあげよう。
そう思いながら、彼は今日も教壇に立っている。
(おわり)
※参考ページ↓
本作、短編小説『ゆりいか池の精』は、
「ゆりいか研究会」の 恩庄 香織 さんの
オファーにより書いて提供したものです。
先日(2023年3月31日)、
私の長編小説の自分の感想記事に
『※もしご自分の商品やツールを
文章で紹介したい、という方が
いらっしゃればぜひご用命を…。』
と書いたところ、早速にオファーを
いただきましたので書かせて頂きました。
恩庄さんは、不登校を考える
「ゆりいか研究会」という会に
参画されておられる方。
以下は、恩庄さんへのDMの一部です。
参考までにコピペして共有します。
(ここから引用)
(引用終わり)
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