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忘れがちですが、交通手段は変わってきています。
時代によって。

最初は、己の身を使って、
歩く、走る、くらいしかありませんよね。

人類は、そのうち「乗り物」を使い出します。
例えば「馬」。
走るのが速い動物に乗って、移動します。
例えば「船」。
水の上に浮かぶ物に乗って、移動します。

そのうちに「車」が出現する。
しかしその「動力」は、
牛なら「牛車」、馬なら「馬車」、
動物などにひかせることが、多かった。
もし、人が動かすのなら「人力車」ですね。

…ひるがえって現在を見ますと、

◆『自動車』ガソリンや電気などで走ります。
◆『電車』電気で走ります。
◆『飛行機』飛びます。

交通手段は、どう変わってきたのか?
本記事では、このことについて書いてみます。

日本の例で行きましょうか。

「明治時代」の「文明開化」まで、
江戸時代の幕末までは、
基本、交通手段は人力、または馬力でした。

歩く。走る。馬に乗る。

だいたい、この三つ。
例えば「駕籠に乗る」とかの合わせ技は
あったものの、
まだ自動車などは影も形もありません。

たかだか約百五十年前くらいの話です。

荷物を運ぶのも、そんなに選択肢はない。

「飛脚」。「台車」や「荷車」。
重くてさらに量があるなら「船」が中心。

そう、貨物列車やトラックがない時代は、
大量輸送には水上交通、
「船」で運ぶことが中心だったのです。

ですので、海や川、湖などの「水運」
現代とは比べ物にならないほど
重要だった、と言えます。

具体例を挙げましょう。

例えば、茨城県の霞ヶ浦の水運。
地図を見て頂くとわかるのですが、
Vの字になっています。

Vの下の先っぽには「利根川」があり、
さらに先には千葉の「銚子」がある。

銚子と言えば、言わずとしれた港町。
海路を使って全国から運ばれてきた物産が、
ここから水揚げされました。

その物産は、利根川を使って
霞ヶ浦へと運ばれます。

そう、陸路で運ぶより、
水路を使った方が楽なんですよね。
船なら、すいすい行けますから。

霞ヶ浦を使って、Vの上の、
ぎりぎりの端まで運んでいく。

ゆえに、Vの上のあたりには
その物産をさらに水揚げする街が栄えます。
上のVの端は、高浜、そして石岡。
下のVの端には、土浦という街が栄えました
(江戸時代の茨城県内の藩についてはこちら↓)

さらに言えば、ぎりぎりまでこの水路を使い、
そこからは陸上輸送になります。

下館、宇都宮、といった内陸部の都市に
運んでいくためには、できるだけ
最短距離で運んでいきたい。

ただ、高浜・石岡から直線距離で
行こうとすると「筑波連山」という
山を越えなければいけません。
迂回すると、かなりロス。

そこで加波山と筑波山の間あたりにある
「上曽峠」(うわそとうげ)という
峠を越えて、運んでいくことになります。
(この峠について短編小説も書きましたので
よろしければ下のリンクからぜひ↓)

ただ、峠を越えるのは、夜の間だと怖いし、
できれば、明るい時に登りたい…。

ということで、上曽峠の麓には
「上曽宿」という宿場町
できるのでした。
ここで一泊して、疲れを取ってから、
峠を越えて運んでいく。
あるいは峠越えの疲れを癒す。

かなり詳細な具体例を挙げましたが、
こういう例は、全国各地に
無数にあるように思われます。

水運や宿場町が、現在からは及びもつかないほど
発達して、生活に密着していた。

茨城県の県庁所在地の「水戸」も、
まさに「水の扉」です。

「なんでこんなところに
町があったんだろう?」
という疑問は、当時の移動手段・輸送手段を
考えてみると良いと思います。

さて、そんな時代も
「文明開化」で様変わりしていきます。

欧米列強からの直輸入!
「鉄道」の登場です。


当時は「蒸気機関」。
ポッポーのモクモク。
「陸蒸気」などとも呼ばれました。

これの何が凄いか。
「陸路」で「楽」に「たくさん」の
物産や資源を運べるところです。


明治新政府の施策もあり、
全国に鉄道網が張り巡らされていきます。

茨城県の例で言えば、今の「常磐線」
南北につながる大動脈です。
水戸・石岡・土浦をはじめ、
北は福島県のいわき市、さらに東北。
南は東京までつながっていきます。

そう、水運で栄えた街を、
鉄道が、タテにつないでいった。


さらに言えば、
福島県のいわき市は、元は「炭鉱」の町。
色々と、つながってきませんか?
そう、蒸気機関車に石炭は必須。
常磐線、とは、常磐炭田の石炭を輸送するために
元々は開発された
、と言われています。

もちろん、当初はまだ
水運も普通に使われていたでしょうから、
この常磐線で運んだ物を、
逆に各町から水運で運ぶこともあったでしょう。

(余談ですが、茨城県の南のあたり、
常磐線の取手~藤代間で
交流と直流が入れ替わります。
これは、上曽峠の近くに
「気象庁地磁気観測所」があるからです。
地磁気の観測に、直流は影響を与えるため
具合が悪いので、あえて交流に変えるのです。
鉄オタの方が好きそうな余談でした)

…しかし、このような状況も、
科学文明の発達によって、徐々に変わります。

戦後の「モータリゼーション」に
「エネルギー革命」


内燃機関、すなわちガソリンとエンジンが
発達したことで、陸運は「自動車」
どんどん主流になっていきます。

石炭から、石油に!
炭田は、どんどん衰退・閉山していきます。

蒸気機関車は姿を消して、電車となり、
トラックでの輸送も盛んになる…。
地方の鉄道は、続々と廃線になる…。

「高速自動車道」のほうが
大事になってきますよね。

茨城県の例では、タテの南北には
「常磐道」が整備されて、
さらに今ではヨコの東西に
「北関東道」「圏央道」
整備されています。

…そうなると、必然的に。

これまで常磐線を中心に隆盛を誇っていた、
水戸・石岡・土浦より、
高速道路網の集積地のほうが
「交通の要衝」として栄える
ようになります。

それが、今の「つくば市」です。

「つくばジャンクション」は、
タテの常磐道とヨコの圏央道の交差点。
かつて「陸の孤島」と呼ばれていたつくばは、
今や、東西南北を結ぶ陸運の重要地点

それに加えて「つくばエクスプレス」
東京秋葉原とじかにつながったことで、
県内、特に県南においては
「陸運の帝王」とも言うべき街になっています。

最後に、まとめましょう。

約百五十年ほど前のことを、
私たちはつい、忘れがち。

健脚の人でないと、長旅はできない。
大名でもない限り、ずっと駕籠に乗って
参勤交代などはできず、船旅以外は、
原則、自分の足や馬などで動くしかなかった。

それが今では、
電車・自動車・飛行機と、
色んな交通手段・輸送手段があります。

「なんでこんなところに、こんな町が?」

そう思った時には、地図を眺めながら、
当時の移動手段を想像してみてください。

きっと、街道をゆく人や馬、
渡し舟や船で移動する風景が
頭に浮かんでくる、と思います。

さあ、読者の皆様の近くの街は、
どのような歴史と地理をたどってきましたか?

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