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United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland。
略称UK。直訳すれば
「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」

しかし日本では「イギリス」とざっくり
カタカナ英語で呼称されます。これは、

◆ポルトガル語のInglez(イングレス)
◆オランダ語のEngelsch(エンゲルシュ→エゲレス)

これらの言葉が由来だ、と言われている。

「『イギリス』と『グレート・ブリテン及び
北アイルランド連合王国』では、
字数も受ける印象も違いますよね…」

そうなんです。
イギリス(あえてこの呼称で書きます)は
複雑で紆余曲折のある歴史を重ねてきました。

本記事ではそんなイギリス、特に
グレート・ブリテン島南部のイングランドが
ユーラシア大陸と切り離されて生まれた、
その経緯
を書いてみよう、と思います。

まず、地理的な話から。

ユーラシア大陸の西の海に浮かぶのが
グレート・ブリテン島とアイルランド島。
日本列島と同じく、最初は大陸と陸続きでした。
人類が住み始めていきます。

大陸と切り離されて「島」になったのは
8500年前、もしくはそれ以前。
紀元前5000~4000年頃に農耕開始。
有名な『ストーンヘンジ』と呼ばれる
環状列石(円状に並べられた石の遺跡)が
つくられ始めたのは、紀元前3000年頃です。

日本では、まだ縄文時代。

日本で「縄文土器」が作られたように、
この島でも「ビーカー」が作られます。
口の広い器。後に化学用品になる。
「ビーカー文化」というのですが、
その文化の担い手が
紀元前2000年頃に島に渡来します。
ビーカー人たちは金属製品も扱った。
先住民たちとビーカー人たちが交わり、
徐々に部族国家が生まれていく…。

「…ケルト人、ではないんですか?」

ケルト、という言葉は古代ローマで
漠然と「未知の人」という意味であり、
民族をあらわす言葉ではありませんでした。
歴史学などでは「ケルト人」と呼ばずに
「ケルト系」などと便宜的に使っています。

先述したビーカー人=いわゆる「ケルト人」
という説もありますが、
詳しいことは分かっていない。
(文字が無い先史時代ですから…)
「ケルト系民族」が紀元前9~5世紀に
部族国家をつくっていった、とも言われる。

…さて、この島に
紀元前55年にやってきたのが、あの人です!

◆ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)

共和政ローマの英雄。
『ガリア戦記』という自身の著書の中で
(ガリア、とはイタリア北部、
フランスのあたりを指す呼称)
「ブリタンニア遠征」について記している。

歴史家のタキトゥスは、
彼の功績について、こう書きます。

(ここから引用)

『事実上、最初にブリタンニアへ
軍を率いて攻め込んだ神君ユリウス
(=カエサル)が全ての始まりであり、
カエサルは戦闘に勝利を収めて
原住民を懐柔し、海岸の支配者になった。
しかし、神君ユリウスはローマに
ブリタンニアを遺贈したというよりも、
むしろ、未開のブリタンニアを
明らかにした
、と言えるかもしれない』

(引用終わり)

こうしてローマの知るところになった
グレート・ブリテン島(ブリタンニア)は、

西暦43年にローマ帝国第4代皇帝の
クラウディウスの征服を受けて
その支配下に入った
のです。

…日本史とは異なりますよね。

ドーバー海峡と比べて
対馬海峡は広く、渡りにくい。
大陸側の勢力が列島に攻め込んできて
直接支配する、ということはなかった。

…ただ、これらはあくまで
大陸に近い島の南部のあたりの話です。
北部の「スコットランド」と
西にある「アイルランド島」では
ローマ帝国の影響は少ない。
ローマ風の『イングランド』と
『スコットランド』『アイルランド』とで
別々の文化が育まれていく…。


ローマ帝国が衰亡した後には、
ゲルマン人が来ます。
アングル人。ジュート人。サクソン人。

彼らは先住のケルト系ブリトン人を駆逐し、
島の南東部を支配していく。
いわゆる『アングロ・サクソン人』ですね。
七つの王国が並立したため、
「アングロサクソン七王国」
(ヘプターキー)
とも呼ばれます。

元々アングロ・サクソン人とは
「アングリアのサクソン人」という意味。
アングリアとはデンマーク南部の地名。

ここで一度、整理しましょう。

◆ストーン・ヘンジをつくった民
◆大陸からビーカー人/ケルト人
◆ローマからカエサル、ローマに服属
◆ローマ帝国の後には、ゲルマン人
◆大陸からやってきた
アングロ・サクソン人が支配

「ということは、イングランドは
アングロ・サクソン人の国…?!」


…いや、さらにここから紆余曲折がある。

1066年、フランスのノルマンディー公爵、
「ギヨーム2世」
この七王国の流れをくむ
「ウェセックス朝イングランド王国」に
攻め込んできて、支配するんです。

人呼んで『ノルマン・コンクェスト』

conquestとは『征服』の意味。
ノルマンとはノール・ゲルマン人、
すなわち「北のゲルマン人」を指します。

デンマークのあたりから来ていた
「アングロ・サクソン人」の支配者層が、
フランスに住んでいた北のゲルマン人、
「ノルマン人」に倒される…。
ギヨーム2世はウェストミンスター寺院で
「ウィリアム1世」として即位します。
(ギヨームの英語読みはウィリアム)

ノルマン朝イングランド王国の始まりです。
その後はプランタジネット朝が継ぐ…。

「…ちょ、ちょっと待ってください。
フランスのノルマンディー公国の公爵が
イングランドの国王も兼ねた?
ということは、フランスとイングランドは
『1つの国』だったの?!」

そうなります。

「…でも今は、別々の国、ですよね?」

それは1337年から1453年まで続いた
『百年戦争』のためです。
大陸のフランス勢力と、
イングランド勢力との戦い。
フランスで『ジャンヌ・ダルク』
出現し、活躍した…。

結果的にこの戦争の結果として、
イングランドは大陸の領土を失います。
フランスではイングランド大陸領との境界を
「frontière」(国境)と呼んでいました。
(これが「フロンティア」の語源とも)
ドーバー海峡に『国境』が生まれる。

こうして、複雑に絡み合った関係を持つ
大陸諸国とイングランドは、
百年戦争により「国境」で切り離され、
別々の歴史を歩んでいきます。


最後にまとめましょう。

本記事では、イギリス
(特にイングランド)の
「百年戦争」までの歴史を書いてみました。

直線的な日本史に比べて、
イングランドの歴史はかなり複雑です。
時に混じり、時に分かれる。
支配し、支配され、混交している…。


その「多様性」を含んだ豊かな土壌が、
後に『外交上手』『貿易上手』へつながり、
『大英帝国』の繁栄を生んだのかもしれません。

読者の皆様は、どう思われましたか?

※日本史と比較しながら読むと
その「ヨコ」の関係の
複雑っぷりがより理解できると思います↓
『中と外との日本文化史 ~風をどう通すか?~』

合わせてぜひどうぞ!

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