『意識さける系』へ ~さけるチーズのように~
「意識高い系」という言葉があります。
「何らかの意識が高い人」を指します。
…しかしこれは必ずしも誉め言葉ではない。
「揶揄する言葉」としてよく使われる。
人がそのように言う時、
『自分』と『意識高い系』の人とは「違う」、
同じ仲間、同志ではない、
「高い」ところから見下しているのでは…?
そんなニュアンスが込められがち。
つまり「意識高い系」だと
他人から言われてしまう場合には、
そう捉えられている危険性が高いのです。
ただ、ここにズレがあります。
…他人から「意識高い系」と言われる人は、
その人の主観においては
「私は意識高い!」と
思っている人など、ほとんどいないのでは?
むしろ「自然」「当たり前」
「何なら私は意識低い系なのですが…」と
自己評価をしている人のほうが多いのでは?
本記事では、このような意識のズレ、
自己評価と他者評価の違いについて
「SNSにおける意識高い系」を例に挙げて
深掘りをしてみよう、と思います。
まずは『継続投稿意識高い系』について。
「毎日、長文を投稿する人」がいるとする。
他人から見れば意識が高い人かもしれない。
投稿を頑張る。
それを毎日、人目にさらしている。
何だか「あなたは投稿しないの?」と
責められているみたい…。
そんな風に捉える人もいるのかもしれない。
ただ、これはおそらくですが、
「毎日長文を投稿する人」は
自身のことを「投稿意識高い系」とは
必ずしも思っていないのでは?
いや、これは私の推測に過ぎない。
本当の内心はわかりません。
すごく苦労して頑張って書いている、
かもしれない。
…でもですね、その人にとっては
長文を書くことはそんなに苦ではない、
かもしれないのです。
慣れの問題もある。
ほとんど長文を書かない人や
時間が取れない人にとって、
長文を書くことは大仕事かもしれませんが、
日々長文を書いている人にとっては
そんなに大それたことではない。
人にはそれぞれ凸凹な特性があり、
千差万別で得意不得意も違う。
私はそう言いたいのです。
脊髄反射的に
「自分は〇〇だから他人も〇〇に違いない!」
そう決めつけるのはちょっと。
意外と自分の非常識は他人の常識…。
次の例を挙げましょう。
『リアル交流意識高い系』。
SNSでの発信では、
「〇〇さんと会いました!」
「〇〇というイベントに参加!」
という発信を目にすることがあります。
もし「交流する意識が比較的低い」人が
それを見た場合、
そのように自分を卑下し、代わりに
相手を高く見て「交流意識高い系」だ、
と決めつけることもあるかもしれない。
しかし、ちょっと待っていただきたい。
この場合においても「交流意識高い系」だと
思われている人は、自分自身のことを
交流意識高い系とは思っていないと思う。
ただ単に、自然と会って、話しているのです。
その様子を「自然に」発信しているに
過ぎないかもしれないのです。
これまた慣れの問題という側面が強い。
交流が日常の人には、そんなに特別ではない。
いや、これも私の想像に過ぎません。
もしかしたら中には
「私は交流意識が高い!
何か問題でも? フフン」と
己を誇示するために
発信している人もいる、かもしれない。
でも、発信をよく読めば、
そうでないこともまた多いのです。
それなのに「あの人は交流意識高い系!」と
一方的に決めつけて「揶揄」するのは
発信者ではなく受信者の心の問題。
発信をどう捉えるかは受信者の問題。
発信者がそこまで気に病むことでも
ないように思うのです。どうしようもない。
(もちろん誹謗中傷的な発信や
あからさまな自慢は
多くの発信者に拒絶されがちですが…)
最後に『ビジネス意識高い系』。
SNSにおいてビジネスの話をするのは
それぞれのSNSによって
反応に違いがあります。
LinkedInは『ビジネス特化型』なので、
歓迎される雰囲気。
しかしX(旧Twitter)だと怪しまれ、
拒絶されることもある。
Facebookでは「顔見知り」がほとんどで
ドライな話は避けられることも。
一方インスタでは「お店の広告」などが
バンバン出されている。
SNSによって全然違う。
同時に「ユーザーによっても」全然違う。
もしかしたら「ビジネスに興味はなく
自分伸ばしのためにSNSやっています!」
という人もいるかもしれない。
そんな人に高額のビジネスを持ちかけると
「結局、お金…?」と
拒絶されるかもしれない。
逆にビジネスを伸ばすため「だけ」に
運用している人に対し、どうでもいい
世間話的なことばかりをしたら?
「ちょっとこの人とは違う…」と
離れていくこともある。
人それぞれ。自由。
三つの例を挙げました。
…発信者や運用者本人は
「意識高い系」でもなんでもなくて
その人の凸凹に応じて自由に、
「その人にとっては」当たり前に
運用・行動していることも多い。
「高い」「低い」と
『比べる』こと自体に無理があるのでは?
なので、私は「意識さける系」という
概念を提案したいのです。
自分のキャパを「どこに振り分けるか」
「どこに振り分けないか」「何を推すか」は
それぞれ違う。
その違いを無視して、
高いだの低いだの簡単に言えるのかどうか…。
誰かにとっての「高い」は、
誰かにとっては「当たり前」「低い」、
かもしれない。
自分とは違うけれど、別にその人は
別に自分のことを見下してなぞいない…。
ただ「さける」だけ。シェアしているだけ。
そう思ったほうが心理的に
穏やかに過ごせるように思います。
最後にまとめます。
本記事では「意識高い系」について
いくつかの例を挙げた上で
言い換えを提案しました。
意識は高い低いでは決められない。
自身のキャパや縛りを鑑みて
どれだけ「さける」かだと思います。
組織規則、家事(育児・介護)、
地理的条件、PCやスマホ、性格…。
人によってさける意識、優先順位、
かかる時間や労力は違うのですから…。
例えれば「さけるチーズ」です。
どれくらい「さく」かはその人次第。
堅くてさけないチーズもある。
人それぞれ。
それぞれの中で自由に行動すればいい。
皆様は、どう思いますか?
※井口 大輔 a.k.a Dice さんの記事も
「意識高い系」問題について、
とても考えさせられる内容でしたので、ぜひ↓
『勤め人によく効くLinkedIn』
※私の記事
『人により千差万別なSNSの運用
~他人に強制はできない~』はこちら↓
※交流に敷居を高く感じてしまう方は、
まずは投稿へのリアクションや
コメントへチャレンジするのが
良いと思います。
相手の人柄をまず知るのが大事。
知れば、自分の心理的な敷居は低くなる。
同時に自己開示も。
LinkedIn上で私が運営している
『千差万別キャリア自己紹介部』では
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