分断の時代のヒント ~英国王朝史~
百年以上も西欧で続いた『百年戦争』!
1337年から1453年に起きたと言われます。
1333年「イチミサンザン鎌倉幕府(の滅亡)」、
1467年「ヒトノヨムナしい応仁の乱」ですから、
日本史なら「室町時代の最初」の頃…。
百年戦争が起こるまでイングランドの国王は、
ノルマンディーの支配者も兼ねていました。
「イギリス」と「フランス(西部)」は
一つの国だった。
「アンジュー帝国」とも呼ばれます。
イングランドの歴史においては
『プランタジネット朝』と呼ばれる。
(プランタジネット=金雀枝、エニシダ。
家の紋章がエニシダだったから)
…しかしこの百年戦争の結果、
イングランドは
「大陸の領土のほぼすべてを失う」。
大陸と切り離され、別々の歴史を歩む…。
本記事では、この百年戦争から
名誉革命が起きるまでの
「イギリス」の王朝史を書きます。
…さて、イギリスの正式名称は?
United Kingdom of Great Britain
and Northern Ireland。
「グレート・ブリテン
及び北アイルランド連合王国」。
地域で違う国。連合して構成されています。
このうちのウェールズでは、
ケルト系の国が13世紀まで続いていました。
これを征服したのが1282年、エドワード1世。
彼は王太子のエドワード(後の2世)に
プリンス・オブ・ウェールズの称号を与える。
その後、イングランド王太子は
代々この称号を与えられます。
文化的には分離しつつ、一体化していく。
このイングランド&ウェールズで
百年戦争後に「内戦」が起きるんですね。
その名も『薔薇戦争』!
先述したアンジュー帝国、
プランタジネット家内での権力争いです。
ランカスター家とヨーク家が相争う。
それぞれ「赤薔薇」と「白薔薇」を
シンボルとしていたので、こう呼ばれます。
1455年~1485年。
日本では「応仁の乱」が起こっていた頃。
イギリスも戦国時代だったんですね!
まさに「ばら・ばら」だった。
これが収まってできたのが「テューダー朝」。
和平の証に、赤薔薇と白薔薇、
「両方を合わせてつくった紋章」を使う。
初代はヘンリー7世です。
彼の子どもが「ヘンリー8世」。
在位1509~1547年。40年近くの治世。
しかしこの頃、大陸側のヨーロッパでは
大騒動が起こっていた。
…宗教改革です。
1517年に神聖ローマ帝国(ドイツ)で
ルターがローマ教皇・カトリックに抵抗。
カルヴァンも立ち上がる。
彼らは「抵抗する人たち」という意味の
「プロテスタント」と呼ばれました。
どうする、ヘンリー?
カトリック側か? プロテスタント側か?
…第3の道、「独自路線」を進むんです。
英国国教会をつくり
1534年には国王至上法(首長令)を出して
自らを国教会の長としました。
世俗権力、宗教権威、両方を握る。
カトリック教会離脱、教皇から破門される。
なお、ヘンリー8世は6回結婚しています。
(カトリックだと原則、離婚できません)
強大な権力を背景に
アイルランドの「国王」も兼任する…。
こうして彼は「絶対王政」の君主として
イングランド&ウェールズ
&アイルランドに君臨したのでした。
(アイルランドにはカトリックが多く、
イングランドの統治は浸透しませんでしたが)
その彼の娘が、有名なエリザベス1世。
テューダー朝第5代目の女王です。
1558年~1603年、在位約44年の中で
王政を安定させます。
当時「世界帝国」となっていた
最強スペインの「無敵艦隊」も撃破。
1588年。「イゴハバ」利かすイギリス艦隊!
秀吉の天下統一の1590年とほぼ同じ頃。
…違う、そうじゃない。
エリザベス1世の死後、17世紀、
イギリスは大混乱に陥ります。
江戸幕府に「大奥」があったように、
国王の第一の務めは後継者を得ること。
しかしエリザベス1世は結婚せず、
子どもも生まれなかった。
そんな彼女の後を継いだのは、
何とグレート・ブリテン島の北部、
スコットランドの国王でした。
これには説明が必要ですね。
ヘンリー8世の父のヘンリー7世、
つまりエリザベス1世の「祖父」は、
娘をスコットランド国王に嫁がせていた。
その流れで
エリザベス1世の「いとこ」にあたる
メアリー・スチュアートが
スコットランド女王になっていたんです。
しかもこの人、フランス国王の
フランソワ2世に嫁いでいる。
その彼女の息子は、エリザベス1世にとって
「いとこの子ども」に当たります。
彼に後を継がせた。
彼は「ジェームズ1世」と名乗る。
「スチュアート朝」の始まりです。
イングランド、スコットランド、フランス、
各国の協調を進めたため
「平和王」とも呼ばれました。
…しかし、その次が、いけない。
彼の子どものチャールズ1世は
絶対王政を強引に進め、議会と対立。
アイルランドで内乱が起き、
ついには「清教徒革命」が勃発する…。
1649年、王が処刑されてしまう。
清教徒は「ピューリタン」と呼ばれて、
生粋のプロテスタントです。
そのリーダーのクロムウェルは
カトリックの地であるアイルランドを
力ずくで制圧します。
1658年にクロムウェルが死去すると、
1660年に「王政復古」。
国王制度が復活し、チャールズ2世が即位。
…しかし彼の後のジェームズ2世の時代には
また革命が起きる。
1688年に「オランダ総督」が王位に就いた。
今度は元国王は処刑されなかった。
紳士的で名誉なことだ、ということで
「名誉革命」と呼ばれます。
日本では徳川綱吉、元禄の泰平の頃です。
その後、イギリスでは
「君臨すれど統治せず」の国王と
「責任内閣制」が発達していきます。
個人の統治から集団の統治へ…。
最後にまとめます。
本記事では「百年戦争」から
「名誉革命」までの英国王朝史を
かいつまんで書いてみました。
…ずいぶん日本史とは
違う展開だと思いませんか?
なおアイルランドは、
1921年に「北アイルランドを残して」独立。
1949年にイギリス連邦離脱、共和国になる。
紆余曲折を経てきた英国王朝史。
そこには「分断の時代」を考える際の
たくさんのヒントが含まれているように、
私には思われるのです。
…皆様の組織においてはいかがでしょう。
絶対王政は行われていませんか?
革命が起こりそうではないですか?
※「百年戦争」以前の
大陸と混合・分離を繰り返していた
英国史についてはこちらの記事をぜひ↓
『「イギリス」の中と外 ~大陸との混合と分離~』
※日本史と比較しながら読むと
さらに立体的にイメージがつくと思います↓
『中と外との日本文化史 ~風をどう通すか?~』
合わせてぜひどうぞ!