スタンダール・シンドローム ~追い求める世界~
突然のめまい、激しい動揺、しばらく呆然…。
フランスの作家スタンダールが
1817年に初めてイタリアへ旅行した時、
彼はフィレンツェにある聖堂の中の
フレスコ画を見上げて
立ちすくんでしまったそうです。
この症状は『スタンダール症候群』と呼ばれる。
スタンダール・シンドローム!
…何が彼をそうさせたのでしょう?
詳しい理由は、まだ分かっていない。
フィレンツェには聖堂のフレスコ画のように、
大きく首を上に向けて観る芸術作品が多く、
それが首の神経を圧迫するのだ、とか、
心から待ち望んだイタリア美術の
精髄に対面することで
その作品の中に吸い込まれるような
心持ちになるのが原因だ、とか…。
この説明は何となくわかるような気もする。
読者の皆様はどうでしょう?
そんなご経験はありませんか?
それを確認しておくのが先ですね。
本記事ではスタンダールについて
その生涯を追ってみながら
彼が追い求めたものを探りたいと思います。
1783年生まれ、1842年に亡くなる。
スタンダールはフランス生まれの有名な小説家。
本名、マリ・アンリ・ベール。
…実は、スタンダールとはペンネームです。
一説によると、ドイツの小都市である
『シュテンダル』の地名を取って
この筆名にした、と言われています。
それは、この街がスタンダールの
『推しの作家』の出身地だから。
ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン。
1717~1768年。彼より前の時代の人。
彼は貧しい商人の家の出身でした。
苦学して大学に進み、神学を学ぶ。
ホメロスなどのギリシア古典文学に憧れ、
独学で古代美術を研究します。
このヴィンケルマンが刊行したのが
『古代美術史』という本です。
いわゆる『新古典主義』です。
芸術と文化・歴史を組み合わせて論じたため、
『美術史の父』とも呼ばれます。
…このヴィンケルマンに、スタンダールは
深く影響を受けているようです。
1783年に生まれたスタンダールは、
弁護士の息子でした。不自由のない生活。
しかし7歳の時に母親を亡くしてしまい、
終生、彼女を慕い続けた、と言われています。
その反動で、父親を憎んだ。
弁護士の父親は「王党派」でした。
そのため、父親と正反対の考え、
「共和主義者」として一生涯を送る。
1783年と言えば、ヨーロッパでは
いよいよ革命!という時代です。
1783~1842年の彼が生きた時代は、
まさに革命/反革命のど真ん中でした。
昨日までの白は、明日の黒。
昨日までの黒が明日の白になる…。
血の赤がそれを彩る。
もう、コインの表裏のように諸行無常、
目まぐるしく情勢が変わる時代。
1799年、厳格な父親の期待を受けて
勉学に励んだスタンダール。
理工科学校の入試に合格します。
…しかし、パリに転居したものの、
パリの空気に合わなかったんですかね。
ノイローゼになってしまう…。
彼は母方の祖父の家に引き取られます。
その家のコネで陸軍に就職。
イタリア遠征に従軍します。
軍を率いる司令官は、後に皇帝になる
英雄ナポレオン・ボナパルトでした。
このように兵を鼓舞したナポレオン。
スタンダールもまた鼓舞された。
遠征先のイタリアの文化に
すっかり魅了されてしまうのでした。
◆厳格な父、パリでノイローゼ:フランス
◆最も肥沃な平原、第二の故郷:イタリア
彼はフランス生まれでありながら
イタリアに強い憧れを抱いたのです。
そこにはヴィンケルマンが唱えた
「新古典主義」の精神もあったのでしょう。
さて、軍人になったスタンダールですが、
虚弱なガリ勉タイプ。
馬には乗れない。剣もふるえない。
軍人としては落第です。トホホな人。
もっぱら女遊びと観劇ばかりだった。
(ただ、この奔放な経験が
後に「小説家」として彼を花開かせる)
1806年、再びコネで転職します。
軍人から転身、官僚になる。
当時は皇帝ナポレオンの治世下です。
1810年、帝室財務監査官にまで出世!
…しかし、好事魔多しとも言います。
皇帝ナポレオンは敗北して島流しになり、
スタンダールもまた没落してしまうのです。
彼は「第二の故郷」イタリアに赴いた。
1817年「スタンダール・シンドローム」が
起きたイタリア旅行ですね。
彼は共和主義者ですので、
現地のその関連の人たちと親交を結んでいく。
ただ、当時は殺伐とした世情でした。
「奴はフランスのスパイだ」という噂が広がって、
やむなく帰国せざるを得なかった。
…そんな有為転変の中、
彼は評論や小説を書き始めていくのです。
◆1822年:「恋愛論」出版
◆1830年:「赤と黒」出版
特に『赤と黒』は野心に燃える若者の
立身出世を鮮やかに描き出し、
王政復古のフランス社会を
鋭く風刺した作品だと言われています。
そんな彼が、再び脚光を浴びた。
そう、1830年の「七月革命」!
革命でブルボン王朝が打倒される。
共和主義者だったスタンダールは
政府によって起用され、出世するんです。
ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在の
フランス領事を務める。
イタリアやローマ好きの彼にとっては、
まさに天職だったのかもしれません。
何度も聖堂に赴いて、
イタリア美術を眺めたことでしょう。
◆1839年:「パルムの僧院」出版
1842年、パリの街頭で彼は脳出血に倒れ、
この世を去ります。
写実主義(リアリズム)と
ロマン主義を掛け合わせ、
この世の色々を鮮やかに表現した彼は、後に
『近代小説の開祖』とも呼ばれるのでした。
(なお、彼の作品は生前にはあまり売れず、
死後に名声を博したことも付記しておきます)
最後に、まとめましょう。
本記事ではスタンダールの生涯を追いながら
彼が追い求めたものを
私なりに考え、まとめていきました。
…読者の皆様には、
生涯を通して追い求めるテーマ、
表現してみたい世界はありますか?
本記事は、彼の墓碑に刻まれた
次の言葉で締めましょう。
※本記事のトップ画像は『赤と黒』をイメージしました。
※本記事は『リンクトイン珈琲倶楽部』で
ナポリタンと珈琲の記事を書いたことから
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