
パーマストン外交 ~英国外交の真髄~
『英国は永遠の友人も持たないし、
永遠の敵も持たない。
英国が持つのは、永遠の国益である』
英国、イギリスの外交は
ドライ、かつ洗練されています。
歴史を学ぶと、そんなことを感じます。
冒頭の「名言」を放ったのは
19世紀頃の英国の政治家、パーマストン。
本記事は、彼について書きました。
彼の本名は、長い。
Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston。
『ルパン三世』的に言えば
パーマストン三世、って感じです。
(本記事ではパーマストンで表記)
1784年生まれ、1865年に80歳で没。
日本は幕末初期のあたり。
その頃、イギリス政界で大活躍した人。
世界史においては『パーマストン外交』
で知られます。
有名なのは『アヘン戦争』を
主導したことです。
アヘン戦争と言えば、
イギリスがガチで中国(清)を倒して
従わせた…というイメージ。
インドでも強硬姿勢を見せています。
『シパーヒー(セポイ)の反乱』。
『インド大反乱』とも呼びますが、
こちらも強権的に弾圧している。
エジプトに対しては、
梟雄ムハンマド・アリーに対し介入、
エジプトに強国を作り上げる!という
彼の野望をくじけさせています。
幕末の日本でも「生麦事件」とか
「薩英戦争」とか、イギリスがらみの
血なまぐさい事件にからんでくる…。
こうやってトリミングして取り出すと
「パーマストンは、人か悪魔か!」
と思いますよね。
『パーマストン外交』=砲艦外交
というイメージが強い。
事実、アジアや中東ではそうだった。
…しかし、ですね。
それ「だけ」で語るのはいかにも
片面からの一方的なお話。
例えば実質的な『奴隷貿易の廃止』を
主導したのは、
このパーマストンだと言われています。
奴隷貿易は、人身売買です。
現在的な視点で言えば、犯罪。
例えばアフリカの黒人奴隷を
アメリカ大陸に連れていき重労働させる。
人を人と見ずに、モノ・商品として扱う。
イギリスもこの奴隷貿易を行っていました。
17世紀末、リヴァプールの港には、
(ビートルズの出身地としても有名)
アフリカの奴隷を買い付ける奴隷商人、
「人買い」がうじゃうじゃいた。
彼らの投資で、隣町のマンチェスターが
産業革命で大きく発展した、と言われたほど。
いわば奴隷は、18世紀頃のイギリスの
「売れ筋の商品」だったんです。
アフリカから奴隷をアメリカ大陸へ。
プランテーションで働かせて
砂糖・煙草・綿花をヨーロッパへ。
自分たちの工場で加工した
綿製品は、アフリカに売りつける。
大西洋三角貿易。
これで、がっぽり儲けていた。
しかし1830年、外務大臣のパーマストンは
この奴隷貿易を「廃止」するように
各国に交渉して、力を尽くしています。
もっとも、奴隷貿易廃止は
彼が最初に言い出したわけではない。
議員であるウィルバーフォースたちが
18世紀末から「奴隷貿易に反対!」と主張し、
1807年「奴隷貿易法」が成立していました。
奴隷貿易は違法化され、
罰金刑が課されます。
…ところが、表で禁じられたら
裏で行われるのが世の中の常。
奴隷貿易船は見つかりそうになると
奴隷を海に突き落としてしらばっくれるなど
闇取引で続いていたのです。
これじゃ、ザル法だ。
そこで1833年「奴隷廃止法」が成立。
イギリス植民地における奴隷制度は
改めて違法、厳罰化されました。
この奴隷制度・奴隷貿易禁止に
大きく関わったのがパーマストン。
奴隷から見れば救世主のような存在です。
…もちろん、彼は「いいひと」だから
奴隷貿易を禁じたわけでは、ない。
あくまで「外交」「国益」を考えて
そうしたに過ぎない、とも思われます。
お隣のフランスには
「英雄」ナポレオンがいました。
実は、ナポレオンはいったん廃止された
奴隷制度を1802年に「復活」させている。
けっこう、ひどい一面がある。
敵の弱みを突くのは、外交で大事なこと。
パーマストンは
「フランスは人権を大事にすると言いながら
奴隷制度を続けていますよねェ…?」
と、外交上の道具に使ったんですね。
そのための奴隷貿易反対、という見方もある。
イギリスが先陣を切ったため、
フランスも1848年には再び
奴隷制度を「廃止」にしています。
なお、当のアメリカでは
1863年、南北戦争中のリンカーン大統領の
「奴隷解放宣言」あたりまで
奴隷が普通に使われていました。
プランテーションで、必要だったから。
そう、奴隷廃止の世界的な潮流を作ったのが、
パーマストンだった、とも言えるのです。
また、彼はアジアでは
「砲艦外交」を行う一方で、
ヨーロッパでは「会議外交」を展開する。
1830年、オランダから独立した
ベルギーを、会議で各国に認めさせる。
1848年、二月革命を起こしたフランスと
各国とのいさかいを仲裁する。
デンマークとドイツ(プロイセン)の
いさかいも、会議で仲裁する。
1856年にはロシアとの「クリミア戦争」を
フランスのナポレオン三世も巻き込み
有利に終戦に持ち込む…。
そう、パーマストンは攻撃だけじゃなく
地道な守備も絶品な「二刀流」だった。
「歩く英国外交」とも言うべき
外交のスペシャリスト!
19世紀前半、イギリスは
「世界の大英帝国」として繁栄しますが、
この「パーマストン外交」のおかげ、
とも言えるのです。
当時の国王であるヴィクトリア女王は
実はパーマストンが大嫌いでした。しかし
「彼も『首相としては』立派だ」と
政治家としての彼のことは認めています。
人にへつらうことはしない。
政界ではロンリーウルフ。
言うべきことは相手が誰であっても言う!
そんな孤高の存在だったのです。
1865年に彼は死去しますが、彼の死後、
ディズレーリとグラッドストンが
19世紀後半の大英帝国を繁栄させます。
その土台を築いたのが
パーマストンなのでした。
最後に、まとめます。
戦後日本の道筋をつけた吉田茂は、
戦前はイギリスの大使です。
彼が身につけたのは、英国流の外交。
「日英同盟」などで関係の深かった
イギリス外交に学ぶことも
多かったと思われます。
おそらくパーマストン外交についても
きっちりと研究し、
かつての敵であったアメリカ合衆国と
うまく関係を保つ外交を心掛けたのでは…。
仮に、彼の名言を
「ビジネス上の人間関係」に置き換えても
深い示唆を私たちに与えてくれます。
『私は永遠の友人も持たないし、
永遠の敵も持たない。
私が持つのは、永遠の私の利益である』
こう書くと、ドライで、偽悪的で、
虚無的、かつ利己的にも感じます。しかし、
ビジネスや人間関係は移ろいやすいもの。
八方美人外交で他人に
振り回されてしまうよりも、
軸を保って自ら主導で回るほうが
私には良いように思われるのです。
読者の皆様はどう思いますか?
※本記事は以前に
書いた記事のリライトです↓
『パーマストン、変幻自在の英国外交』
※奴隷貿易に最初に尽力した
ウィルバーフォースについてはこちら↓
『もう一人のニュートン ~心を震わせる生涯~』
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