劇画オバQ、成長と決別
藤子・F・不二雄さんのSF短編
『劇画オバQ』をご存知だろうか?
(異色短編集『ミノタウルスの皿』
などに収録されています)↓
その名の通り、オバQ、つまり
『オバケのQ太郎』を
劇画調で描いた快作にして怪作である
(他人の二次創作ではなく、
ご本人自らが描いているのが凄い)。
ネタバレはできるだけ避けたいが、
すごく、切なくなる話だ。
主人公、正太郎は大人になっている。
「会社の歯車」として働いている中
オバケのQ太郎に久々に出会い…
という話である
(コメント欄のリンクからどうぞ)。
私はこの話を初めて読んだ時、
なぜかヘルマン・ヘッセの
『少年の日の思い出』という
短編を思い出した。
国語の教科書にも載っている
短編である。
これまたネタバレは避けるが、
要は少年の頃にしでかした
失敗と後悔を告白する話だ。
「そうか、そうか、
つまり君はそんなやつなんだな」
友人からの軽蔑のセリフが
残酷なくらい、心に響く。
…『劇画オバQ』は、
これとはテイストが若干異なる。
オバケのQ太郎は、
大人になった正太郎を軽蔑しない。
ただ、納得する。
「そうか、そうか、
…つまり君はもう大人になったんだな」
という感じで、Q太郎は去っていく。
映画『となりのトトロ』でも
あったように、オバケや妖怪は
子どもにしか見えないものだ。
オバケは、子どもとしか
一緒にはいられない、のである。
名作『ドラえもん』でもあったが、
子どもの日常生活に
異形の者が現れる話には、
その異形の者との「決別」がある。
成長と決別は、セットなのだ。
そう、ドラえもんが未来に帰る
ということで、のび太が
決死の覚悟でジャイアンに一人で
立ち向かうあの回
(その後、しれっとまたやってきますが)。
おとぎ話の『かぐや姫』でも、
姫が月に帰っていったように、
「まれ人」(現実にはいない人)は
いつかは去っていく。
それが、いわゆる「最終回」となる。
『劇画オバQ』は、
そんな最終回を作者自らが
「デフォルメ」と「劇画」の
間の表現を行き来して
描いた作品であると言えるだろう。
…私たちは、過去からの連続で、
いまこの現在を生きている。
やらかしてきた過去。
しでかしてきた失敗。
そんなものの、延長上にいる。
『少年の日の思い出』で
主人公が取り返しのつかない
失敗を告白して振り返ったように、
『劇画オバQ』で
決して取り戻せない少年の日の
夢を一時だけ思い出したように、
過去というものは
デフォルメされ、
色々なものをそぎ落とした上で
私たちの心の深い所に刺さっている。
それをいかに、
現在に生かすべきか?
未来へとつなげるべきか?
あるいは、死蔵するのか?
「夏」という季節は、
オバケがよく出る季節だ。
過去の亡霊が、ふとしたことで
心に兆す季節。
心の中のデフォルメされた
記憶と感情が蘇ることも、ある。
その時には、できれば、
過去に耽溺し過ぎることなく
現在と未来へと
昇華させていきたいものである。
たとえ、オバQと、
少年の日と決別したとしても…。
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