本当に『関ケ原』は天下分け目だったのか?
徳川家康が天下を取った「関ケ原の戦い」!
1600年!
…というのが、一般的な認識。
ですが、この「関ケ原の戦い」は、
本当に、天下分け目の戦いだったのか?
後付けで歴史を見れば、そうでしょう。
しかし「その当時の人々の視点」から言えば、
この戦いに勝ったその当時だけで、
即、徳川家康が天下人!とは言い切れなかった。
まだ、紛れがあった。
本記事では、そのあたりを書いてみます。
いかにも「天下分け目の戦い」です。
ただ、一つ誤解されがちなこととして、
◆西軍の総大将は石田三成では「ない」
という問題があります。
三成は、西軍の首脳陣の一人。しかし、
総大将では、ない。
西軍の総大将はまだ生き残っています。
当時、大坂城にいました。
「毛利輝元」です。
総大将がまだ残っている以上、
東西の決着はついていないはずでは?
つまり「関ケ原の戦いには負けたものの、
西軍全部が負けた」とは言えないのでは?
ましてや天下の名城、大坂城です。
「豊臣秀頼」や「淀君」もいます。
無傷の二万もの兵も残っています。
ここに籠城し、徳川家康たちを迎え撃てば、
まだどう転ぶかはわからない。
そう、関ケ原の戦い「だけ」で、
決着はつかなかったはずなんです。
…ところがですね、この輝元。
残念なことに、戦わずして
大坂城を退去し、自国に帰ってしまう。
その意味では西軍全体の「敗戦」には、
「総大将」である輝元にも、
大きな責任があるようにも思えます。
そもそも、大坂城があるのですから、
石田三成も無理して
関ケ原でガチで戦わなくても良かった。
自分の持ち城「佐和山城」も近くにあった。
のらりくらりと東軍を大坂城に引き寄せて、
補給が伸び切ったところで包囲する策もできた。
いくらでも挽回の機会はあった。
それがですね、憎き家康を戦場で前にして、
カーッと熱くなり、千載一遇のチャンス、
「ここが勝負だ!」と見誤ってしまい、
戦力をガツンと投入、
大半がやられるまで戦ってしまった…。
三成自身も逃亡し、捕縛され、斬首された。
引き際を知らない、大局的に戦えない。
そこは「武将」ではなく「有能な官僚」、
石田三成の限界だったのかもしれません。
他の地方にも、目を向けましょう。
東北~関東地方には、上杉景勝軍がいます。
伊達軍が引き留めてはいますが、
かなり強い軍団です。
信州には「策謀の天才」とも言うべき
真田昌幸・真田信繁(後の幸村)が
徳川秀忠軍を引きつけていました。
北陸のほうにも、
西軍は大きな戦力を回しています。
そして九州にも名将がいる。
豊臣秀吉の元軍師、黒田官兵衛(如水)!
当時、熊本で謹慎していた加藤清正!
この二人と「反徳川」の名のもとに
連携をとることも不可能ではなかった。
勝負所は、関ケ原だけではない。
広い視野で見れば、ただ一回の敗戦。
上杉景勝も、真田昌幸も、黒田官兵衛も、
「ちょ、待てよ。
俺たちの戦いはこれからだろ!」と
思っていたに違いありません。
囲碁と同じで、局地戦で負けても、
全体で最終的に勝てば良かった。
それなのに、ああ、それなのに。
石田三成逃亡・斬首…。
毛利輝元退去・恭順…。
西軍が本気を出し切る前に大勢が決まった。
しかしこれは、西軍の不手際、というより
そうなるように事態を進めていった
家康の謀略の勝利、とも言えるでしょう。
家康は、西軍がその力を
「分散」させていることを知り抜いていた。
だからこそ「関ケ原の戦い」の構図を
わざわざ「作り上げた」のではないか?
その三成たちの予想を逆手にとって、
家康は岐阜のあたりに着陣すると、
まっすぐに「大坂城」に向かうと
見せかけたんです。
驚いた三成たちは、不十分な備えで
関ケ原で「迎え撃つ」ことを決定しました。
また、よく言われるように、戦前に
調略の手紙をガンガン送って、
西軍の内部分裂を促したのも、家康です。
その結果、毛利軍は日和見を決め込み、
小早川軍たちは東軍に寝返ります。
豊臣家恩顧の武将、福島正則たちは、
三成憎しの感情から、
こともあろうに東軍の先鋒を務めています。
関東の上杉も、信州の真田も、
九州の黒田や加藤も、当然、毛利も
決して三成の下風に立とうとは思っていない…。
そうなんですよ、三成としては、
頭ではわかっていたとしても、
大坂城や九州で決戦する勇気までは
出なかったんだろう、と思います。
裏切者が出る危険性を考えると、
関ケ原で止めるしかないと「思い込んだ」…。
裏切者が続出するとまでは予想できないまま。
ましてや三成、この時は、
焦りに腹痛に下痢に睡眠不足で、
コンディションが最悪だったそうです。
人間、どんな切れ者であっても、焦った中、
しかも体調が悪いと、判断力がにぶります。
そんな中で彼は、西軍全体にとって、
最悪の選択をしてしまった。
(一方の家康、年齢こそかなり上ですが、
体調万全で戦いに臨んだと言われています)
…もしかしたら家康は、
そこまで見越していたのかもしれない。
そう、関ケ原の戦いを
天下分け目の決戦に「作り上げた」のは、
家康その人、だったのでは。
三成を動揺させ、考える暇を与えなかった。
例えば「将棋」の勝負でも、
残り時間が少なくなると、
「え、なんでそこ打つの?」と思われる
悪手を打ってしまいがちですよね。
それと同じ。
それを見越した家康は、
わざと考える隙を与えずに
大坂城へと向かうように見せかけた。
三成たちは、それに誘い出された…。
まさに百戦錬磨、敵の心理を読み切った行動!
改めて最後に、まとめましょう。
「関ケ原」は「天下分け目」と言われますが、
冷静に考えると、選択肢は豊富にあった。
しかし三成視点から見れば、
「関ケ原で決戦」せざるを得なかった。
焦り、内部分裂、裏切り…。
「勝ちに不思議の勝ちあり、
負けに不思議の負けなし」と言いますが、
「東軍の自分たちが勝つ」というより
「西軍が負ける要素」を増やした家康こそが
一枚上手だった、と思います。
さて、読者の皆様は、いかがでしょう?
「天下分け目」と思っている勝負。
実は、他にも選択肢はありませんか?
冷静に、客観的に見てみると、
そこが勝負どころではないのでは?
体調万全の中で、決断していますか?
「敵」に誘導されてはいませんか?
そういうことを考えさせてくれる
関ケ原の戦いは、歴史の教訓に
今でも満ちております。