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よしみつ、ではなく「よしあき」
最上義光と書いて「もがみよしあき」です。
戦国時代の東北地方で活躍した武将。

「…大河ドラマ『独眼竜政宗』にも
出ていましたよね!
原田芳雄さんが演じていた。
政宗の命を狙った謀略家…?
もがみ、だから『五月雨を集めて早し』の
『最上川』の近くにいたとか…?」

うん、全国的な知名度を誇る
「伊達政宗」に比べますと、
マイナーで地方限定的な武将ですね。
『独眼竜政宗』では
かなりの悪役として描かれていました。

…しかし、この最上義光、
実は凄い武将なのです。

彼が家を継いだ時、最上氏は
現在の山形市のあたりを
支配しているに過ぎなかった小大名でした。
伊達家からの介入もたびたび受けていた。
その家をたった一代で
「57万石」の大大名にまでのし上げる!


本記事では、マイナーだけど実は凄い
最上義光について書いてみたいと思います。

1546年、義光は最上家の当主、
最上義守の長男として生まれました。
幼名、白寿丸。

後に天下人となる徳川家康は
1543年に生まれているため、ほぼ同世代。
(ちなみに家康の没年は1616年、
義光の没年は1614年で、これもほぼ同じ)

1560年に元服。
時の将軍であった足利義輝から
一文字を賜り、最上義光と名乗ります。
1564年には、義光の妹の義姫が
伊達家の当主となる伊達輝宗に嫁いでいる。

その子どもが、有名な伊達政宗です。
つまり最上義光は、伊達政宗の伯父さん!

…その一方で、義光は実の家族と
骨肉の争いを行うことになりました。
父親である最上義守と親子喧嘩。
時は戦国です。これが
命を懸けた争いに発展していきます。

伊達輝宗は自分の妻の父、
つまり義父にあたる
最上義守の味方につきました。
伊達家を後ろ盾につけた義守が優勢。

義光、大ピンチ!

…しかしピンチはチャンスでもある。
義光はこちらと敵対、あちらと同盟など、
巧みに泳ぎ、この情勢を乗り切った。
父親側との和議に成功。
これを機に伊達家の介入を退け、
最上家は完全な独立を果たすのです。

(実は伊達家から独立するために
父と狂言で争っていた説もあります)

「最上家を大きくするぞ!」

領土拡大の野望に燃える義光。しかし、
家中の争いの余波もあり、周りは敵だらけ。

将棋の駒づくりで有名な「天童市」。
このあたりを中心とする
「最上八楯(もがみやつだて)」という
国人連合が、彼の前に立ちはだかります。

1577年、義光は天童氏を攻める。

しかし最上八楯が天童氏についたため
手痛い敗北を喫します。
彼は最上八楯から
側室を迎えることで和議に応じました。
戦う一方だけでなく、きちんと
仲直りもできる
ところが彼の持ち味です。

…しかし、その五年後。1582年。
この天童氏から迎えた側室が死去。
和議は白紙に戻ってしまう。

「こりゃまずい。代わりに
相手の実力者をこちらに引き込もう!」

何と義光、最上八楯の実力者である
延沢満延(のべさわみつのぶ)という武将と
自分の娘の松尾姫とを結婚させ、
仲間に引き込むんです。
力攻めだけではなく、寝技もできる義光。

そんなこんなで敵対勢力だった
最上八楯の力を削ぎ、攻略していく…。

天童城の北西にある谷地城にいた
白鳥長久(しらとりながひさ)という
智勇兼ねそろえた名将も、
本拠地、山形城におびき寄せて始末する。
力攻めだけではなく、謀略もできる義光…。

このようにいかにも戦国大名的な動きで、
山形城、天童城、谷地城など
周辺地域を占領していきます。
1584年、ついに最上郡を統一!

…ただ、ですね。

最上義光が今の山形市や天童市の周辺で
奮戦している間に、
中央では1582年の「本能寺の変」後に
好機をつかんだ豊臣秀吉が
政権を握っていきます。

義光はこの頃、日本海への港を握る
「庄内地方」を狙っていた。
しかし、越後から有名な上杉家が
進出してきて、庄内地方を巡って争う。

秀吉は、上杉家を有力な同志として
扱っていました。
ゆえに、天下人となった
彼の裁定により、庄内地方は
上杉家のものになってしまう
のです。

1590年。
秀吉は後北条氏を倒して天下統一!

義光は小田原城攻めに参陣、
秀吉から本領を認められます。
…実を言うと、伊達政宗よりも
遅刻して参陣していたのですが、
義光は徳川家康を通して
事前に交渉していたために
おとがめなしになったのです。
抜かりがない男、義光。

…さて、豊臣家の天下でどう動くべきか?

秀吉は強い。英雄だ。
しかしさすがに歳を取っている。
おそらく先は長くはない。
秀吉の後継者は、誰か?

当時、有力な後継者候補がいました。
「豊臣秀次」です。

実は、秀次は山形城を訪れた時に、
最上義光の三女、駒姫の美貌にほれ込み、
側室に出すよう迫っていた、
と言われています。

義光、悩む。

秀次は本当に後継者になるのか?
その器なのか?
信じきれない義光。
秀次の要求を断っていました。しかし、
ついに断り切れず、側室として差し出す。

…結果的にこの選択が、
悲劇の元となってしまいます。


1595年、豊臣秀次が謀反の罪で
高野山に軟禁、切腹に追い込まれたのです。
側室に差し出した駒姫は、
15歳にして連座して処刑されます。
ふつう、女性は刑を免除されるのに…。

義光、慨嘆。
俺が娘を差し出していなければ!
彼の妻はショックのあまり、
駒姫の後を追うように死去してしまいます。
娘と妻を失ったこの事件で、
彼は密かに豊臣家への復讐を
誓ったのではないでしょうか?

1600年。関ヶ原の戦いの年。

彼は徳川家康と密かに通じ、
甥の伊達政宗たちとともに
上杉軍を足止めする役割を負いました。

『慶長出羽合戦』の開幕です。
これは同年に行われた合戦にからめて
「北の関ヶ原」とも言われる。

義光はこの戦いに見事に勝利!
三万人に近い大軍、上杉軍を相手に、
一万人に満たない兵力で勝つ。

そのうち、関ヶ原で東軍が勝利した、
という知らせが届きます。
家康は義光の善戦を賞賛。
上杉家が持っていた庄内地方を
最上家の領地として認めました。


57万石の大大名、出羽山形藩の誕生!

最上義光の野望は
ここに達成されたのです。

最後にまとめます。

本記事では幾多の苦難を乗り越えた
最上義光の事績を追いました。
父との戦い、最上八楯との抗争、
伊達家や上杉家との争い、娘の悲劇、
豊臣家への復讐…。

…ただ、江戸時代の初期に、
彼が築き上げた大領土は
雲散霧消してしまいます。


1614年に義光が死去した後、
1622年に「最上騒動」という
お家騒動が原因で
改易させられてしまったのです。

出羽山形藩には多くの大名が入り分裂。
庄内地方には江戸幕府の重鎮
酒井氏が入り、庄内藩として
山形藩とは別の歴史をたどることになります。

…現在の「山形県」ができて
再び一緒の歴史を歩むのは、実に
1876年(明治9年)からのことなのでした。

※最上義光の事績はこちらもぜひ↓

※最上義光は2024年10月9日に放映の
NHKの『歴史探偵』でも取り上げられました↓

※NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』は、
伊達政宗を主人公補正で英雄に描く一方、
最上義光と義姫を悪役に仕立て上げて
不当におとしめた、という評価もあります↓

※江戸時代の庄内藩についてはこちらも↓
『庄内と徂徠学、致道館とソライ』

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