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『ひたち』と聞いて、何を思い浮かべますか?

「世界的な電機製品メーカー、日立製作所!」
「この木なんの木気になる木、のHITACHI」
「…いや、茨城県の日立市、でしょ?」
「常陸牛の『常陸』もひたちですよね…」
「特急にも『ひたち』ってあったような」

色々な答えが返ってくるかもしれません。
とらえどころのない言葉です。
本記事では色々な「ひたち」について
書いてみよう、と思います。

まず、地名から行きましょう。

奈良時代の日本で『風土記』がつくられる。
全国各地のことを書いた本です。
この時に、今のほぼ茨城県あたりのことが
『常陸国風土記』に書かれた。
「ひたち」のくにふどき!

奈良時代は「律令制度」です。

「律」は刑法、「令」は行政法など。
地方行政区分は「令」に基づく。
それで決められた国の一つが
「常陸」ひたち、なのです。

「…でもなぜ『常陸』という漢字?
通常なら『つねりく』や『じょうりく』。
とても『ひたち』とは読めませんが…」

私も、そう思いました。
「常陸」で「ひたち」と読ませるのは
無理があるのでは?と…。
常=ひた、陸=ち、とはいったい?

この「ひたち」の由来から考えましょう。

◆東北地方へまっすぐずっと道が続く
「直道(ひたみち)」がひたちに転じた
◆東北の異称「日高見」につながる道、
日高路=「ひだかじ」がひたちに転じた
◆東征したヤマトタケルが井戸を掘り、
袖が濡れて「浸し」たから、ひたし=ひたち
◆境界が隔てられていない、直接の道。
直通だから、ひたみち、ひたちになった

…いずれも東征や道が絡んでいる。

「道」は「陸」にあります。
みち=道=陸=ち?になった?
ずっと続く「常」に「陸」のひたち…。
そんなイメージ。

(ちなみに東北は「陸」の「奥」です。
みちのおく、みちのく、陸奥ですね!)

「…太陽が東の太平洋から上がって、
日が立つから『日立』なのでは?」

いえ、実は「ひたち」=「日立」の
漢字が当てられたのは
「常陸」よりもずっと後の時代。
江戸時代になります。

常陸国の都市、水戸。
水戸藩を治めていたのは徳川家。

特に有名な藩主は第二代の
徳川光圀こと「水戸黄門様」です。
彼が今の日立市の「神峰神社」という
ところに登った時に、

「ここから見える朝日は領内で一番だ!」

と激賞したという。つまり、昔からの
「ひたち=常陸」とは無関係に
「ひたち=日立」という地名が爆誕…。

◆常陸(ひたち)=ほぼ茨城県の全域
◆日立(ひたち)=今の日立市の由来

そもそも日立市は、
茨城県の中でも東北部、
県庁所在地の水戸市よりさらに北にある
海沿いの場所です。常陸国の端のほう。
「ザ・常陸」とはとても言えない。

…しかしこの「日立」が、
明治時代以降に
全国区レベルの知名度を得ていくのです。

順を追って書きましょう。

水戸黄門様が神峰神社のあたりの地名を
「日立」と名付けたものの、
当初は今の日立市全体を指す名前ではない。
たくさん村が分立していた。

宮田村と滑川村という村がある。

1889年、ここが合併する際、
「宮川村」にする妥協案も浮かびましたが
なかなか村名が決まらない…。
そこで、このあたりの有力者であった
佐藤敬忠という人が仲裁する。

「いっそ、違う名前はどう?
その昔、光圀公が『日立』と名付けた。
そんな言い伝えもあるから、日立村は?」

こうして「日立村」が誕生したのです。

…この日立村にあったのが「赤沢鉱山」
古くは江戸時代から開発されていましたが、
明治初期には停滞していた。
当時の持ち主は売却したい、と思っていた。

そこに目をつけたのが「久原房之助」です。

この人、1869年、山口県の生まれ。
萩の商家出身で、事業家となっていた。
1905年、日立村の赤沢鉱山を購入。
村の名前から「日立鉱山」と改称しました。
この鉱山が大当たり!
わずか数年で日本有数の銅山に変貌する…!

久原房之助は「久原鉱業所」から
「久原鉱業株式会社」へと組織を拡大します。
日本各地の鉱山のみならず、
中国、東南アジアなどへも進出する。

「久原財閥」ができていくんです。

そんなやり手の房之助が集めた人材の中に
「小平浪平」という人がいました。
なみへいさんです。
1874年、栃木県の生まれ。
1906年に久原鉱業所に
「工作課長」として勤め出します。

まだ蒸気機関が主力だった
当時の日本にあり、
日立鉱山では当時の最新技術である
「電化」が進んでいきました。
浪平が水力発電所を設置していった。

1910年、浪平は自ら設計した
国産初の「電動機」を製作。
電機製品の製作事業を始める決心を固めます。
浪平は房之助に頼んで新工場を建設!

…「日立製作所」の設立です。
鉱山から電気製品の会社が生まれた。


1914年には、日立鉱山から
排出される煙害を防ぐため
「大煙突」もできる。
何とその高さ、約155メートル!
当時、世界で最も高い煙突でした。
(注:現在は倒壊して三分の一だけ残り、
約54メートルになっています)

日立製作所は仕事が増え、社員が増える。

ゆえに日立村はどんどん人口が増える…。
1924年には「日立町」に昇格。
1939年には「助川町」と合併。
全国的に知名度が高かった
日立製作所・日立鉱山の名前から
「日立市」が誕生するのです。

『日立製作所』(にっせい)と
日立鉱山の『大煙突』が
日立市の象徴となった。
1968年、小説家の新田次郎は
『ある町の高い煙突』と題して
この大煙突をテーマに小説を書きます。

1985年、日立市の人口は約22万人になる。
1950年代~80年代は、
茨城県の中でも県内トップの人口!

日立市は、まさに繁栄を極めたのです。

…しかし。

少子高齢化が進んでいきます。
1981年には日立銅山が閉山。
日立製作所は海外事業やIT部門を強化。
徐々に街から事業所が減っていきました。

当然、人口も減っていく…。

◆1985年:約22万人
◆2000年:約20.5万人
◆2015年:約18.5万人
◆2024年:約17万人

約40年前のピークから、
約5万人も人口が減ってしまっているのです。

水戸市・つくば市に追い抜かれ、
県内3位の人口に…。
「2050年頃、日立市の人口は約10万人になる」
そんな衝撃的な試算もあります。

最後にまとめましょう。

本記事では「ひたち」について
書いてみました。

現在、日立市では
『日立市共創プロジェクト』
進められています。
日立製作所と日立市がコラボ。
「まちの持続的な成長」を考える…。
日立製作所ではこのプロジェクトを
第二の創業となるような事業にしたい』
と考えているとのことです。

まさに「ひたちの七変化」!

街も会社も時代も、日々移ろいゆきます。
変わらないのは「常に道、常に陸」
「東の太平洋から日が昇る」という
常陸国の地理的条件だけ。

「常陸牛」のように美味しい。
「特急ひたち」のように駆け抜ける。

さらに素晴らしい「ひたち」への道
生まれていくことを期待しております!

※『茨城・日立市
人口減に悩むものづくりのまちが
持続可能なまちづくりへ
日立製作所は“第二の創業”目指す』↓

※日立製作所のピンチを救った
川村隆さんの記事はこちら↓
『日立のラストマン』

合わせてぜひどうぞ!

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