日本史で言えば関ヶ原 ~インドのパーニーパット~
「天下分け目の合戦」の場所!
…と言えば、関ヶ原(せきがはら)が
思い浮かぶのではないでしょうか?
岐阜県。昔の国名で言えば美濃(みの)。
東日本と西日本の境。
ここで1600年に「関ヶ原の戦い」が
行われたのは有名な話。
ただ、1600年だけではない。
672年の古代日本、
「壬申の乱(じんしんのらん)」では、
大海人皇子が関ヶ原の「不破道」を閉塞します。
これにより敵である大友皇子は
東日本での徴兵ができなくなり、不利になる。
大海人皇子は「ワザミガハラ」に
本陣を構えました。
ここが後の関ヶ原だ、とも言われています。
この作戦が効き、大海人皇子は大友皇子に勝利!
勝った大海人皇子は「天武天皇」になりました。
関ヶ原は孫子の兵法に言う「衢地(くち)」。
交通の要衝です。
国と国とが隣接している重要な地点…。
こういう場所では繰り返し合戦が起こりやすい。
…では、インドの歴史と地理において
関ヶ原っぽい「衢地(くち)」、
重要な場所はあるのか?
それが、あるんですよ。
『パーニーパット』という場所です。
北インドのデリーから北へ約90キロメートル。
この場所では、北インドの歴史を分ける
天下分け目の戦いが「三回も」起こった…!
本記事では三回のパーニーパットの戦い、
天下分け目の戦いについて、紹介します。
◆第一次パーニーパットの戦い(1526年)
ムガル帝国の創始者「バーブル」と、
ローディー朝の「ローディー」との戦いです。
兵力は圧倒的にローディーが多い。
何と約十万もの大軍勢!
これに対してバーブル軍、約一万。
十分の一くらいです。
しかし、少数精兵、とも言います。
バーブルは火器をうまく使います。
日本史で言えば、織田信長。
巧みに塹壕で自軍を隠し、
自分たちの数がばれないようにした。
荷車を並べて作った「防壁」をつくって、
鉄砲や大砲を撃てるようにしておく。
対するローディー軍は、
この鉄壁の防御を攻めあぐねる。膠着状態。
その間に密かに裏を回ったバーブル軍は
側面と背後から奇襲をしかけ、
ここぞとばかりに前面から射撃!
ローディー軍壊滅。ローディー朝滅亡。
バーブルはムガル帝国の基礎を
固めることができたのです。
日本史で言えば織田信長の
「桶狭間の合戦」と「長篠の合戦」を
足して割ったような戦いでした。
◆第二次パーニーパットの戦い(1556年)
その三十年後の話。
二回目の戦いの登場人物は、
ムガル帝国の第三代皇帝「アクバル」。
そのライバルは、名将「ヘームー」という男!
ヘームーはスール朝という王朝の
有力な武将で、野心ギラギラ、
自らの新王朝樹立を狙っておりました。
1556年、ムガル帝国の第二代皇帝フマユーンが
事故死すると「すわ、好機!」とばかりに
この名将がデリーへと襲い掛かる!
デリー陥落。総勢十万を超す大軍勢!
それに対するのは、帝位を継いだばかりのアクバル。
当時、わずか十三歳。今で言えば中一。
彼の摂政として補佐するのは、
こちらも名将「バイラム・ハーン」です。
1501年頃生まれ、当時は五十歳くらい。
第一次のパーニーパットの戦いも知っている
三代の皇帝に仕えた古強者です。
どうするアクバル、どうするバイラム!
他の家臣たちは「西のアフガニスタンに
いったん逃げて再起を図りましょう」と言う。
ところがこのアクバルとバイラムの
二人だけが「決戦するぞ!」と言うんです。
抵抗もせずにデリーを陥落させてしまった
将軍を見せしめに処刑して、士気を高める。
(ちょっと三国志の
「赤壁の戦い」の前の孫権に似ていますね)
◇約十万:スール朝のヘームー
◇約二万:ムガル帝国のアクバルとバイラム
兵力差、五倍。
しかも第一次の戦いのような奇策は
二回は使えない(多分ばれるから)。
じわじわとヘームーは進撃していき、
ムガル帝国の軍勢は崩壊寸前になります。
…しかし、何とこの時。
戦場の上空を、一本の流れ矢がひゅっと走った。
その矢はヘームーの片目に突き刺さり、
彼は意識を失いました。
(いわゆるヘッドショットですね)
総司令官、名将を失った軍勢は脆い。
ヘームー軍は総崩れとなり、
ムガル帝国軍は起死回生の勝利を得るのです。
ただ、この戦いで名声を得たバイラムは、
アクバルから疎まれ、後に反乱を起こし、
許されてメッカに行く途中で死にます。
「狡兎死して走狗烹らる」ということわざを
体現したような人です。
◆第三次パーニーパットの戦い(1761年)
さて、こうして土台を固めた
ムガル帝国でしたが、時代が下ると
その治世が揺らいでいきます。
第六代皇帝のアウラングゼーブが
やりたい放題、合戦や粛清を乱発したせいか、
彼の死後、反乱が続発してしまう…。
各地に独自政権が生まれ、分裂していく。
そこを狙ったのが、イギリスです。
いわゆる「大英帝国」。
1757年「プラッシーの戦い」において
ベンガル太守(長官)を破ったイギリスは、
虎視眈々とインドの植民地化を狙います。
インド側も分裂せずに
一致団結して戦えれば良かったのですが、
さすがにインドは広く混沌としている。
民族も宗教も入り混じり一枚岩とはいかない…。
しかしこの時、デカン高原を中心に
「マラーター同盟」という
新たな枠組みが生まれつつありました。
同年1757年には、パンジャーブ一帯
(インド北西部からパキスタン)も支配。
ムガル帝国に代わってインドを統一!
…するかに思われた。
しかし、ここに強敵が現れる。
西方アフガニスタンの
「アフマド・シャー・ドゥッラーニー」。
マラーター同盟側は
「サダーシヴ・ラーオ・バーウ」という男を
総大将にいただいて戦うことにしました。
決戦の地は、パーニーパット!
◇約十万:アフガニスタンのドゥッラーニー
◇約三十七万(ただし全員は戦わない)
:マラーター同盟のラーオ
ラーオは、諸将からゲリラ作戦で戦おうと
提案されましたが、拒否。
正々堂々と正面攻撃で戦った。
…しかし、その結果。
ラーオは頭を撃たれて戦死。
マラーター軍の将軍のほとんどが戦死…!
マラーター同盟は壊滅的な打撃を受け、
勢力を弱めてしまいます。
「漁夫の利」を得たのがイギリスです。
この後、マイソール、マラーター、シクなど
各地の諸勢力を次々に破る。
1857年の「インド大反乱」も鎮圧。
1877年にはヴィクトリア女王を皇帝にした
「インド帝国」を成立させるのです。
最後にまとめましょう。
本記事では、インドの関ヶ原とも言うべき
三つの「パーニーパットの戦い」を紹介しました。
もしバーブルが敗れていたら…。
もしヘームーに流れ矢が当たらなかったら…。
もしラーオが正面攻撃をしていなかったら…。
その後のインドの歴史は大きく
変わっていた、かもしれませんね。
※インドのムガル帝国の歴史と
日本の江戸幕府の歴史とを
比較して考察してみた記事はこちら↓
※ムガル帝国第二代皇帝
フマユーンは、世界遺産フマユーン廟の
主でもあります(できたのはアクバルの頃)↓
※すごく勢いのあるインド映画についてはこちら↓
『ラーム・チャランさんと「進撃のインド人」』
※関ヶ原については
『関ケ原町歴史民俗学習館』の
ホームページを↓
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