ローマ帝国には「五賢帝」がいたと言われます。
これを呪文のように唱えて
丸覚えした方もいるのではないでしょうか。
ただ、用語の記憶「だけ」を
いくら増やしていっても、
『実用できる地歴』にはならないもの。
本記事では「五賢帝」を紹介します。
この五人、自分の子どもを後継者にはせず、
「素晴らしい実力ある人を血縁によらず
後継者として選び出した」とよく言われますが
その実情や、いかに…?
①ネルウァ(在位96~98)
第12代のローマ皇帝です。
68年に「暴君」ネロが自殺し、
帝国内で内乱が始まる。
ウェスパシアヌスという人が
皇帝になると、内乱は収まります。
ネルウァは、この人の個人的な友人。
一番に「執政官」に任命されたのでした。
96年に「暴君」ドミティアヌスという皇帝が
暗殺され、帝国内の元老院は
ネルウァを皇帝に推薦。
即位時、65歳。
「元老院に選ばれた皇帝」
そんな彼は、ばらまき政策の
恩給や福祉政策を実施しますが、
当然、財政は苦しくなります。
次第に「ことなかれ」主義となり、
「聞く力はあるが決断しない」治世に…。
ついに97年、暗殺未遂事件が勃発します。
後継者、どうしよう?
彼は自分の子どもに恵まれませんでした。
マテルヌスを後継者に指名しようとしますが、
ネルウァに反対する近衛隊が
トラヤヌスを後継者候補として擁立。
近衛隊長は宮殿を包囲し、
何とネルウァは軟禁状態に。
トラヤヌスを皇帝にしないと、殺される!
彼は彼を後継に指名し、退位しました。
②トラヤヌス(在位98~117)
第13代のローマ皇帝です。
彼は何をしたのか? 領土の拡大ですね。
ダキア(ほぼ現在のルーマニア)
を攻め取り、帝国の属州にします。
ルーマニア、ルーマ、ローマですから。
のみならず、彼は進撃を続け、
古代イランの「パルティア」と戦い、
東方の領土を獲得しています。
とにかく強い。彼の時代、
ローマ帝国は最大版図に。
「進撃の皇帝」です。
かつ、内政にも手腕を発揮し、
3か月間の剣闘技大会を開催して
市民たちを熱狂させたり
(一万人以上の奴隷が殺されたそうですが)
孤児たちを救済すべく
孤児院建設など福祉政策を実施したり…。
彼に実子はなく、パルティア遠征軍総司令官、
ハドリアヌスが後継者に指名されます。
ただしこの指名も、皇后であるポンペイアが
「でっち上げた」とも言われています。
③ハドリアヌス(在位117~138)
第14代のローマ皇帝です。
トラヤヌスが「進撃」なら
ハドリアヌスは「安定」。
広げ過ぎた版図をわざと一部放棄し、
国防力を高める。
取捨選択、絞りと集中。
その象徴が、今のイギリスに作られた
「ハドリアヌスの長城」です。
10年もの歳月をかけて、防御の壁を作った。
(ウォール・マリアではありませんが…)
内政重視の彼の治世によって、
ローマは平和を存分に享受したのです。
彼は美青年の愛人アンティノウスを愛し、
彼が事故死した後には、
都市アンティノオポリスまで作りました。
実子がいないため、
アントニヌスを後継者に指名。
ちなみにハドリアヌスは
「テルマエ」(風呂)好きでも有名です。
(映画『テルマエ・ロマエ』では
市村正親さんがハドリアヌスを熱演)↓
④アントニヌス・ピウス(在位138~161)
第15代のローマ皇帝です。
ピウス、は「慈悲深い」という意味で、
名前というより、呼び名。
彼は即位後すぐに、ハドリアヌスを
神に祭るよう元老院を説得します。
主君に対する「ピエタス(献身)」が凄い!
ということで元老院から
「アントニヌス・ピウス」の称号をもらう。
『容疑者Xの献身』ならぬ
「皇帝アントニヌスの献身」ですね。
そんな彼はハドリアヌス路線を継承。
鉄壁の守り!
イタリアのサッカーチームが
「カテナチオ」という堅守速攻作戦を
取ったりしますが、そんなイメージ。
彼の治世は23年にもわたる長期政権です。
「ローマ法」の改革など
地味で着実な成果が上がります。
後継者には、自分の甥アウレリウスと、
ハドリアヌスの重臣の子ルキウスの
「二人」を「共同皇帝」として選ぶ。
…実は即位時から、
先代ハドリアヌスから即位する条件として
「二人を養子にするように」と
言われていたのでした。
⑤マルクス・アウレリウス・アントニウス
(在位161~180)
第16代のローマ皇帝です。
…第16代皇帝は、当初、二人いた。
「六賢帝」と言った方が、実は正確。
ルキウス。彼と一緒に二人で「共同皇帝」。
その治世が、10年弱ほど続きます。
ルキウスは後に「食中毒」で死にます。
「アウレリウスが、邪魔になったルキウスを
殺したんじゃないか?」と疑われる。
ルキウス毒殺説が根強く唱えられています。
そういう暗闇の部分はあるにせよ、
彼は動かない先代とは異なり、
攻めるところは攻め、
治めるところは治める皇帝でした。
哲学にも詳しく
彼の『自省録』という著書は
今日まで伝わっています。
哲学者プラトンが説く、
「哲人君主」の実例のような人。
…以上、五賢帝について
ごく一部分を、紹介してみました。
最後にまとめます。
そもそも「五賢帝」と言い出したのは、
後世の歴史家や政治家たち。
「オラ、五賢帝のネルウァ!よろしくな!」
と自称したわけでは、ない。
そう言い出したのは、
イタリア・ルネサンスのマキャヴェリ。
15~16世紀の人。
ルネサンスは中世を敵視して、
ギリシアやローマを賛美しがちですから。
さらに18世紀のイギリスの歴史家ギボンが
「人類で最も幸福であった時代」と
評価したことで広まったようです。
ただ業績を見ますと、
トラヤヌスが広げまくった版図を
ハドリアヌスからは「守り」に入っており、
最後には「ゲルマン人の侵入」も始まりました。
…そう、五賢帝はあくまで「後付け」。
取捨選択してトリミングして誇張して、
わかりやすくした「解釈」の一つに過ぎない。
ただローマ帝国の皇帝には
「暴君」「ワル」もけっこうおり、
そういう人たちに比べると
五代続けて「良い」君主が
続いたのも、事実と言えば事実です。
なお、五賢帝の次の皇帝コンモドゥスは、
アウレリウスの子どもですが、「暴君」。
自分を「ヘラクレスの化身」と称して
武芸の鍛錬に没頭…。
オオカミの毛皮を身にまとい、
闘技場で自ら戦いまくる。
『グラップラー刃牙』に
出てきそうな皇帝です。
最後には元老院ほぼ全員を処刑しようとして、
逆に暗殺されてしまいました↓
マキャヴェリたちが「五賢帝」と
「盛って」後世に伝え、
現代の日本の高校生たちが
「とりあえず名前だけでも」と
暗記する、という状況ではないでしょうか?
もちろん本記事も
取捨選択して「盛って」います。
さて、読者の皆様はいかがでしょう?
「真実」は、どうなのか?
この「五賢帝」たちに対して、
どんな印象を持ちましたか?