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財政難の水戸藩 ~松波勘十郎と藤田東湖~

御三家の一つ「水戸藩」は、常に財政難でした。

なぜかって?
水戸黄門、義公とも呼ばれる第二代藩主、
徳川光圀がビッグプロジェクトを始めたから。

『大日本史』の編纂事業です。

…本来、一藩が単独で行う事業ではない。
現在のようにネットもChatGPTもない。
全て人力で調べて書かなければいけない。

1657年に編纂事業が始まりました。
終わったのは?
1906年(明治39年)のことでした。
…江戸時代、終わっとるんやん!
そう、江戸幕府が滅んだ後、
第10代藩主の慶篤の孫にあたる
徳川圀順(くにゆき)が完成させたのです。

約250年もかけて完成させた歴史書!
全部で397巻。『こち亀』より多い。
当然ながら人件費もかかったでしょう。
名のある学者が呼ばれて、編纂に携わった。

このため、水戸藩の財政は、苦しい。

それでなくても、水戸藩は御三家の一つ。
「参勤交代」をせず「定府」を
義務付けられていた。

旅費がかからない反面、
水戸と江戸の両方で組織を整備しなくては
ならないので、支出は倍!
かつ、御三家として恥ずかしくないよう
格式も高くしなければならない…。

もう最初から藩として
やっていけないレベルの財政破綻の危機に
「常に」陥っていたんです。

本記事では、そんな無理ゲーな
水戸藩の財政回復に挑んだ、
二人の人物
を紹介します。

一人目は、松波勘十郎です。
まつなみかんじゅうろう。
生年不詳~1711年の人。江戸初期~中期。

この人は、水戸藩生まれではない。
岐阜県の美濃国、今の岐阜市の生まれ。
加納という宿場町の庄屋、
松波さんの養子になります。

…いわば、この人は
「雇われ財政コンサルタント」です。

美濃国、下総国、三河国、
高岡藩、大多喜藩、大和郡山藩、三次藩と
全国の地方や藩で「財政指南」をします。
コストカット、検地・年貢増徴(増税)、
専売化(許認可導入)、藩札(地方独自通貨)、
あらゆるテクニックを使いまくって
財政を復活させる名人!

この人に、藁にもすがる思いで
財政再建を託したのが、
水戸藩の徳川綱条(つなえだ)です。
第三代の藩主。
水戸黄門の光圀さんの甥っ子。

さあ、松波勘十郎、大ナタを振るいます。

経費削減、組織改編、リストラ!
低い身分の者を取り立て人件費を減らす。
規制緩和して、他藩の商人を呼び寄せる。

果てにはビッグプロジェクトを考案します。
水運の開拓です。
水戸の南の「涸沼」と「太平洋」、
また、霞ヶ浦の東隣にある「北浦」とを
運河を掘ってつなげて、交易を行う!
こうすれば東北~水戸~江戸が
つながり、交易でガッポガッポ。
通行税も取れて、一気に黒字だ!

ものすごい数の水戸藩の農民が、
この運河開削に駆り出されていきました。

…ところがですね、残念なことに
この地域の土質は「砂」だった。
掘っても掘っても、すぐ崩れる。
かつ、高さの差が30メートルもあった。
30メートルも下に掘らなければいけない。

工事にかかる費用は天井知らずでした。
掘っては崩れ、埋まり、また掘って…。
折悪く幕府が「藩札禁止令」を出し、
農民への給料支払いも滞っていきます。

はい、農民一揆が勃発。
1708~1709年の「水戸宝永一揆」!
松波勘十郎はクビ、後に牢に入れられ、
その中で獄死させられた、と言います。
財政再建のために行った事業が
さらなる財政負担を生み出してしまった…。

さて、時代は下り、
第九代藩主、徳川斉昭(なりあき)の頃。
斉昭は1800年に生まれ、1860年に死んだ。
人呼んで「烈公」です。

彼の腹心として活躍したのが、
藤田東湖(とうこ)でした。
1806年~1855年。幕末あたりの人。
烈公斉昭よりも、六歳の年下です。

彼の父親は藤田幽谷(ゆうこく)といい、
古着屋の商人の出でしたが、
学問が抜群にできた人でした。
水戸藩では学問ができる人は優遇される。
『大日本史』の編纂に携わり、武士になり、
1807年には編纂所のトップに上り詰めた人。

…いわば「成り上がり」。
東湖は、その成り上がり者の子なのです。

そもそも斉昭は藩主の「弟」、
三十歳まで部屋住みをしていた人。
本当なら藩主になれなかった。
それが兄が急死、東湖たちの熱烈な支持で
藩主になれた、という経緯がある。
1829年のことです。

斉昭サポーターの中心が、東湖!

彼は、斉昭の改革を支えます。
藩校「弘道館」、庭園「偕楽園」の設立。

検地を実施、藩士を派遣し農業をやらせる、
江戸定府制の廃止。
東湖は成り上がり者の子なので、
門閥・家柄を無視して
実力主義で人材登用します。
当然、門閥保守派からめっちゃ嫌われますが、
斉昭をバックに、全く意に介さない。

しかもバリバリの尊王攘夷の理論家。

軍事訓練を行い、武器を作る。
お寺の釣り鐘や仏像を没収して、
大砲の材料にするほど。

…ちょっとやり過ぎですね。

そのため、幕府に目を付けられます。
斉昭は幕府から強制的に隠居させられた。
1844年のことです。
腹心の東湖も蟄居、幽閉され、失脚…。

しかし東湖、ただでは転ばない。
この幽閉の中で、
『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など
たくさん本を書きます。学者ですから。

…これらが「幕末の志士」たちに
大きな影響を与えていった
、と言われます。
例えば、薩摩藩の西郷隆盛。
長州藩(脱藩)の吉田松陰。
水戸学や東湖の影響を受けた、と言われる。

1852年、ようやく蟄居が解かれます。
1853年、ペリーの黒船来航!
よし、いよいよ斉昭とタッグを組んで
難事に手腕を発揮…!

しようか、という時。
1855年、安政の大地震が起きる。

江戸の藩邸にいた東湖は、
必死で自分の母親を助け出します。
しかし母、火鉢の火が気になるからと
倒壊しつつある建物に戻った。
東湖、母親を助けに行く、そして。

母を助ける代わりに、自分自身は
建物の下敷き、圧死してしまうのです。

東湖を失った後の斉昭は精彩を欠き、
大老の井伊直弼との政争に敗れます。
1860年、直弼は「桜田門外の変」で死去。
同年、烈公斉昭も死去。

その後の水戸藩は内乱が続き、
「天狗党」も暴発して大混乱、
そのまま明治維新を迎えるのでした。
「最後の将軍」徳川慶喜は、斉昭の実子。

東湖が生きていれば…!

最後に、まとめます。

本記事では水戸藩の財政難と、それに挑んだ
松波勘十郎、藤田東湖の二人を紹介しました。

勘十郎の運河の後は、
「勘十郎堀」として史跡になっています。
東湖の想いは西郷や松陰に伝わり、
明治維新の原動力の一つになりました。

幕府を支える「天下の副将軍」水戸藩が、
「大日本史」のために財政難に陥り、
「水戸学」を生み、烈公や東湖を生み、
尊王攘夷を生み、志士に影響を及ぼし、
ひいては討幕、明治維新を生み出す、
という歴史の皮肉、紆余曲折…。

なかなか凄いものだ、と思うのです。
読者の皆様は、どう思われますか?

※なお、東湖の本名は「たけき」と言います。
水戸の隣の大洗町で「ふじたたけき展」開催。

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