「空気の研究」の研究①ー「空気リテラシー」について
初noteのこんどーです!
現在、早稲田大学教育学部の2.5年生(休学してます)で、某予備校でチューターをしたり、人材系の企業でインターンをしていたり、「寺子屋いえいり」に所属していたりします
さて、今回はそのオンラインサロン「寺子屋いえいり」の3月定例会で課題図書とされていた、「空気の研究」という本を読んで、自分が考えたことを書いていきます!(③くらいまで続くと思います!)
本題に入る前に「寺子屋いえいり」の話になってしまうのですが、とても良い空間でした。
三月の定例会が初参加、家入さんとも初対面だったのですが、会場中の熱気と家入さんの節々からにじみ出る優しさがすごい…!
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はじめに
さて、早速「空気の研究」の話をしていきたいのですが、この本めちゃめちゃ面白いです。
そもそも「空気」ってなんだ?
という話ですが、この本で扱われる「空気」とは、窒素やら酸素やらの空気ではなく、「空気読めない」などの意味合いで使われる「空気」です。
大畠清教授が、ある宗教学専門雑誌に、面白い随想を書いておられる。イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。…ユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。
本書ではこのように説明されています。
確かに日本人は「空気」に敏感で、かつ、弱い。
「空気読めない」という言葉からもそれは分かりますし、3.11の際の放射能も実態に目を向けず「放射能は危ない」という空気感に世間が踊らされました。
学校現場でよくある「いじめ」も同じです。傍観者がだめという風潮はありますが、実際現場に立ってみると傍観者は口を出せない空気感があります。
講演会などが終わった後の質疑応答で質問が出ず、シーンとするのも空気感。
最近で言うと、元号の変化も「空気」の一部でしょう。
「平成」が終わりに近づけば近づくほど「平成を繰り返さない」という言説が出てきたり、「令和」という新元号が発表されたことで「新時代への希望感」のようなものが国中、特にTwitterなどのSNSで見受けられます。
名前が「平成」から「令和」に変わるだけで。
(これは良い悪いの話ではなく事実の話です。ぼくは元号という制度も「令和」も好きです。)
こうした空気感がどこから来るのか、という点を掘り下げているのが本書「空気の研究」です!
「良い空気」と「悪い空気」
内容については本書を読んでもらうとして、僕が考えたことの一つ目は、「能のない空気で個人が苦しむことがあるのはあまりよろしくないな」ということです。
もちろん元号変更に伴うお祭り感とエネルギー感は実際に「令和」という時代を良い時代にするために必要だと思いますし、それと同じようにあることでポジティブな効果をもたらす「空気」があるのは事実です。
けれど3.11の放射能の風評被害で福島周辺の第一次産業従事者が損害を被ったように、「いじめ」の空気感で「いじめ」の被害者が精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けるように、誰にもポジティブな効果をもたらさない「空気」もあります。
ここではポジティブな効果をもたらす「空気」を「良い空気」、ネガティブな効果をもたらす「空気」を「悪い空気」と呼ぶことにします。
「空気リテラシー」
「良い空気」はもちろんあっていい。
しかし、「良い空気」を残そうとすれば、どう頑張っても「悪い空気」を0にすることはできない。
両者はそこまで明確に区別することはできないから。
けれど「悪い空気」を減らす努力はなされるべきです。
そのために必要なのは、個人個人が「空気リテラシー」を身に着けること。
じゃあ「空気リテラシー」とは何か、それを身に着けるためにどうすればいいのか。
それを考える上で重要なのが、「空気」がどのように形成されるか。
「空気」とは認識され、そして発信されるものです。
「空気」を感じる主体がその「空気感」を認識し、その認識がその主体の行動となり、行動を通して「空気」が発信されます。
「空気」はコミュニケーションのようなもの。
このプロセスが多くの人を経れば経るほど巨大な「空気」になります。
とすれば、「空気リテラシー」とは「空気を認識する主体としてのリテラシー」と「空気を発信する主体としてのリテラシー」の二種類に分けられます。
空気を認識する主体としてのリテラシー
本書では空気を現実に戻すための手段を「水を差す」と言っています。
「周りがそういう風に認識しているからそうなんだろう」
と流されて信じるのではなく、
「周りの認識は本当にあっているのか?」
と疑うためのスキル。
「認識され、解釈されているものは事実ではない」という前提に立った上で、それを論理的に検証できる能力が必要です。
そして、そのためにはある程度の各分野の基礎知識、もしくはそういったものをGoogleなどを使って自分から学びにいける姿勢が必要。
要するに、「空気を認識する主体としてのリテラシー」は「批判的思考」と「リベラルアーツとその基盤となる学びの意欲」の二点と言えそうです。
空気を発信する主体としてのリテラシー
こちらは「認識する主体としてのリテラシー」に合わせて生まれるものです。
形成される「空気」は、発信の仕方によって大きく変わります。
話す内容だけでなく、言葉の選び方や語調、話すときの表情など。
ともすれば、言葉がなくとも表情だけで「空気」が形成されたりもします。
とすれば、まずは「発信する主体」が、自分の主張に自信を持ちすぎないこと。
主張が解釈や推測であれば、それらが間違いを含む可能性があることを考慮しておくこと。
つまりは自身にすら向けられる「批判的思考」。
そして、その可能性を発信の受け手が認識できるように発信することが重要です。
これらができるようにするためにまず、自分の発言や一挙一動が周囲の人間に大きな影響を与えうること、そしてそれが悪い方向に向かう可能性があることを認識すること。
これはつまり「他者視点」。
まとめてしまえば、「空気リテラシー」とは
「批判的思考」
「リベラルアーツとその基盤となる学びの意欲」
「他者視点」
の三つの能力にまとめられます。
空気リテラシーを身に着けるために有効な手段
ではどうしたら、これらの能力が身に着くか。
色々な方法があると思いますが、一番簡単な方法は案外「ディスカッション」を正しい方法で行うことなんじゃないかなと思います。
ディスカッションメンバーのみが感じる空気感の中で
・意味のある結論を目指し(=新しいこと、学びへの意欲)
・全ての意見を受け入れつつも批判的な姿勢で臨む(=批判的思考)
という前提で進んでいくのがディスカッションです。
他者視点に関してはディスカッションの振り返りを行うことで補えます。
ディスカッションの振り返りとは、誰のどのタイミングでの意見が効果的と感じたかを参加メンバーが理由とともに共有すること。
この振り返りを、ディスカッションの空気感がなくなったあとで行うことで、自分のどのような言動でどのような空気感が形成されたのかが分かります。
もし「空気リテラシーないな…」と感じる読者の方がいれば周りの人を巻き込んでディスカッションを行ってみてはいかがでしょうか。
最後に
今回は「空気の研究」を読んで考えた、「空気リテラシー」に関してまとめてみました。
「空気の研究」を読んで考えたことはまだまだあるので、引き続きNoteを更新していこうと思います!
次回の仮タイトルは「空気と水と信と疑と」にしようと思ってます~
いつになるかは分かりませんが見ていただけたら幸いです。
(♡やコメントも待ってます!是非ディスカッションしましょう!)