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マルティン=ルターと美味しいビール

マルティン=ルターは、机と椅子が用意されたうす暗い部屋のなかにいた。
広間につらなる廊下の一角に、とりあえず取りつけられた風の粗末な小部屋だ。
年代物の机はところどころささくれていたが、椅子はついさっき新調されたかのようで、塗料に用いられたワニスの匂いが鼻についた。
こまかな寄木細工がほどこされている。
それは部屋の雰囲気にそぐわず非現実的で、ルターの神経をひどく逆なでした。

広間からはざわめきが伝わってくる。
石の壁はある種の声をよく通すのだろうか。
誰かが何かに怒鳴っていて、誰かがそれを制止していた。
遠くの音が近くにきこえ、近くの音が遠くにきこえる。
じぶんに落ち着きのないことがよくわかった。
神経が過敏になっているのだ。

彼らはみな、私を待っていた。


じきにはじまる詰問ですべてが決まる。
返答次第で、私は刑に処されるだろう。

おのれの考えには全く誤りがないと確信している。
神の道に従って死ぬのは本望だ。

しかし、残されたものはどうなる。
道しるべを失ったものたちは迷いうろたえ、いわれのない誹謗中傷をあび、暴力が彼らを世界の片隅に追いやってゆくだろう。
火を見るより明らかなことだ。
私は世界の行く末を見届ける義務がある。
そうでなければ無責任ではないか。


ふいに扉が開く。
ルターの秘書役である婦人が、陶器製のジョッキをもって部屋に入ってきた。
ビールがなみなみにつがれている。

彼女はジョッキをテーブルにそっとおいた。
気のきいた音がした。


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こんにちは、“鳩”です。
今回は「ルターとビール」のお話です。
宗教改革をはじめたルターです。

先の場面で、ジョッキにつがれたビールがルターにさし出されましたね。
アインベック産のビールであったといわれています。
北ドイツのそれはちいさな街アインベック。
この地のギルドで作られたビールは品質が良いと評判で、ヨーロッパ各地に輸出されて愛酒家の舌をうならせました。

地図1

中世ドイツでは、ビールは「液体のパン」と呼ばれていました。
ドイツのひとびとは今でもビールを栄養源と考えている節がありますから、喚問を待つルターに滋養をとってもらうため、とある領主が一樽のアインベック=ビールを贈ったのです。
「人類にとって最もうまい飲み物はアインベックのビールだ!」とルターは語っていたので、この贈り物にはとても勇気づけられたことでしょう。

ルターは緊張しておりました。
神聖ローマ帝国(中世ドイツのこと)の皇帝カール5世による詰問が迫っていたからです。
彼はルターをヴォルムスという街の帝国議会に召喚し、自説の撤回を求めました。
1521年のことであります。


ヴォルムスでのルター喚問からさかのぼること4年前の1517年、ルターは「九十五カ条の論題」を提出しました。
歴史に名高い「宗教改革」のはじまりです。

かねてよりドイツで「免罪符」(これを買うとわりと早くに天国へ行けるおふだ)を売りさばいていたカトリック教会に対し、ルターは疑問を感じておりました。
露骨な免罪符販売は詐欺まがいの行為です。
彼は「免罪符と魂の救済」には関係がなく、ただ「信仰」にのみ「神の福音」が与えられると考えました。
そこで、免罪符と教義の問題点を九十五カ条にまとめて、ヴィッテンベルク城内の教会の門に張り出します(諸説あり)。
彼はラテン語で論題を記したのですが、それがドイツ語訳されると瞬く間にドイツ中で知れわたってしまいました。
当時はすでに印刷術が実用化されていたのです。

ローマ教皇はもちろんルターを破門しました。
しかし教皇による戴冠のもと、神聖ローマ帝国(ドイツ)における政治権力を与えられた皇帝カール5世は大変です。
教皇の手前、ドイツ内でルターがややこしいことを主張すると、カール5世としては立つ瀬がなくなります。
ちょうど会社の方針と現場の意見に板挟みになったかなしい中間管理職のようですね。
しかも反皇帝のドイツ諸侯たちがルターに同調する動きを見せています。
そこで、ルターを帝国議会に呼び寄せて、主張を取りさげるよう詰めよったのです。


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ルターはジョッキを手に取り、ビールを一気に飲み干した。
顔にうっすら赤みがさす。
憑きものがすっかり落ちたように頭が冴えだした。

大きく息を吸う。
ビールが臓腑に落ちると、ためらいも消えた。
「もう大丈夫だ。」
ルターは背筋をのばして、まっすぐに前を見た。

ほどなく二人の護衛があらわれ、ルターを促した。
ルターはひとたび頷くと、彼らに従い部屋をでた。
司教館広間につづく廊下は、彼が想像していたものよりずっと短かった。


ルターが広間に現れると聴衆はひとしきりざわつき、わずかの間をおいて、しんと静まった。
広い空間にひとがぎっしりつまっている。
見知った顔もいくつかあるが、ほとんどが知らないものばかりであった。
中央の玉座にカール5世が座している。

皇帝は表情をかえずにルターを見やった。
心うちを見せまいと努めているようだ。
たたずまいこそ高貴な威厳をまとっているものの、顔はやや青ざめて目がくぼんでいる。
疲弊しているのだ。
はからずも帝に同調してしまい、ルターはちょっと可笑しくなった。
彼には彼の立場がある。

ルターはゆっくりと、しかし確かな足どりで登壇した。
ひとびとの目線がルターに集まる。
喜び、憤り、そして淡い好奇心、さまざまな感情が彼に投げつけられ、不思議な空気がその場を包んだ。
ルターは壇上で一礼すると顔をあげ、皇帝を見すえた。


カール5世はルターに問うた。
「汝の見解を擁護し続けるつもりか。」

みなが息をのむ。
ルターはすこし黙してから、はっきりと答えた。

「もし、聖書もしくは明らかな道理によって私が誤っていると納得させられたならば、取り消しましょう。
さもなければ、私はおのれの良心に逆らうことはできません。
私の良心は神の御言葉に縛られているのだから。」

ルターはつづけた。


「私はここに立っている。
それ以外のことは、なしえない。」

"Heir stehe ich. Ich kann nicht anders."


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それでまあ当然ですが、ルターはきっちり帝国追放の処分を受けました。
今後は国内での安全を保障できない、とカール5世に告げられたのです。
危機に瀕したルターを、神聖ローマ帝国に反目するドイツ諸侯の一人、ザクセン選帝侯フリードリヒが保護しました。
ヴァルトブルク城に隠遁したルターは、新約聖書のドイツ語訳をすすめます。

1年ほど雲隠れしていたルターですが(死亡説も出回っていたそうです)、突然ヴィッテンベルクに現れました。
ルターの説を曲解した急進派が暴動を起こしているときいて、いてもたってもいられなかったのです。
それからはヴィッテンベルクの街を拠点として、教会での説法、叙述活動、大学での講義を行う傍ら、各地に出向いて自説の正しい解釈をひろめました。

ヴィッテンベルクルターハウス

≪ヴィッテンベルクの教会≫

ほどなく、ルターの説に共鳴した農民たちが暴動を起こします。
ドイツ農民戦争です。
また、ドイツの諸侯たちはルター派に転向したことを大義名分として、神聖ローマ皇帝からの自立をはかりました。
彼の宗教思想が政治的な思惑で使われたのです。
宗教改革の理念はヨーロッパ各国にひろがり、形を変えながらその地で勢力を築きます。
旧教カトリックに対して、新教プロテスタントが形成されました。
こうして、旧教vs新教のいわゆる「宗教戦争」が各地で勃発したのです。

すべてルターがはじまりでした。


彼は自身の主張が唯一正しい「神の教え」だと確信していましたが、ここまで至った状況に戸惑い、時には嘆き悲しむこともあったといいます。
この悲哀をなぐさめてくれたのが、妻カタリーナと彼女が作るビールでした。

ルターは1525年、41歳の時に26歳の修道女カタリーナ=フォン=ボラと結婚します。
カトリックでは聖職者の妻帯は御法度でしたが、腐敗する教会への抵抗もあったのでしょう。
はじめは義務感で結婚したルターも、次第にカタリーナとの生活に喜びと平穏を感じるようになりました。

この頃のヨーロッパでは修道院でビールが醸造されていましたから、カタリーナも修道女時代にビールの製法を学び、醸造技師(ブラウマイスター)の資格を持っていました。
愛する夫のために仕込んだビールは、格別の味であったでしょう。
ルターは彼女の作るビールにゾッコンになったのです。
穏やかな日々には、カタリーナと自家製ビールが欠かせないのでした。

カタリーナ

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ヴォルムスの帝国議会から十数年が経つ。
ルターはヴィッテンベルクで、妻子とともに穏やかな日々を過ごしていた。

彼は自宅の居間で大学講義の準備をすすめていたが、それに飽きると窓の外を見て一息ついた。
庭で遊ぶ子どもたちの声がきこえる。


世界はすっかり変わってしまった。
引き金をひいたのは私だ。
私の言葉にひとびとは歓喜し、そして憤慨した。

それからいくつかの戦争が起きた。
新教徒、旧教徒、善良な市民、何もしらぬ農民たちが巻きこまれた。
多くの同志が死に、同じくらい多くの対者が死んだ。
たくさんの友も逝ってしまった。
そして、ひとびとの争いはこの先もずっとつづいていくのだろう。

はたして神はこれを望まれたのか。


草の匂いをはらんだ生温かい風が窓の隙間から吹きこむ。
北ドイツの短い夏に終わりを告げる、どこか居心地の悪そうな風だ。

「ここに座ってビールを飲む。
するとひとりでに神の国がやってくる。」
ルターはそう呟いて不敵に笑った。

彼の気持ちを察したのか、カタリーナがビールのつがれたジョッキをもって部屋に入ってきた。
妻には、かなわない。
ルターはおもわず身ぶるいした。
つんとしたホップの香りがあたりに漂う。
彼女は慣れた手つきで、ジョッキをテーブルにそっとおいた。

「君のジョッキを持ってきなさい。」
ルターはカタリーナに言った。
彼女はすこし驚いたが、ルターを見やって優しく微笑むと、「あらまぁ、どういう風の吹きまわしかしら。」と言い、きびすを返して扉の方へ向かっていった。


彼女のうしろ姿を眺めながら、ルターは思う。

みなが笑いながら杯を酌みかわす日がまた来るのだろうか。
かつてのように…

ルターは静かに首を振った。
今は考えないことだ。
そして彼はジョッキを持ちあげ、宙に向かってささやいた。

「乾杯。」


ルター


※このお話に出ている人物設定や会話内容などは史実に基づいていますが、細かな点で作者の創作が入っております。

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