「理性」に生きた諦めない君主【後編】
フリードリヒ大王に関してのお話。前編からの続きになります!↓
ぜひ詳細はコテンラジオを聴いていただきたいです笑
前回はフリードリヒ王太子時代(少年・青年の頃)のお話でした。
今回は即位後のお話です。
即位…!と同時に改革と戦争
父軍人王がなくなり、フリードリヒ王太子が王位につくと、早速改革を実行していきます。
拷問を廃止、
宗教寛容令、
検閲の禁止…etc
といった当時としては先進的な人道的な改革で啓蒙君主らしさを見せていきます。
そんな中、突然、神聖ローマ皇帝が亡くなったという知らせを聞きます。
神聖ローマ帝国とは?
ここで一旦神聖ローマ帝国とハプスブルク家を整理します。
当時のドイツのあたりは、有力な諸侯が領主として領有する領邦という土地が多くあり、それらを神聖ローマ帝国という大きな共同体が緩く統合していました。
(神聖ローマ帝国は現在のドイツのあたりにあり、名前に反してローマが中心地であったわけではありません。。。ややこしい。。。)
フリードリヒ大王の頃は、神聖ローマ帝国では、ハプスブルク家という一族が代々皇帝を担っていました。
という有名な言葉が残っているように、元は大きくない家でしたが政略結婚で権力を手中にしていきます。その結果、ハプスブルク家は、中世ヨーロッパで絶大な権力を持った一族になりました。
フリードリヒ大王に話を戻すと、この頃、神聖ローマ帝国は、後継の男の子が生まれないというピンチに陥っていました。
そんな中、皇帝が30代で亡くなってしまい、代々男児で継いできたハプスブルク家の神聖ローマ皇帝の系統が途絶えてしまいます。
ハプスブルク家は、代々オーストリアを領有していました。
生前から男児が生まれそうにないと悟っていた皇帝は、娘である(のちオーストリアの君主を継ぐ存在として活躍する)マリア・テレジアに自分の死後に家督を継がせ、オーストリアの領有を継承することを周辺諸国に約束として取り付けていました。
マリア・テレジアは娘であると言う理由で神聖ローマ皇帝位は継承できませんでした。しかし、若かった皇帝にはまだ男児が生まれるチャンスがある、と考えられていました。
そんな中、皇帝は突然亡くなってしまいました。
女児であるという理由で帝王教育など一切受けてこなかったマリア・テレジアは約束通り家督を継ぎますが、いきなりピンチに陥ります。
マリア・テレジアが家督を継ぐことを認める約束をしたはずの諸侯がハプスブルク家の弱体化、好機だと判断したのです。
プロイセンもその一つであり、経済的に豊かなシュレジエンという地方を領有するチャンスと捉えてオーストリアと戦争をします。
これを、オーストリア継承戦争と言います。
フリードリヒは、父軍人王が残した強力な軍隊を率いて不意打ちでシュレジエンを侵攻、支配下におきました。
しかし、経済的に豊かな土地、シュレジエンを奪われるという痛手を負ったマリア・テレジアは黙っちゃいません。
反撃に出ますが、またもや強力なプロイセン軍の前に敗れ、シュレジエン領有を認めることになります。
復興と束の間の平和
フリードリヒ大王は、勝利したとはいえ荒廃したプロイセン領土の復興のために力を注ぎつつ、短い期間ながらも趣味であったフルートの演奏、哲学や読書、知識人との議論を楽しむという本来自身が好むことができる平穏な時間がやってきます。
サンスーシ宮殿という宮殿を築きます。
サンスーシとは、フランス語で「憂いなし」という意味です。
七年戦争勃発
一旦落ち着いたものの、そんなこんなでプロイセンは、
シュレジエンを奪った上に女性蔑視発言も重なって諸国から反感を買うことになります。これがプロイセンにとって命取りになります。
なんとこの時代、フランス、ロシア、オーストリアといった大国の実権を握っていたのは女性でした。
マリア・テレジアの外交センスも加わってオーストリアとフランスが手を組む「外交革命」も相待ってプロイセンは孤立していきます。
先手を打って戦いに出ますが、強力なプロイセン軍であってもやはり連合軍を相手には苦戦し、当初は攻勢だったプロイセンも敗北の淵まで追い込まれます。
連合軍がプロイセンの中心地ベルリンまで数十キロまで迫った段階でフリードリヒの心は折れかけます。
手紙で遺書らしいものを書くなど、一旦は死を覚悟しましたが、ここから奇跡の持ち直しを見せます。
神に判断を委ねるのではなく、理性的・合理的な判断で自身を持ち直したそうです。
オーストリアやフランスは、ヨーロッパの勢力の均衡が崩れることにつながることを恐れ、あくまでシュレジエンの奪還を目的に、プロイセンを滅ぼすことは望んでいませんでした。
加えて、ロシアの女帝が急死し、後を継いだ皇帝がなんとフリードリヒ大王の大ファンだったのです。これによってロシアはプロイセンと単独で講和を結んで戦線を離脱したのです。
攻勢を敷いていた諸国も疲弊しており、兵を引いていき、孤立したオーストリアに勝利、講和を結んでシュレジエン領有を認めさせます。
プロイセンは勝利したのです。
全てを失った晩年
すぐに荒廃した領土の復興を始めます。戦争が終わった直後から国のために尽くす姿はまさに「君主は国家第一の僕」なのでしょう。
しかし、勝利の引き換えに、多くの将校、信頼できる家族等を失ったフリードリヒ大王にとって晩年は寂しいものだったのでしょう。
最愛の姉や側近を失って人間不信になり、皮肉で冷たい人間になってしまい、愛犬と過ごすことが楽しみだったそうです。
体調を崩し、病を患うようになります。
最期は横になることも立っていることもできないほどだったそうです。
そして、彼は愛犬と同じ墓に入りたいという希望を言って亡くなります。
第二次世界大戦や東西ドイツの分裂によって遺体はドイツを転々としますが、東西ドイツ統合後、没後約200年を経てそれが叶います。
今は生前の遺言通り、愛犬と同じ場所で静かに眠っています。
終わりに
壮絶な幼少期・青年期を経て即位後は王としての覚悟を決めて、
国に尽くすフリードリヒ大王。
キリスト教の影響力が強く、神に森羅万象を求めるのが主流の時代にもかかわらず、自身の判断、理性に生きた彼から、我々現代人も学べることが多いと思います。
ここまで人物伝だったのでエピローグで私の考えなど書きたいと考えています!
ここまで呼んでいただき感謝です!また次回お会いしましょう!
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