「沈黙は賛同」を(無条件で)称賛するべきではない

ご無沙汰しております。モチダです。仕事に追われて、なかなか文章を書けていないのですが、どうしても書きたいことがあったので久しぶりに短文を書きます。


最近、こんな記事と投稿を読みました。

正直に言うと、私個人としてはどちらも(後で詳しく述べますが)全く肯定する意見ではありませんが、お二人ともご意見は自由だと思いますし、多様な言論の存在は許容されるべきだと思います。

ですが、これに対して、特にインターネットのリベラル・左派寄りの方々から大きな批判が出ていないことが私にはとても恐ろしく思ったので、この記事を書くことにしました。

一例として、下のはてなブックマークのまとめをあげておきます。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/1359768769803915264

※すみません、すぐ上の記事だけはなぜかリンクがつながらないので、そのままクリックしてください。




最初に、要点をまとめておきます。

①森元総理の発言は正当性がなく、批判されるべき。

②ただし、社会において「沈黙は賛同」であると見なされ、常に「正しい」思想を持っていることを、政治的な行動・実証を伴いながら主張しなければならず、もし「誤った思想」に陥った場合は「思想改造」しなければならないというような主張は、絶対に認められるべきではない。

③仮にそのような主張が認められた場合に実現するのは、リベラリズムの理想とは程遠い、特定の政治家の工作によって政治的暴力が飛び交う全体主義的な社会であろう。

④森元総理の発言は批判されるべきであるが、同時に「(森元総理に同意していると思われたくなければ)森氏を批判しなければならない」と扇動する側も、同程度に批判されるべき。

⑤モチダ個人として、「賛同したくないから沈黙しない」という態度を支持し、「賛同と見なされたくないなら沈黙するな」という態度を批判します。




確かに、森元総理の発言は常軌を逸したレベルで正当性がなく、森氏個人の政治家としての資質も含め、強く、強く批判されるべきものです。特にモチダ個人は、大学院生時代にお世話になった先輩方に女性が多く、現在でも一番親しい女性の先輩研究者に(「弟分」として)色々助けていただいており、本当に不愉快に思っています。

当たり前の話ですが、性別は知性に対する差異を決定付ける要因ではなく、「女性であること」は知識人・政治化・リーダーとしての資質に何ら影響を与えるものではありません。

ですが、社会において「沈黙は賛同」であると見なされ、常に「正しい」思想を持っていることを、政治的な行動・実証を伴いながら主張しなければならず、もし「誤った思想」に陥った場合は「思想改造」しなければならないというような主張は、絶対に認められるべきではありません。

何故なら、これは基本的な人権の一つである自由権のうち、思想や信条の自由を侵害する行為であるからです。

自由権が認められない国家は、全体主義的な傾向に陥り、個人の権利を奪う政治的な暴力が飛び交う国家になり果てるでしょう。これはリベラリズムの死といってもよいと思います。



おそらく、ちきりん氏などは「再教育キャンプ」に関する具体的な事例を存じ上げないと思いますので、私も授業でよく紹介している、中国共産党の社会主義時代、大躍進運動や文化大革命に関する基礎的な文献をおすすめしておきます。


この2冊をはじめ、大躍進・文革期における中国共産党史をしっかりと学べば、ご自身がどういった問題を不適切に扱ったのか、よく分かると思います。大躍進・文革期において実現されたのは、まさに「沈黙は賛同」と見なされ、「誤った」・「遅れた」思想を持つ人間は批判(他者からの批判も自己批判も含みます)されなければならず、批判された人間は「思想改造」される世界でした。

では、このような社会において、リベラルな理想が達成されたのでしょうか?もちろん、当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、ここで具現化したのは、無知な人間がむき出しの政治的暴力をふるう、悪夢的な世界に過ぎませんでした。

よく知られているように、大躍進・文革期において、中国の文化・学術水準は大きく下がります。この時期に社会を牛耳ったのは、政治的な「正しさ」を利用して様々な暴力をふるう無知な若者や子供たちと、これを扇動する一部の政治家たちです。

一方で、老舎のような硬骨の知識人や、数多くの優秀な研究者たちのように、知識・知性によって政治的な「正しさ」をしっかり批評しようとする人間は、こういった急進的な人々からの批判にあい、文化・研究活動を中止せざるを得なくなっていきます。

たとえば北京を代表する文人・知識人であった老舎も(あくまで伝聞に過ぎないのですが)まだ小学生くらいの子供たちに付きまとわれて延々と批判と暴力を受け、入水自殺したといわれています(殴り殺されたのではないか、という意見も存在しています)。

「沈黙は賛同」であり、「誤った思想」を「改造」することが肯定される世界では、常に政治的な「正しさ」を宣伝として利用可能な強力な政治家たちと、その「正しさ」を妄信して、何も考えずに行動を起こす無知な人々が勝利します。そして、そこで排除されるのは、常に冷静な知識・知性をもって物事を判断し、「沈黙して冷静に考えよう」とする人間です。

ちなみに、私は歴史学研究者であり、シンガポールと中国という、全体主義・権威主義国家の研究をしています。私はリベラルな人間を自認しておりますので、どちらの国にいるときも何度か、政治的な批判を含む自分の意見を(礼節を守ったうえで)言葉少なく、ですがはっきりと述べました。

幸いなことに、今のところ無事でいます。ですが、これは本当に「空気を読まない」行為であり、何度もひりつくような辛い思いをしました。私のように数回の体験ですらそうなのですから、日常的にこういう思いを感じ、何度も暴力を振るわれながら、生涯を賭けて自らの信念を貫いたであろう当時の知識人・研究者たちを思うと、私は本当に胸が痛くなります。



結論として、モチダ個人としては、森元総理の発言は批判されるべきであると思います。そこに何の異論もありません。

ですが、同時に「(森元総理に同意していると思われたくなければ)森氏を批判しなければならない」と扇動する側も、同程度に批判されるべきであろうと思います。

たとえばはてなブックマークのoka_mailerさんの

「ブコメにもいるけど「ただ黙っているだけで勝手に賛同したと見なすな!」って人こそ森氏に文句を言うべきなのだよ。「沈黙は俺らへの賛同だからな」ってメッセージを発してるのは森氏の側なのだから」。

という意見は、その代表例です。何より、森氏が発したメッセージや判断基準をそのまま受け入れないでいただきたいし、森氏の判断基準を他者に適用しないでいただきたい。

よって、モチダ個人として、「賛同したくないから沈黙しない」という態度を支持し、「賛同と見なされたくないなら沈黙するな」という態度を批判します。

以上です。失礼な表現などございましたら、謹んでお詫び申し上げます。

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