映画の世界に没入させる秘訣 ~「アンタッチャブル」からの考察〜
2021年4月、池袋にあるTOHOシネマズ池袋にいた。「午前10時の映画祭」という企画の下、上映される映画を観るためだった。
名作と呼ばれ長く映画ファンの心を揺さぶってきた古今東西の映画を午前という早い時間帯に上映する企画。それが「午前10時の映画祭」。そのラインナップの1つにあったのが「アンタッチャブル」(1987年)。
事前知識無しに観たが、オープニングですぐに心を鷲掴みにされた。「これが映画だ」というものをまざまざと思い知らされた。しばらくの間、衝撃や感動が体をまとっていた。
その後、ブルーレイディスクを買った。今でも時々観て、その度に心を揺さぶられている。
私がこれほどまでに「アンタッチャブル」という作品に心惹かれるか。私は「カメラワーク」をキーワードとして考察していきたい。
1.「アンタッチャブル」のストーリー
2.「アンタッチャブル」の概要
3 文学における「一人称の語り」
4.「アンタッチャブル」に見る「一人称の語り」
5 終わりに
1.「アンタッチャブル」のストーリー
舞台は1930年代のシカゴ。酒の販売を禁ずる「禁酒法」が敷かれる中、悪人共は監視の目をすり抜けながら酒を密売し、莫大な利益を得ていた。
中でもイタリア系移民のアル・カポネはカリスマ的存在であり、時の市長をも凌駕する権力を得ていた。その源泉は、自分に歯向かう者は、純真無垢な少女でも容赦なく始末するほどの冷酷さだった。
恐怖政治が敷かれるシカゴに、1人の財務省役人が乗り込んだ。彼の名はエリオット・ネス。
勇み足で手柄を挙げようとカポネのアジトに乗り込むも失敗。失意の中、帰途に就く正義の味方。咥えていたタバコを川に捨てると、巡回中の老警官に窘められる。
それこそが、暗黒街の帝王の逮捕までの、壮絶な戦いの始まりだった・・・。
2.「アンタッチャブル」の概要
監督はブライアン・デ・パルマ。画面を2つに分割することで、無表情のキャリーと阿鼻叫喚のクラスメートを対比させ、底知れぬ怒りに燃えるキャリーの復讐劇を捉えた『キャリー』(1976年)で知られる。その他にはトム・クルーズ主演の『ミッション・インポッシブル』(1996年)の監督としても知られる。
主人公であるエリオット・ネスを演じるはケビン・コスナー。後にホイットニー・ヒューストンと共に『ボディガード』(1992年)で主演を務めた。
彼を支える老警官、ジム・マローン役にはショーン・コネリー。初代ジェームズ・ボンド。有名な「Bond. James Bond.」というセリフは、ショーン・コネリーが最初に言った。
悪役のアル・カポネ役にはロバート・デ・ニーロ。徹底した役作りで悪の親玉を演じきった。
衣装担当はジョルジョ・アルマーニ。音楽はエンニオ・モリコーネ。
配給会社であるパラマウント映画の創立75周年記念作品ということで、演者からスタッフまで豪華な人選が目立った。
作中のハイライトである、シカゴ・ユニオン駅でのバトルは、『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュタイン監督、1925年)をオマージュしたことでも有名。赤ちゃんが乗っている乳母車が階段をゆっくりと下っていくシーンは、オデッサの階段そのもの。乳母車を間一髪で止めたエリオット・ネスの仲間、ジョージ・ストーンを演じたアンディ・ガルシアはこの作品をきっかけにスターへの階段を上ることとなった。
方々の期待に応えるように、映画は大ヒットとなった。
この大作を読み解くカギとして、私は文学における「視点」の概念を用いたい。まずはこの説明から入りたいと思う。
3. 文学用語における「一人称の語り」
この章においては、19世紀イギリス小説を専門とする京都大学大学院教授、廣野由美子氏の『批評理論入門-『フランケンシュタイン』解剖講義』より引用しながら論を進めたい。
文学において欠かせないものとして、「物語を誰の視点から語るか」という問題がある。大きく「三人称の語り」と「一人称の語り」に分けられる。
前者は、【語り手が物語世界の外にいる】場合を言い、後者は【「私」という観点から物語世界を眺めて語る】場合を言う(p22)。
例として、『桃太郎』の導入部分を挙げたい。
お婆さんが桃を見つけてから桃を割るまで、というシーンを書くとする。
前者の場合、「お婆さんが川で洗濯をしていると、大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました。お婆さんが家へ桃を持って帰り、お爺さんが割ってみると、中から大きな赤ん坊が生まれてきました。2人は『桃太郎』と名付けました。」となる。
一方、後者の場合、「私が川で洗濯をしていると、大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました。私は家へ桃を持って帰り、お爺さんが割ってみると、中から大きな赤ん坊が生まれてきました。私たちは『桃太郎』と名付けました。」という具合になる。
前者の場合、お爺さんとお婆さんとは別の人間の視点から語ることで、広い視野から人物の動きや世界を眺めることができる。
後者の場合、特定の登場人物を視座に置くことで、その人物と同じような世界を見ることができる。この場合、「三人称の語り」と比べて文中から読み取れる風景は狭まってしまう。その反面、語り手に置いた人物の感情を描きやすくなり、それにより読み手もより物語の世界に没入しやすくなる。
「一人称の語り」は、読者を現実世界とは別の世界に誘いやすくする効果を有する。
これを「アンタッチャブル」という映画に応用してみたい。
4.「アンタッチャブル」に見る「一人称の語り」
作中には、カメラが登場人物の「一人称の語り」の役割を果たしているシーンが2つある。
1つ目は、マローンの命を狙わんと、カポネの手先がマローンの自宅に窓から侵入するシーン。
2つ目は、カポネの裁判が開かれる中、逃亡を図ったカポネの右腕、フランク・ニッティ(演 ビリー・ドラゴ)を始末した後、裁判所に戻ってくるエリオット・ネスのシーン。
1つ目のシーンでは、カメラの視点が、マローンの家に侵入するカポネの手先と同化している。窓から侵入し、ターゲットであるマローンを捜索する。後ろ姿を捉え、隙を伺おうとすると銃を持ったマローンに銃口を向けられる。
観客は、カポネの手先の目線を通して、マローンの命が狙われる恐怖や、マローンがピンチからチャンスに変わった瞬間の衝撃を、より強く感受できる。
2つ目のシーンでは、カメラの視点が、裁判所に戻ってきたエリオット・ネスと同化している。フランク・ニッティを始末した後、裁判所に戻ってくるネス。警備員が撃たれたということで裁判所は大騒ぎ。群衆の喧騒を背景に、ストーンがネスに近寄ってくる。カメラが後ろの群衆に向けるとストーンが語りかけてくる。「捜査官・・・捜査官、大丈夫ですか。ちょっとこれ、見てください。」
そう言って、1枚の紙きれを渡してくる。
ストーンがこちらに向かって歩いてくる。カメラの向きを変えるとセリフに従って再度ストーンの方を向く。カメラの動きは、ネスの動きと同じである。観客はカポネを打ち取った正義の味方になった気分を味わえる。
「一人称の視点」は、映画館にいる観客を一瞬にして1930年代のシカゴへと誘う。シカゴを牛耳ったアル・カポネと平和を取り戻さんとするエリオット・ネスとの闘いの当事者へと同化させる。文字通り、「夢のある映画の旅」へと誘う魔力を有している。
5 終わりに
「アンタッチャブル」には無数の魅力がある。前述のシカゴ・ユニオン駅での戦いの迫力、アルマーニ観衆の衣装のスタイリッシュさ。ケビン・コスナー、ショーン・コネリー、ロバート・デ・ニーロらの演技力。エンニオ・モリコーネによる胸躍る音楽。そして演技により彩を添える吹替。私は特に津嘉山正種氏によるケビン・コスナー、若山弦蔵氏によるショーン・コネリーの吹替バージョンが好きである(俗に言うテレビ東京版)。
この映画を題材に語りたいテーマはまだまだある。特に吹替について論じたい気持ちも大いにある。
だが今回はカメラ視点をテーマに文学用語と絡めて論じることとした。
映画を論じる方法は無数にある。今後も様々なテーマで映画論を講じていきたい。
参考文献:批評理論入門-『フランケンシュタイン』解剖講義(廣野由美子著、中央公論新社、2005年)
https://www.amazon.co.jp/批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義-中公新書-廣野-由美子/dp/4121017900/ref=nodl_
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