映画:太陽 (9/10 アップリンク吉祥寺にて)
ソクーロフの太陽を観た。
久し振りに観た。
生まれて初めて、自分でお金を払って、映画館まで観に行った、思い出の映画だ。
そして、映画に対して、余り関心を持てなくなるきっかけともなった作品。
あれから15年。
久し振りに観に行って、分かったのだけど、驚くほど、内容を覚えていなかった。
そして、やっぱり、勘所のよく分からない映画だと思った。
そんな、もやもやとした気持ちのまま、家へ帰って来て、ふと、15年前に買ったパンフレットを見返して、はっとした。
突然、この映画の釈然としない理由が、はっきりしたからだ。
少なくとも、自分が、この映画のどこに引っ掛かっていたのかは、解決した気がした。
イッセー尾形が演じる昭和天皇への違和感、というものは、正直に言うと、余りない。
この映画の違和感は、むしろ、その取り巻きの方にある。
昭和天皇もマッカーサーも、終戦前後の閣僚達も、みんな実名で登場するのに(六平直政の陸軍大臣なんて、そっくり過ぎて、逆に笑ってしまうくらい)、改めて配役表を見てみると、陛下や元帥の側近にいる人達だけは、架空の人物で固められていた。
侍従長、老僕、研究所長、副官...
彼らには、モデルはあるのかも知れないけれども、具体的な人物名が当てられていない。
これは、故意だと思う。
ソクーロフが持っている、歴史に対する敬意なのか、強かな悪意なのかは分からないけれども、始末の悪い立ち振舞いをする重要なサブ・キャラクター達にだけ、万全のフィクションを用意する事で、この映画の、嘘臭いのにどこか妙にリアリティのある世界観が成り立っている。
それを初めから分かっていれば、ソクーロフの描く滑稽さを、もっと素直に面白がる事も出来るのに、そういう意図をぼやかして、煙に巻こうとする。
佐野史郎の役名が、藤田尚徳ではなく侍従長という所にこそ、この監督の上手さとずるさがある。
側近を架空の人物で固めて、彼らにコメディを分担させる事で、実在の人物には乗せにくい作家自身の視点、もっと言えばイデオロギーをも透写していく、そんな手口の気がした。
それは、とても清い態度だと思う。
史上の誰をも傷付けずに、痛烈に時代を嘲笑している、と言ってもいいかも知れない。
ただ、そのお約束の設定を明示しないものだから、何だか、小馬鹿にされた様な気分にもなってしまうのだ。
リアルとフィクション、シリアスとコメディ、その不可分な交錯の間に立ち現れる真実味に触れるには、何より混交させない意識が肝要なのだろう。
だから、自分は、随分にチャンポンな見方をしてしまったな、と今更ながらに思うのだけど、それもまた、きっとソクーロフの仕掛けた罠だ。
この映画、菊タブーに触れた問題作かの様に言われる事もあったけれども、寧ろ、ソクーロフという人の節度が、とっても端的に表れた作品だと思う。
日本人が観る事にとても配慮した、ある種の型がちゃんと用意されている。
いつどこに、クレイジーキャッツかドリフターズが出てきてもおかしくない、そんな雰囲気があるのも、その型のためだろう。
菊タブーというものは、これ程までに外国人をも忖度させるものなのか、と言ってもいいのかも知れない。
それに気が付いたのが、家に帰ってパンフレットを見返してからというのは、全くもって後の祭りなのだけれども、この映画、二度ある事は三度ある、ではなくて、三度目の正直が待っていそうな予感が湧いたという事だから、もう一度、観たくなって来た。
また、15年して観たら、全く違って見えるに違いない。
そして、きっとまた、やっぱりよく分からない筈だ。
何より、ソクーロフがそれを望んでいる。
分からないでくれとお願いされて、すっかり分からないでいるのだから、こんなによき理解者もあるまい、と言うものだ。