CD:御喜美江『アコーディオン・バッハ』
バッハの音楽は、様々な楽器の為に編曲され、多くの演奏家によってチャレンジされている。
そして、大抵は、作曲家よりも演奏者の方が多くの益を得る事となる。
僕らは、決して、その果敢な試みにエールを惜しみはしないけれども、その楽器で演じられる必然性を受け取る事も、また、そう多くはなさそうだ。
だから、今日するのは、少ない方の話です。
御喜美江のアコーディオン演奏で、得をしたのは、多分、バッハの方だから。
否、聴き手の役得か。
このアルバムのAmazonのカスタマーレビューに、“ドラクエの街”という例えの賛辞があった。
僕は、ドラゴンクエストを殆ど知らないから、当て推量になるけれども、これはとても素晴らしいレビューだなと思ったので、買って聴いてみる事にした。
そして、少しだけれども、ドラクエというものが分かった気がしたな。
少なくとも、そのレビュアーにとって、ドラゴンクエストというゲームが、掛け替えのないものである事は、分かった気がした。
それくらい、御喜さんのフランス組曲は、当世風に言えば、ヤバい、って感がある。
もう少しだけ、古風に言わせて貰えれば、いとおかし。
アコーディオンという楽器は、一々音色が変えられる様な造りにはなっていないそうだけれども、蛇腹のふいごで風圧を巧に変化して、一端出した音を絶妙に震わせたり、鋭く切ったり引き伸ばしたりする事が出来るので、モノクローム写真の中に無限の色彩を認めた時と同じ様な、独特の奥行きがる。
カラフルな拡がりはないけれども、どこまでも遠くまで連れて行かれそうな、深い沼が底知れずある。
という事を、アコーディオンを聴くと何時でも思う、なんて訳ではなくって、大抵は、妙技に感心してそれで終いだ。
アコーディオンでそこまで出来るのか、すげえな、とか、まるでアコーディオンのオリジナル作品みたい、神演奏だ、とか、そういう感動しか起こらない。
そこまで心が動かない事だって、ままある。
音楽よりも楽器が気になる。
無論、アコーディオンに限った話でもなくって、こちらの心掛けの問題でもあるから、それを良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう尺度で測ってしまおう、なんて積りはない。
ただ、このアルバム、『アコーディオン・バッハ』という標題は、ちょっと良くないと思う。
これは、全くバッハだ。
こんなにもフランス組曲がフランス組曲然と奏でられた事って、ピアノやチェンバロでもあったかどうか、ちょっと自信がない。
バッハは、鍵盤楽器の中でも、取り分け、クラヴィコードを愛したそうだ。
この楽器は、余りに音が小さいので、他者に聴かせるには向かないけれども、出した後の音を指の力加減で変化させる事が出来るので、多彩な表現が可能となっている。
歌える鍵盤楽器、それがあらゆる欠点を補って余りあるクラヴィコードの美質であった。
フランス組曲は、特にクラヴィコードとの相性の良さそうな、優美な色調の作に満ちている。
だから、アコーディオンが好い、と言ったら性急で、遠からず、人類にとって最も細やかに心に近く寄り添ってくれる楽器は、生音よりも優れた電子音になるだろうから、バッハの音楽の最高のパフォーマーは、人間ではなくなる筈だ。
それでも、僕らは、アコーディオンで、或いは、クラヴィコードの演奏で、バッハを聴き続けるのかは、分からない。
ドラクエの実際の音楽は、すぎやまこういうさんの手によるものだった。
ゲームをプレーした事のない私には、正直に言うと、この音楽の良さというものは、中々に実感出来ないものがあるし、フルオーケストラによる演奏よりも、初代のゲームの中で鳴っていた拙い電子音で聞いた微かな記憶の方が、より美しい音楽だったな、という印象も受ける。
それくらい、論理は滅茶苦茶に、辻褄が合わないままに、『アコーディオン・バッハ』を手放しで受け入れている自分がある。
結局、このタイトルが正解なんだろう。
それに、単に、このアルバムを聴いていた訳でもないとも思う。
今までに、様々な楽器で、様々な演者によってフランス組曲を聴いた想い出が、上手くアコーディオンに乗っかって、幾重にも相乗効果が発揮されてもいる筈だ。
美しい音楽は、そうやって、油断すると再現なく遠くへと連れ去ろうとする。
RPGが誘う世界にも、きっと、そんな美しさがあるのだろうな。
否、何でも美しく見たがる我があるだけか。
演者の苦労も知らないで、やっぱり役得だ。
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