映画:窓辺にて

主演以外は、俳優も監督も、名前も聞いたことのない人たちばかりだった。

稲垣吾郎だって、昔、国民的アイドルグループにいた人だよな、くらいしか認識のない人だ。

それくらいには、世情に疎い方だから、却って、素直に、この映像世界の中に、吸い込まれて行けたとも限らない。


映画『窓辺にて』は、喫茶店と文学と、そして、映画の好きな人のための、もっと言ってしまえば、何か文化的な空気が好きな人のためにある、そんな映画という気がした。

その何れにも、こちはら相当に無縁なタイプの人間だから、どこか他人事で面白くなさそうなテーマの作品、とカテゴライズできそうなものなのだけれども、眺めてみれば、文化の薫りが鼻につく事もなく、とても自然に言葉と景色が流れ込んで来て、取り立てて感動する事もなく、別段、心を震わせる瞬間もなく、圧倒された。

ドラマって、こんなにも、人間を等身大で演じられる形式だったんだ。

きっと、物語を味わうのが好きな人には当たり前だろうけど、今更ながら、そんな感慨に染々と浸った。

何かを押し付けられる映画ではなくって、だからと言って、こちらから、積極的に何かを掴み取りに行く訳でもないから、そこには、クリエイターたちの、恐るべき狂気と天才が静かに座していたに相違ない。


ストーリーは、混み入っている、そして、シンプルだ。

それは、人間という生き物において、愛情というものが混み入った機能であるからで、同時に、いつだって本質的でもあるからだろう。

それをシンプルに捉えれば、ドラマは単純には済まされない。

不倫と文学が、ある種のキーワードとなる映画で、カフェこそが主戦場であった筈なのだけれども、個人的には、主軸は写真にあったと思う。

いや、切り取られる者、そちらの方こそがドラマのテーマであるのだから、切り取り方に足許を掬われない眼が、たまたま、写真に象徴されたに過ぎないな。


登場人物の誰一人として、正解は掴めない。

間違いも、多分、犯してはいない。

少しずつ失って、けれども、各々に、居場所を見付けた様である。

淡々と今日を確かめているだけなのに、とても未来に前向きな画と映った。

観ていてちょっと救われたような、世界がワントーンだけ柔和に明るくなったような、そんな壊れやすい後味が緩やかに長く続いて、翌朝、こんな感想に至っている。

コンテンツが膨大な世の中にあって、一つの余韻に浸る贅沢は、或いは最も許されなくなっているものかも分からない。

それもまた、広くクリエイターの主戦場に違いない。

何時だって、僕ら観るだけの市井人の感覚というのは、穏やかで能天気なものだ。

そんな空気まで読み込まれた映画であって、観ていて疎外感がなくてホっとしたから、好かっただけかも。

控え目に言って傑作、当世気質で言えば、そんな感じだ。

どこまでも観る人に優しく親切な作品だから、映画も文学も喫茶店も、何なら純愛や不倫にうんざりしていても、人間が少しだけ好きなれそうな、そんな雰囲気が好かったな。


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