映画:『 ワンダーウォール』と『逆光』~ディアロゴスの道


『逆光』という映画を観ていると、三島由紀夫に関心を持たざるを得なくなる様に、『逆光』にまつわる話を聞いていると、『ワンダーウォール』という映像作品に関心を持たざるを得なくなる。

そこで、映画『ワンダーウォール 劇場版』を、遅蒔きながらDVDにて観る事にした。

 (映画『逆光』と写真集『ONOMICHI』、そして三島由紀夫への想いは一度連ねたから、今回は省略)

既に自立した作品として、『逆光』も、写真集の『ONOMICHI』も、作家の動機を離れた所で生命を宿して、既に立派に実を結んでいるのだから、今更、『ワンダーウォール』と結び付ける必要はない。

そうとは承知しているのだけれども、それでも、どんな土壌に撒かれた種が、一体、あんなにも立派な実を結ばせたのか、訪ねてみたくなるのもまた人情だ。

別に、理解を深めたい、なんて大層な話じゃない。

作品の繋がりが、そのまま鑑賞の拡がりへと伝播する、そんな力が作品にあるかないか、今回は激しくあったというまでだ。



映画『逆光』をムーブメントという側面から眺めた時に、テーマはかなりハッキリと意識されている。

それは、dialogue。

通例、対話などと訳される言葉であるけれども、この語は、対話という訳語では、とても間に合わないくらいに、ヨーロッパの長い歴史の中で意味を成熟させて来た言葉の様に見える。

だから、一連の活動の要所で、敢えて、外語が選ばれもするのだろう。

それは、母語に対する冒涜というよりも、言葉に対する信頼というべき様なものだと思う。

dialogue。ダイアログの語源は、ギリシャ語のディアロゴス(dialogos)で、それは、ソクラテスとプラトンという大哲人の思想のあり方の根幹をも形作っているものだ。

適当な日本語は、と考えると、結局は、対話というより他にない。

言葉への信頼が、言霊というある種の信仰へと流れた文化圏に住んでいる僕らには、ギリシャ人の言葉(ロゴス)への信頼が取る知性的な態度を推し量るのは容易じゃない。

ロゴスの行き交いであるディアロゴスに、単なる言葉の往来のみを認めた訳ではなかった。

そこには、以心伝心とはまた異なる形での、相互理解への深い決意と信念が現れている様にも見える。



『逆光』という作品を一見すると、この映像世界は、必ずしもダイアログな作品とは見えない所がある。

三島由紀夫という作家もまた、モノローグで耽美で独自な世界を切り開いていった天才、という印象だ。

その背後には、勿論、切実なる対話への渇望が宿されている訳で、だからこその『逆光』というタイトルという気もしているのだけれども、ダイアログな側面が、作品の姿としてより画面に滲み出ているのは、写真集の方だったんじゃないかな、と思う。

『ONOMICHI』というタイトルも、初めは少し不思議に思っていたのだけれども、場所、そこに息づく人とのダイアログだと捉えてみると、とっても相応しいものなんだな、と得心もいった。

そんな事は、こちらが勝手に思ったことだから、真実でも何でもないのだけれども、そもそも、鑑賞というのは、正解を掴む事よりも、自分で掴んでみる事に、重きがある行為なのだから、過ちで構わない。

寧ろ、須らく過ってみるべきだ。

僕が、ここに記すのは過ちだから、信じない方がいいし、何より僕自身が自分の掴んだモノを信頼などしていない。

名作が、観る度に姿を変えて悩ましいのは、それだけ、僕らを惑わし安易な着地を拒むものだからだ。

鑑賞という行為には、どこまでも根無し草になってみる、そういうスリルと恐怖がつきまとうもだと思う。

けれども、こちらが突き放さないかぎりは、作品からこちらを拒絶する事もない。

僕らは、信用して飛び込んで、思い思いに誤解する。

理解したが最後、鑑賞の焔は消えて、作品も消え失せる。

王道とは言えないかも知れないけれども、鑑賞には、そういう対話法もある。



正直に言うと、『ワンダーウォール』を観るまでは、dialogueという言葉には、別段、頓着しなかった。

映画の製作は大勢を巻き込んで進められるものだろうから、自主製作映画の原動力が対話であるのは、ある種の必然だろう、くらいにしか考えていなかった。

だけれども、『ワンダーウォール』を観てしまうと、須藤蓮という人には、dialogueは殆んど動機と言ってよいもの、それくらい本質的なものだったんだな、という風に見えて来る。

『ワンダーウォール』は、答えが出ない作品だ。

出さない、というよりは、出ない、だと思った。

対話の難しさを描きながらも、対話を信じようとする物語。

舞台は、京都大学の吉田寮がモデルとなっている。

大学当局と自治寮の攻防という現実問題に対して、僕らはついついイデオロギーという御旗に眼を奪われたままに向き合い勝ちだけれども、ドラマが掴まえて離さないのは、ダイアログ、対話そのものの方である。

誰もが、本当の所では、ダイアログに疲れきっている。

それは、とっても遠回りで、困難で、成果も少ない。

そもそも、対話とは誰とするものであろうか?

敵、見方、仲間、己自身?

僕らは、一番都合のよい相手を選んで対話した気になって済ませている、或いは、拒絶された事にして済ませていやしないか。

誰かに対峙し、対話を始める一個の自分を、果たして、きちんと持ち合わせているのだろうか?

対話というものは、相手を通じて初めて己に出会す、そんな難儀で素朴な営みかも知れない。

相手に相手自身が、自分に自分自身が出会す様に、相手とロゴスを交わす、汝自身を知れ、と言った古人のディアロゴスとは、そんな営みではなかったのかな。

『ワンダーウォール』を観て、漠然と、そんな風に、対話という言葉に想いを馳せた。

尤も、俳優は、演技の達人の訳だから、僕らを簡単に騙すものだ。

真実を誰かに届けるには、嘘もまた必要な事がある。

キューピーという役柄は、勿論、俳優・須藤蓮その人じゃないし、俳優はその人の本性でもない。

釈迦ですら方便を使うのだから、そのくらいの嘘は、丸呑みしなくちゃ真理も何も始まらない。

監督には監督の嘘がある。

作家には作家の、見物人には見物人の。

ただ、それにしても、『ワンダーウォール』のキューピーは、ちょっと素面に過ぎやしないかな、と思った。

映像作品としての良し悪しは分からないけれども、何だか、とてと生々しいドラマだ。



プラトンの思想がディアロゴスの姿を取るのは師ソクラテスの影響に過ぎない、と言う向きもあるそうだ。

事は、そんなに単純ではなく、もっと根の深い問題だと思うのだけれども、それは兎も角としても、対話は彼等の哲学そのものであった。

それが、須藤蓮という表現家においては、創作活動そのものとなった様である。

誰ともdialogueを目指すという事。

それは、とっても難儀な道だ。

けれども、『ワンダーウォール』に出会ってしまったら、その道より他はないだろう。

「人の能動性を喚起できる唯一の方法は、相手の本質を丁寧に見つめて、本心で肯定すること」

これはもう、対話もdialogueも呑み込んだ、ディアロゴスじゃないのかな。

つくづく、脚本家・渡辺あやという人の存在は大きいと思う。

プラトンに対するソクラテス、殆んど師と言ってもいいくらいに大きく見える。

『逆光』という作品は、案外に、この人の手のひらで、みんなが上手く踊らされたまでの事かも知れない。

けれども、どんなに見事に踊ったろうか。

勿論、皆、自ずから踊っているじゃないか。

対話の極意は、対話劇の中から飛び出して、やがてムーブメントとなる。

その始まりの物語が『ワンダーウォール』。

これは、観ずに済まされなくなる訳だ。

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