映画:鬼が笑う
臓腑を抉る画を創らんとして、創られた映画であるから、全編を通じて、重くて暗く、時々、汚い。
凡そ、美しいものがない、、訳でもないのだけれども、気が晴れる暇なく、俄に曇り、空気は淀んで、しばしば、沈む。
それでも、全く浮かばれないという感じがしないのは、この物語が映画であるからに違いない、、そんな気がした。
この本を書いた人は、中々に意地が悪い。
悪くなくたって、容赦がなくて、沈める為にわざわざ浮かばせる、、嫌な奴だ。
反対に、撮った人は、随分に耽美的で、優しい眼だな。
薄汚れた景色を黙って切り取る、その醒めた瞳には、温もりこそないけれども、非情も見当たらない。
その間で、僕らは、哀れみ、同情する。
人間が、他者に同情出来るのは、決まって他人事であるからだ。
勿論、実際のところは知りません。
映画がフィクションなくらいには、鑑賞もまたフィクションなものだから、思い思いに過った方が、真じゃないか。
少なくとも、過つ吾に突き当たる事こそが、鑑賞というものの本質だと私は信じている。
分かり合えないという事、若しくは、すれ違うという事。
その本当のやるせなさは、己が鬼と悟った時に、初めて発動するものだから、無理解に苦しむ内は、人は孤独を知らずに済む。
そこには、向き合うべき他者が、未だある。
鬼が笑う。
鬼とは何か。
笑うとは如何。
毒親、人殺し、ろくでなし、、格差、闇社会、吹き溜まり。
渇望と救済と、自衛、、自死。
あなたは鬼になれますか?
社会派の映画は、正直に言うと、とっても苦手だ。
現実に向き合う事ばかり迫って来て、逃避を許してくれないから、例え、逃げ切っても、後味悪くて、後ろめたさが付きまとい、結局は、振り向かざるを得なくなる。
だから、観るなら、こちらか喰らいついた方が、未だしも楽だ。
そうやって眺めてみると、『鬼が笑う』という映画は、結構、柔和な画じゃないか。
カメラが捉える世界は、一見、フラットな様でいて、どこまでも父親殺しから見た世界だ。
嫌な奴は嫌なまま、好い人は好い人のまま、流れて、消えていく。
だから、優しい眼なのだな。
この画には、ただの父親殺しが一人あるばかりで、殺人鬼は見当たらない。
鬼を何処に宿したものか、世界もまた悩んである。
チラシを手配りしていた人、画の中で演ずる人、舞台挨拶をしていた人。
それぞれ、全く別の人に映ればよかったのだけれども、何だか、全部、同じ人という気がした。
同じ人だから、同じでよいのだけれども、人間の本質というものは、僕らが思っているよりも、遥かに、演じさせられているもので、自らの意思では逃れられないものなのかも知れない。
画の中の、石川一馬という人物に、没入すればするほどに、半田周平という人が、透けて来る。
それを、役者の術中にはまったというか、作家の手中に落ちたというかは知らないけれども、何に同情してよいか分からない位いには同情し、不条理をぼんやりと眺めていた。
ありふれた、美しくもない、砂浜が、想い出の場所でもあり、仕舞いの地ともなっている。
それが、どんなにか美しい海だったかは、傍観者には想像もつかない。
カメラも決して追い付くまい。
だから、誰も、笑えない。
介錯人すら伴わず、独り死ぬ。
一人舞台、独擅場だ。
我に返った見物人の居心地の悪さだけが、舞台に付き合って来た実感を、辛うじて担保する。
鬼は外、福は内。
映画の冒頭は、無邪気な節分のシーンから始まる。
思えば、僕らは何時だって、そうやって鬼を払って来たから、笑うところを知らないのだな。
知らない事は、何も悪いことじゃない。
鬼を招いて、福を打ち捨てる道理もない。
ただ、疎外しただけ、鬼の直面を見るのは怖くなる。
『鬼が笑う』は、それを暴こうとするバイオレンスな映画じゃない。
寧ろ、何処までもリリカルに、直面を覆い隠してくれている。
あなたは鬼になれますか?
それとも、直面を晒せますか?
鬼とも知れず、素面も見せぬ、吾。
それをじわりじわりと炙り出されて、やっぱり、観るのが辛い映画だったな。