聴きたいもの、そうでもないもの、違うこと
ギター・デュオの演奏で、スカルラッティのソナタ集を聴いた。
スカルラッティの音楽にはギター的な奏法が散りばめられている、という事はよく指摘されているし、チェンバロで聴いても、ピアノで聴いても、確かにそういう瞬間がままある。
だから、ギターによる編曲も、二重奏のもの、独奏のものなど、比較的容易に聴くことが出来る。
そして、誰のギター演奏を聴いても、いつも思うのだけれども、スカルラッティの音楽は、ギターにあんまり向いていない。
ギターで弾くと、どうもギターっぽくなくなっちゃって、詰まらない。
ギターっぽくなくなっちゃう、というのは、言い換えれば、ギターらしくなっちゃう、という感じだろうか。
ギターみたいなものはギターじゃない、みりん風調味料はみりんじゃない、みたいな。
本物と代替品。
代替品的な本物が、本物で代替された時に、どちらが面白いかは、まぁ、好き好きだ。
ここまで来れば、どちらかが偽物、なんて事もない。
あっても良いけど、偽物の方が好くても、勿論、構わない。
誰かに何かが好いって、改めて、難儀な事だな、と思う。
先日、サントリーホールで、流血騒動があったそうだ。
音楽の嗜好(それか志向か思考)のすれ違いと言われている。
そんな些細な事ですれ違えるって、とっても熱くて、ちょっと羨ましいな、と思った。
きっと、僕らには些事でも、彼等には一大事だったに違いない。
と、想像してみる。
ギター・デュオによるスカルラッティは、詰まらない、と思う。
だから、舌の根も乾かぬうちに言うのだけど、とても良いアルバムだった。
ギターの音の重ね方で、それが編曲のせいか演奏のせいかは分からないけど、音色を玉虫色に変化させたり、響きの拡がりを急増させたり狭めたりと、撥弦楽器ならではの空間芸が見事だ。
ギターっぽくなくなって詰まらなくなっていなかったら、こういう面白さは聴かれ得ないのだろうな、と思う。
それをスカルラッティに聴きたいかどうかもまた、好き好き。
そもそも、ギターっぽいって何、って自分で疑問なくらいなのだから、前提が目茶苦茶で、お話にもならない。
否、ならない様に聴かなきゃいけない、という気持ちくらいはあるか。
問題は、臆面もなく言うことの方にある。
いま、まさに、ここに書かれてある様に。