CD:ジョン・カミツカのバッハ、ゴルトベルク変奏曲。
ジョン・カミツカの演奏で、バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いた。
気持ちに能力が追い付いていないと聴くか、果敢に挑んだ記録と取るか、その受け取り方の違いこそが、人格の個体差というべきものの気がして、全く、試されているのは演者ではなくて聴き手じゃないか。
そんな気がするバッハだ。
グールドという天才は、ピアノという楽器がピアニスティックに響くのを意固地な程に嫌っている様に見える人だった。
その結果、ピアノという楽器のメカニズムに最大限に依存する奏法を身に付けて、終いには、その技の方に自らを寄せてしまった人にも見える。
それがバッハの為になったのか、グールドの為にバッハが選ばれたのかは、ちょっと怪しい力関係にある気がして、強いて言うなら、僕にはグールドのエキセントリックというものが、その緊張感の中にこそあると思われる。
ジョン・カミツカは、全く、その延長線上にバッハを弾いている。
それが惰性か、或いは新機軸かは分からないけれども、発明品のよき愛用者には違いないな、と聴いていて思った。
誰だって、先人の大発明は無視できないし、その恩恵に預かるのは、寧ろ、後人の良心だと言いたいくらいだ。
ノン・レガートのパレード。
繰り返しを排し、箏曲を速弾きする様なスリルがあって、どうにも死に急ぐ、スピード狂のゴルトベルク変奏曲。
何があっても振り返らず、転げてもまた直ぐに立ち上がり、平然と逞しく駆け抜けて、行き着く先に響く第30番変奏が、夕映えの美しさを湛えるのも束の間、最期の最期に回帰する主題と共に、あっという間に没して終いだ。
サムライ、だね、この人のバッハは。
武士とも騎士とも違う、ノーブルさ。
こういうスピリットに触れてしまうと、好き嫌いなんてやくざな事は、余り言う気も起こらないのだけれども、同時に、なんでもかんでも精神論に持ち込む滑稽さというものもまた自分の中に湧いて来て、急かしかったのは演奏だったのか、聴き手の心理だったのかも怪しくなって、いよいよ聴きものとなり、飽きる所が見当たらなかった。
そうやって、にわかに結成された運命共同体とでも言うべきものの内側で、奏楽を聴いていた。
無反省にバッハを聴いた、という事になるのだと思う。
一つの作品に対して、様々な演奏家の色々の解釈に容易にアクセス出来る世の中にあっては、聴き手もどこか比較学的な耳になって来て、異質なものへの理解を示したり、客観的な物差しが欲しくなったり、云々、演者の進歩に劣らず変容し続けている。
それで、耳の構造まで変わったかは分からないけど、運用方針の方は、脳髄の方で仕切りに軌道修正がかけられていくから、昨日の様には、今日はもう、音楽を無頓着には楽しめない。
大衆が全体主義に呑み込まれる愚を、一人の善良な聴き手として、行い難くなって往く。
理解しなくちゃ気が済まない、把握出来なきゃ不安が募る、そんな拡大主義に飲み干されそうになって来る。
進歩に歩調を合わせて、病理の方もまた日々アップデートされるのを、僕らは、レコードという定点から学ぶのだ。
無反省に聴くとは、まぁ、そんな考えが頭をよぎるのにまかせて、音楽ではなくて、こちらの方がどんどんと流されて往く、くらいの事だと思っている。
私という定点を、音楽が流れて往くのではなくて、流されるのは、何時だって、こちらの方なのだ。
そういう感覚を失わない事が、大衆の無反省というものだと、バッハを聴いて再認した。
無反省を無自覚にやってられなくなって来た時、音楽が輝くのか、精彩を欠くのかは、市井の耳には、無縁だな。
そんな自意識が枷となるのが億劫だからだ、同じレコードを繰り返し聴かないで、演者をとっかえひっかえして、音盤の大海原へと漕ぎ出でる。
勇敢な冒険じゃなく逃避行。
定点を曖昧にして、世界を相対的に曖昧なものとして受容したくなる。
ジョン・カミツカのバッハを、僕は今日、そんな風に聴きました。
明日は明日の風が吹くでしょう。
その確率は100%だ。
芯がないから、ぶれてばっかり。
自走装置もないから、風次第。
際限もなく変奏を重ねた挙げ句に、主題に平然と回帰する、バッハの強靭さが神々しい。
それでも、誰にも母港はあるのでしょう。
帰る甲斐性がないだけで。