CD:第九を聴いて
交響曲第9番を作曲していた頃のベートーヴェンは、既に聴覚はまともに機能していなかった、という事になっている。
だから、本当の所、ベートーヴェンは、自分がどの様な音楽を書いたのか、或いは、思った通りに書けていたのかには、怪しいものがあったとしても不思議はない、不遜にもそんな事を考えてしまった。
朝比奈隆、最後のベートーヴェン交響曲全集の録音で、第九を聴いた折に。
90歳を越えた朝比奈さんのベートーヴェンは、もう大風呂敷を拡げただけの様な采配で、異端というよりは、寧ろ、異様と言った方がよいくらいの演奏となっている。
指揮者の意識が、この演奏をどこまで正確に掌握していたのかは、ちょっと怪しいのではないかな、そんな印象を受けた。
私は、ベートーヴェンの交響曲第9番は、正直に言うと、聴いていて余り好い心地がしない口なのだけれども、この演奏は、聴いていて、相当に居心地が好い。
それは、あんまりベートーヴェン風じゃないからだ。
多分、とても真剣に、誠実に、生真面目に、色々なものが破綻して、それでも、否、それ故に、泰然とある。
勿論、実際には、作家も演者も、こちらの想像の及びも寄らない鋭利な才覚に裏打ちされて、正確に自分の仕業を把握していたのだろうけれども、どちらの仕事も、音楽家の本分を少々逸脱した所に成立していやしまいか。
取り繕いもせず、音楽は、流れていく。
ベートーヴェンのラスト・シンフォニーは、そもそもが異形の音楽であるし、朝比奈隆もまた伝統の蚊帳の外、辺境も最果てで歴史を築いた指揮者であるから、単に、こちらが過度に異風なものを期待して、勢い聴き方が歪になっているだけ、と考えた方が健全かも知れない。
それならそれで嬉しい事だ、そんな風にも私は思う。
仏陀の教えが大和心に歪められてなお、よくも耐えるくらいには、楽聖の音楽もまた、堅牢であっても構うまい。
僕らの誤解が、どうして世の中を貧しくする一方だと、断言しえようか。
勿論、豊かにするなどとどうして断じ得よう。
ただ、少しばかり、裾野が広がったというまでの話だ。
人間が決して正解を掴めないという現実は、学問が精緻になればなる程に、却って、疑いようはなくなって往く様である。
或いは、全面解決目前の停滞期を、僕らは惑うているだけなのかも知れない。
それでも人は、様々な事に決着をつけねばならない。
仕事にも、人生にも。
未決であっても、着地をせずには済まされない。
朝比奈隆の第九にある居心地の好さは、ベートーヴェンに着地しない所にある、そんな気がした。
この音楽、ベートーヴェン自身も、どうにも決着がつかなかった様にも見える。
3つの楽章を退けるあの歓喜の最終楽章も、大団円を描いている様で、その実、着地を徹頭徹尾拒んでいる。
朝比奈隆も、譜面に忠実を徹底した先に、全く作曲家からも音楽からも離れてしまった様だ。
ベートーヴェンが、少しずつ、我々の前から消えて行く。
日本では、年末に第九を聴くのが、恒例となっている。
それは馬鹿げた慣習とも映るけど、年越しの大祓の異形とでも言えようか。
誰の演奏でもそうなるのかは分からないけれども、音楽を鑑賞するというよりは、儀式を眺める様な、トリップ感だ。
僕らは、きっと、ベートーヴェンを聴いていない。
ベートーヴェンを介在して体験している。
それが何かを明らめないのが、伝統を生むコツである。
ニューヨークなりロンドンなりに行って、現地で人気の寿司を頼むと、多くの日本人には悪い冗談とも思われる様な、不思議な体裁の食べ物が目白押しなのだそうだ。
和食が世界を席巻する事はない。
世界が和食を取り込むまでだ。
それは、時にカテゴライズをも破壊するイギョウとなって現れる。
歴史に立ち会うとは、案外に、面喰らう事なのかも知れないな。
前世紀の最後の年の瀬に、大阪で響いた第九は、きっとそんなモニュメントだ。
尤も、日本人の本物志向は病的だから、定食屋のナポリタン的なベートーヴェンは、この先、急速に失われるに違いない。
それでも、年末に第九を聴く度に、僕らの大和心は蘇る。
そんな出鱈目を延々と考えた。
やっぱり、第九は長いから。
儀式は無駄に長いくらいが厳かだ。