CD:『オン・アーリー・ミュージック』フランチェスコ・トリスターノ

フランチェスコ・トリスターノの来日は、延期の末に中止になってしまったけれども、久方振りの新譜は、その落胆を埋めてくれる様な素晴らしい内容となっていた。

否、とっても素晴らしいだけに、今のトリスターノをライヴで聴けなくなった落胆は、一層、増してしまったかも知れない。

それくらい、今回のアルバムは好くって、新境地が拓かれている様な気がした。


アーリーとコンテンポラリーをミックスしたアルバムは、世の中には既に一定数あるし、そういう意欲的な音楽をやる人は、大抵、優れた才能に恵まれて、意識も高い人達だから、そもそも、素晴らしい出来になるのがスタンダードではあるのだけれども、その中にあっても、これだけ見事にボーダーレスな出来映えを示したものは、中々ないんじゃないかな、と思う。

トリスターノが弾く古楽は、何時だってそれ自体がコンテンポラリー性を帯びていて、今の時代にこの人にしか奏で得ない音楽であり続けて来た。

古楽を現代に甦生するなんていうものじゃあなくって、今日の音楽として生成されたものであり続けて来た。

ただ、『オン・アーリー・ミュージック』は、昔の音楽を今やる意味、という様なものから抜け出して、そもそも、現代とは何か、というより本質的な領域へと踏み込んでいる様に聴こえてならない。

勿論、こちらが一方的に、その様なテーゼに取り憑かれているだけとも限らないのだけれども、それじゃあ、そんな憑き物に付き合ってくれるアルバムが他にあるかと言えば、そうあるものとも思えない。


いかなる時代も今日性を帯びている。

それは、現代に通ずるものがある、という事ではなくて、現代である(あった)という事だ。

僕らは、平生、今日の今日性に縛られているから、現代とは何かが、却って怪しくなっている。

今日という日が、当たり前に現代である様に、現代ではなかった今日という日を、人類は一度も経験した事がない。

今日は明日には昨日となるが、時代の最先端は常に今日であり続ける、という今日性が現代を担保する、という素朴な原理を見失う。

1世紀前の人間が1世紀前の時代に縛られているという事は、僕らが現代にがんじがらめにされている事と変わりがない。

それは、未来を予見する力がない、という様な意味ではない。

そんなものは、何時の時代にもあったものだ。

現代から今日を切り離して見れば、それでよい。

過去を振り返る今日を、今日性に縛られて生きるならば、それは確かに現代である。

しかし、今日の方に縛られて、今日性を失って過去を振り返るならば、或いは未来を予見するならば、僕らが生きているのは、既に歴史の中となる。

それは、余りに素朴な実感だから、却って言葉にするのが難しいのかも知れない。

時代が進むベクトルと、歴史が進むベクトルが、常に逆方向を向いている中で、僕らが歴史に突き当たるには、今日から現代を捨て去らねば上手くない。

或いは、歴史に現代を還してやる事だ。


トリスターノの演奏で、古の作家の音楽を聴いていると、そこには確かに今日性がある。

それは、古い音楽の中に今日にも通用する何かがある、という様なもんじゃない。

今日の方に古い音楽にも通用する何かがあった、と言うべきものだ。

見出だされたのは今日の方であって、古典の方が今日に現代を認めたまでだ。

流行が過ぎるのではない。

過ぎるのは、何時だって、僕らの方だ。

それは、地動説が当たり前に分かった所で、実際に、昇るのも沈むのも太陽の方であって、我々を軸に太陽が廻って見えるのはちっとも変わらない、そういう感覚からの脱却に、近いものかも知れない。

コペルニクス的な時代観、そういうものが、古楽の世界でも起こりつつある。

そんな音楽に、フランチェスコ・トリスターノのピアノが、僕には聴こえる。

僕らが古人を嗤えないくらいには、未来人にも今日という時代を嗤わせまい。

『オン・アーリー・ミュージック』を聴いてあて、漠然とそんな事を考えた。

とても本能的で躍動に満ちた音楽であったからこそ、こんなにも観念的に聴いたのだと思う。

どうして、僕らは何時でも現代を独占してしまうのか、と考えざるを得なかった。

誰もが何時でも今日という日を生きている。そして、生きて来た。

その今日性を、僕らは我が物顔で享受する。

それが、少し傲慢な事に思われた。

そのくらい、トリスターノの古楽への眼差しには敬虔なものがある様な気がしてならないのだ。

この敬虔さには、考証学が持つ真摯で誠実な精神にも、決して劣りはしないでしょう? 


レコードというものは、何時だって、こちらの意図などはお構いなしに、人間から見れば無意識、無自覚に、その時代を刻んでいる。

それから免れ得る人はいない。

寧ろ、無頓着であればあるほどに、その時代のカラーを帯びる。

そのアイロニーこそが、旧いレコードを却って面白くもするし、また新しい意味を次々に生み出す事になるのだけれども、その手柄は、発見者のものでもない。

トリスターノのアルバムにも、僕らには思いもよらない発見が、この先、幾らもあるだろう。

僕らには感じ得ない、僕らの生きた時代のカラーが、次々に見出だされていくに違いない。

時代を越える名盤というのは、痛烈にその時代を投影したものであり、言わば、その時代にきちんと縛られたもの、もっと綺麗に言えば、その時代を作り出したものだ。

だから、僕にはこのトリスターノの新作が、不朽の名盤かは、ちっとも分からない。

朽ちるか否かは、未だ出でぬ人達にとっての現代の問題だから、それを僕らが兎や角言う謂れがない。

それくらいには、僕らは今日に生きざるを得ぬし、それくらいには、『オン・アーリー・ミュージック』は今様なレコードだ。
 

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