ことば
高校生の頃、現代文の教科書に、小林秀雄の「ことば」という作品が収録されていた。
授業では取り上げられなかったし、担当の教諭は、小林秀雄があまりお好きでもなかったようだ。
だから、勝手に読んでみたのだけれども、まぁ、半分も分からない様な短文だったと記憶している。
民主主義とデモクラシーは違う、みたいな事が書かれていたのではなかったかな。
埃を被って眠ったままの、古い小林秀雄全集を紐解いて、確認してみればよいのだけれども、それをしてしまうと、あの頃に受けた鮮烈な印象が、色褪せてしまう様な気がして、どうにも紐解き難いものがある。
ステイ・ホームとか、ゴートゥーキャンペーンとか、そういう言葉が当世気質であるのを見て、何故、わざわざ英語にするのか、という意見も散見するし、正しい英語表現ではない、という指摘もある。
けれども、こういう言葉が、全く日本語らしい日本語なのだ、と言い切る人は、不明にして知らない。
僕は、こういう横文字というのは、殆ど純正な日本語なんじゃないかと思うのだ。
和製英語なんて、そんなインターナショナルな言葉をあてがうまでもなく、僕らの文化にすっかり取り込まれた言葉だと感じている。
もし、それが言葉の乱れというならば、言葉というものは、発明されて以来、一貫して乱れたものだ。
大正モダンは遥か彼方、昭和もすっかりレトロな時代には、その時代の身の丈にあった言葉が交わされる。
そして、平成も令和もすっかり懐かしくなった頃には、ウィズコロナの言葉の流儀も、すっかり郷愁を帯びるに相違ない。
ビフテキとかハンケチとか、金平糖とかどんたくとか、そんな言葉に並べて、オーバーシュートとかロックダウンなんて言葉が生き残れる可能性は低そうであるけれども、そういう生まれては消えていく言葉の残骸の上にあるかぎり、言葉の奥行きは担保されるのではないのかな。
僕らは言葉を弄んでいる様でいて、実際には言葉の方が僕らを翻弄する主体なのだと気がつくと、人間は言葉によって発明された欠陥品だと見えてくる。
こんなにもけなげな生物は、地球上には、僅かに人類のみだろう。
言語とは即ちゲノムなり。
ふと、そんな迷信が頭を過る。
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