映画『MINAMATA』

この映画の美しさの8割は、青木柚が担っている、そんな気がした。

毎年、NHKが製作する大河ドラマに対して、史実に反している、という抗議の声は一定数あるそうだ。

それに対して、大河ドラマはフィクションであるのだから、抗議をするのはおかしい、という人も、また多い。

そんな水掛論を他所に、テレビドラマの演出を、すっかり史実と信じて疑わない人だっているだろう。

そもそも、考えてみれば、歴史というものは、どんなに事実を積み重ねた所で、現にその時を生きた人からしたら、きっと、悪い冗談に違いない。

生きれば生きただけ、事実と記憶には、それだけ齟齬も生じるのだから、時には、記録に合致しない記憶の方を頼りに、人は生きてもいる。

正しさよりも、想い出の方に傾く事こそが、今日という現実を担保する、なんて倒錯も茶飯事だ。

生きている、という現実の前には、事実は容易に虚構に劣るものとも限らない。

映画『MINAMATA』が突き付けるものは、プロパガンダやヒストリーとない交ぜにされたフィクションを観る作法、という気もするし、そんなに理知的なものでもない感覚もあるにはあった。

テレビドラマが描く本能寺の変を面白がる様に、この映画を面白がる事に全く後ろめたさがない、と言い切れないものが、多分、ある。

それは単に、遠い歴史と近い歴史との差異、もっと言えば、当事者が生きているか死んでいるかの問題だ、と言い切るのも、少々、違う。

公害への理解を深める上でのミスリードとなるものだと言おうが、よい入り口だろうと言おうが、それは殆んど同じ事で、純粋に映画として評すれば、なんて言ったって、それすら大差のない事と思われる。

判然としない靄がある。

それ以上の事は、私には分からなかった。

そして、その靄を晴らしてくれる者が、果たしてあるのか、今もって分からない。

ただ、青木柚が演じる水俣病患者の青年だけが、僕には何か真実に思われた。

そして、恐らくは、この役柄こそは、ドラマのために演出された、最も恣意的な作り物に違いなかった。

故に、強烈なリアリズムがあったのか、それとも役者が偉かったのか、何れにせよ、全て一人でかっさらっていった。

かつて、ユージン・スミスが一枚のフォトグラフでやってのけた事を、青木柚という人にやられた様な気がした。

映画であれ、写真であれ、現実という、本来は容易には観るに耐えないものを、何とか可視化して、一面を垣間見せる事が役割なのだとしたならば、この映画は、確かにきちんと映画であったと言えるし、きちんと映画であったという事は、紛れもなく嘘であったという事でもある。

ただ、被写体は、どんなイデオロギーも纏ってはいなかった。

それは、撮る人、そして、観る者の方にこそ、まとわりつくものだ。

そういう役者が画面にあった。

ただ、それだけが、鮮烈に確かな記憶として、残っている。

そして、何より、その確かさこそは、最も事実からは遠い所にあるものだ。

今日を生きている自分という現実を、担保してくれるものは虚構である。

精緻なルポルタージュは、安易なフィクションよりも、嘘つきという点では質が悪い。

そこに悪意がなければないほどに、悪い。

映画『MINAMATA』は、ルポルタージュでもドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、エンターテイメントだ。

勿論、現実でもないものだ。

非現実なしには生きられないもの、案外に人間とは、考える葦であるよりも、夢想する葦という方が近いのかも知れない。

きっと葦にも考えはある。

けれども、夢があるかは分からない。

少なくとも、現実しか知らない者には、どうも人間は務まらない様だ。

そんな事を考えさせられる、映画であった。

そして、何時しか買って、積んだままになっていた、『苦海浄土』の読み時も、ついに来たらしい。

あらゆるものがリンクする。

それが現実というものの本質なのだとしたら、際限なく繋げて途方に暮れてみる事だ。

事実と虚構との境界線が確かであればある程に、それは見損なうという事になる。

僕らが思っているよりも、遥かに歴史は神話であった。

今日は兎も角、昨日は既に神代に呑まれたと思った方がよい。

そんな幻想的な世界を、僕らはリアルに生きている。

『MINAMATA』という映画を観なければ、僕は、そんな簡単な道理にも気が付かずに、平然と生きていく事になったかも知れない。

だから、映画としてよい作品だったのかは分からないけど、観られた事は好運だった。

そして、この映画の主役は、やっぱり、青木柚であったと思う。

そういう観方をせざるを得ない自分があった、という方がより正確だ。

そして、私の眼には、彼は余りに美しかった。

その美しさの根源は、もしかしたら、映画そのものの中のにはなくて、水俣病に対する同情が強く作用したからに過ぎないかも知れない。

それが、エンターテイメントの作り方として狡いのなら、きっとこの映画はとっても狡い作品だ。

それでも、その狡さが、際限もなく、僕らを現実へと向き合わせるのならば、最高じゃあないかとも思う。

よい映画である必要など、最早、ないのかも知れない。

テーマが重ければ、当然、画を覆う雰囲気も重い。

「写真は撮る者の魂の一部も奪い去る」

映画の中で、ユージン・スミスは、写真は魂を奪うものだと考えた先住民を引き合いに出して、撮る者もまた無きずではいられない、と言う。

帰り際、一部パンフレットを買おうと思ったら、既に売り切れだった。

映画は観る者の魂の一部も奪い去る。

この映画に、そう思った人は、きっと少なくなかったに違いない。

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